My Fair Lady 3
俺たちが乗り込んだのを確認すると、魁皇町行きのバスはゆっくりと発進した。
俺は適当に空いている席を見つけると、其処に重たい腰を下ろす。隣を見ると、まだ余裕のあるスペースにセシルさんが座った。そのまま俺は少しだけ奥の方に身体を動かした。
バスの中を見回してみると、何時もに比べて心持ち混んでいるようだった。しかし、こうして椅子に座れた以上、それは特段気にする事でもない。それに、混んでいるといっても他に席が空いていないという訳でもなく、何時もと比べて混んでいる、という程度のものだ。俺はとりあえず息を吐くと、走り出したバスの窓の外を眺めた。
「……降り始めてきちゃったな」
最近の天気予報の当たらなさ具合を憂いつつ、俺はセシルさんの方を向く。セシルさんはぼーっと前の方を見つめていたが、俺の視線に気づくと、視線を俺に向けた。
「別に、これぐらいの雨なら濡れても平気ではないか?」
「いやいや、この雨は明らかにずぶ濡れコースまっしぐらだよ。バス停から家まで距離はないけど、やっぱり明日もあるしさ」
実際、外の雨はセシルが言うような、一般的に言える所の“これぐらい”の雨ではない。傘がない時に昇降口で出くわしたら、一瞬歩き出すのを躊躇ってしまうぐらいの強さの雨だ。流石に心配性の俺でも、小雨如きの弱さに億劫な気分にはならないさ。
「ん。濡れたなら洗濯すればいいじゃないか。どうせ洗うなら、多少濡れていても変わらないだろう」
「……単純明快かつモアベターな回答をありがとう。この回答を一生の教訓として胸に刻んでおく」
――ていうか、その洗濯は俺がやるんですけどねっ!
そんな言葉がセシルさんに言える筈もなく、俺は視線を再び窓の外に向ける。無論、雨の勢いは変わらない。寧ろ強くなっているくらいだ。まぁ、止まないものはしょうがない。帰ったら晩御飯の支度もするようだし、今は少し静かに休もうか。
「……」
「…………」
「………………」
――ダメだダメだっ! この沈黙に耐えらんねぇ!
頭を軽く揺すり、俺は正気を保つ事に集中する。駄目だ。どうしてもセシルさんのデートしているみたいだって言葉が頭にこびり付いて離れない。何時もだったら何の遠慮もなく無言で二、三時間くらいはいけるのに、今はセシルさんの言葉が頭ん中に反復して沈黙に耐えられそうになかった。
――確信犯じゃ……ないよね、そんな訳ないよね。
だるそうに前を見つめているセシルさんを見れば、確信犯ではない事は確かだ。だから余計に悪質なんだ。無意識にそんなチョコより甘い言葉を吐ける奴なんて、俺の知る限りでは一人も存在しない。
しかしまぁ、こんな超絶美人のセシルさんには恐らく俺なんて眼中とか寧ろ男としても見てないだろうし、正直ここら辺は、俺の気持ちの持ち様なのかも知れん。
そういう風に気持ちを整理すると、心持ち頭の方は落ち着いてきた。そして序でに、どうにも抗い辛い眠気も襲ってきた。
「ん? なんだ信介君。眠たいのか?」
眠気に翻弄されてこっくりこっくりやってると、何時の間にかセシルさんが俺の顔を覗き込んでいた。俺は大きな欠伸をしながら、一度だけ頷いた。
「多少ね。それでお願いなんだけど、少し眠るから家の近くに来たら起こして欲しい」
「分かっている。疲れているなら、そのまま寝ていてもいい。最近は大分頑張っているからな。それに君は家に帰ってもやる事がたくさんあるようだし」
構わないか……それならまぁ、お言葉に甘えてしまおうか。正直最近は疲れと苛立ちで、あんまり夜は眠れないし。
腕を組んで目を閉じ、思考を停止させる。ここ最近考え詰めていた事、それよりも前から考え詰めていた事。今は少し忘れよう。とりあえず今は、こうして何も考えずに目を閉じているのが、堪らなく心地良い。これなら、結構良い感じで眠ってしまいそうだ。
――そういや、二年になってからまともに寝れた事なんてなかったな……。
五月になってセシルさんとアルフレッドさんに初めて出会って、吸血鬼の存在を知って、そんで文化祭で吸血鬼に襲われて、夏休みになったら四季の後輩を捜してる。ははは……。これじゃあ確かにまともに睡眠なんて出来るはずねぇわ。
大きな欠伸が口から溢れ、それを噛み殺すように俺は口を閉じる。ああ。変な事を考えてたら、本当に瞼が開かなくなってきた。
もう良いや、寝よう。寝ちまおう。身体だって大分擦り減ってる。神経は言わずもがなだ。それに、たったの数十分くらい寝たって、神様はきっと怒らないだろう。これで怒るような神様なら、きっと俺に取り憑いた死神か厄病神かなんかだ。どちらにしろだったら関係ない。
――願わくば、儚くも心地よい安らぎの眠りを。
柄にもない事を考えてながら、俺は大きく、そして静かに意識を出来るだけ下へ下へと沈めていった。
雨が降っていた。
黒い雨。そして長い雨。
黒い黒い、そして長い長い雨が、小さな窓の外で犇めき合っていた。
――どうしてだろう?
――どうしてだろう?
――どうしてだろう?
どうして此処は、こんなにも暑い空気なんだろうか? どうして此処は、こんなにも冷たい地面なんだろうか?
心の声。そのはずなのに、何故か自分の声が耳から、口から、むしろ体中から聞こえてくる。身体中から生える産毛のように一本一本が絡みついて、揺らいで、そして蝕んでいる。
――俺は一体、どうしてしまったんだろう?
視線が定まっていない。上、下、右、左、正面、背面。まるで身体中が目になったようだ。まるで世界の道理と摂理の全てが見える気さえする。
「君には、永遠に安らぎなんて、訪れないんだよ」
冷たい地面。
暖かい雨。
燃えるような身体。
俺は永遠に、もしくは刹那に立ち尽くしている。震える足を堪えて、それでも目の前の何かの声を聞き続けている。誰かは良く分からない。ただ知らないだけだ。
俺の手には、何時の間にか固く、重く、冷たい銃が握られていた。
引き金に指がかかっている。身体は、それでも動こうとしない。まるで俺の意識の外で、勝手に身体が動いているような錯覚。身体に大きな鎖が巻かれているような束縛。これは、俺自身ではない別の誰かように呼吸を続けていた。
――誰かの記憶。
それは違う。この身体は紛れもなく俺の身体であって、決して誰かの身体ではない。
――誰かの身体。
それも違う。この意識は紛れもなく俺の意識であって、決して誰かの意識ではない。
――誰かの意識。
……違う。違うとしか言いようがない。当たっていないのだから、違うとしか言いようがない。
――誰かの記憶で、誰かの身体で、誰かの意識の中に今俺は存在している。
……違う。存在は誰かに依存して生じるものではなく、自分自身が居て初めて生じるものだ。
次の瞬間、身体中に憎悪の光が突き刺さる。数百とも、数千とも思えるような醜悪な燃える憎悪。それ自体に意識があり、俺の全てを凌辱するように次第に身体を蝕んでゆく。
「お前ではなかった。それだけの事だった」
声が聞こえる。俺以外の声。この世界において、俺以外に存在してはいけないはずだった声。
誰だ、お前は。
「……だが、良い時間潰しにはなった。お前の悪足掻き、確かに、確かな躍動を感じられた」
誰なんだ、お前は。
「では、次の舞台でまた会おう。また君が主演で、私が悪役で。君としては、今度も彼女にヒロインを務めてもらいたいのかな? ……ふふ。君には、永遠に安らぎなんて、訪れないんだよ」
足元が崩れる。身体が、闇の底へと落ちてゆく。叫び声が木霊する。身体が暗黒に包まれる。意識が遠のく。何処までも、何処までも。俺の存在は、遥かな虚空へと消えていく。
夢と言うのは、得てしてそういうものだ。
――………………
「……」
――…………
「……信」
――……
「……信介!」
突然の衝撃に、俺は思わず目を開く。どうやら暫く眠ってしまっていたようだ。その証拠に頭があまり回らなかった。
若干の気だるさを残し、俺は隣を向く。其処には、どういう訳か俺の服の袖口を握っている、ちょっと怖いくらいの顔をしているセシルさんの姿があった。
「あ、ゴメン……結構ぐっすり眠ってて、気づかなかった」
笑みを浮かべてセシルさんの方を向くが、セシルさんは微動だにせずに辺りの様子を窺っている。どうも様子がおかしい。俺が眠っている間に、バスの中で何かあったんだろうか?
「何かセシルさん、すっげぇおっかねぇ顔してるけど……ていうか、そろそろ家に着くの?」
目を擦りながら俺は口を開いてみる。セシルさんは俺の方をちらっと見ると、再び視線をバスの中に戻した。
「……いや、その事について、一つ訊ねたい事がある」
「訊ねたい事?」
訝しげにセシルさんに返事をし、俺はバスの中を見渡す。しかし、どうにもバスの中には変化を見受けられない。そして、それ以上にバスは先程と同様に静寂を保っており、セシルさんが何をそこまで気にしているのか、俺には全く分からなかった。
「どうかしたの?」
今度は思い切ってセシルさんの顔を覗き込んでみる。やっぱり、何かを気にしている。一体どうしたというんだ? このバスの中に吸血鬼がいるとでも言うのか。それにしちゃあ殺気も悪感も何も感じないし、それはちょっと考えられない。
「乗客を良く見てくれ。それと外にも」
そう言われてバスの中をもう一度隈なく見渡す。やはり、変わった点はない。皆さっきと一緒だ。先程と同様に皆静かに座り、先程と同様に皆平然としている。配置も変わっていない。むしろさっきからおかしい動きをしているのは、俺やセシルさんの方だ。
――……ん? さっきと一緒?
咄嗟に、頭の中に電気が走る。そこでようやく、セシルさんが言いたい事が少しずつ分かり始める。そして俺は、直ぐに不穏なものを感じ、今度はバスの外に視線を向ける。其処は確かに天枢町の街並みだ。そう、其処は確かに天枢町だった。
だが、俺は其処で、セシルさんが感じる違和感の原因を理解した。眠っていた頭をフル回転させる。よくよく考え、俺は二の一番に電光掲示板を確認する。……路線は確かに合っている。魁皇町行きだ。
「セシルさん、俺はどれくらい眠っていた? 出来れば正確に教えてほしい」
「……二十三分。駅から出た時間を含めれば、二十七分くらいだ」
――二十七分……それくらいの時間なら、どんなに道路が混んでいても、少なくとも天枢町からは離れている時間だ。
悪い予感がしてくる。どうにも慣れない、不安が内側から溢れて来るあの感覚。俺は、念のためにもう一度外を見る。……やっぱりだ。バスは天枢町から離れていない。
三十分弱、本来ならこの時間には魁皇町に到着していてもおかしくない時間だった。何か緊急事態でもあって、それでバスを何十分か停めていたとしたら……いや、それならセシルさんが分かる筈だ。仮に終点に着いて折り返していた、ならよっぽどの事ではない限り乗客は丸々入れ替わる。それに、どうして他の乗客は何も騒がない? 目的地に向かっていないのに、誰も何も言わないのは正直おかし過ぎる。
「セシルさんも眠っていた……なんて事はないよね?」
「駅から出てから今まで、一切眠ってはいない」
大きな愚問だった。第一、セシルさんは無意識に眠ってたとしても、俺なんかよりはそれこそ何倍も、何十倍も周りを警戒しているような気がする。それにそんな人間は、よほどくたくたにでもならなければ無意識に眠ったりはしないだろう。
「乗客は変わっていない。俺の勘違いかもしれないけど、誰も降りていないし乗ってもいない。……おかしいな。停車ボタンは?」
「既に何度も押している。だが、一向に停まる気配はない。停留所も先程からどうやら全て無視しているようだ」
おかしい。どうしようもなくおかしい。こんな所で吸血鬼が? 人が乗っているのにか? 文化祭の時より大分目立つぞ。……それとも、まさか、それは向こうにとっては既に解決済みの事なのか。
「……セシルさん」
無意識のうちに思考を切り替える。吸血鬼が現れた時のように、数回しか経験していないのに、何の造作もなく俺は思考を緊急時のものに切り替えていた。
「ん?」
意を決して俺は立ち上がる。相手が非常識なら、こちらが常識を纏って挑んでやる義理はない。文化祭の頃から思うようになったが、もしも吸血鬼ではないのなら、行った間違いは正せば良い。方法はいくらでもあるはずだ。だから一番してはいけないのは、非常識だと決め付けて、そのまま最悪の事態に身を置いてしまう事だ。
「周りの反応、よくよく注意して見ていて下さい。そういう注視に関しては、俺よりもセシルさんの方が上手でしょうから」
俺はそのままの勢いでドアの方へ歩いてゆく。バスは左右に揺れる。何も掴まずに歩くのは、それなりにしんどい。しかし、もしもこの違和感の元が吸血鬼なら、そいつ等に関わる方がよっぽどしんどい。ドアの前に着き、俺はぶら下がった手すりを左手でしっかりと掴む。これで幾分かはマシになった。これなら、多少身体が不安定になっても支えられる。
「……!?」
大きく足を振りかぶり、足に生じた渾身の力と慣性を、そのまま降車ドアにぶつける。同時に、バスのドアは大きな音を立て、俺の足に痺れるような反動を寄こしてくる。一発、二発、三発……。一頻り蹴り続け、十数発目でようやく俺は一息吐いた。。
「一体……ん? 信介君?」
セシルさんの声だけがバスの中に木霊する。他の乗客はこちらを見ようともしていない。そして俺は、セシルさんや他の乗客の方には目もくれず、すかさずバスの運転手の方を向いた。
「……セシルさん、とにかくこのバスから降りよう。どうやら俺達は、既に敵の術中にいるみたいだ」
バスの運転手は、何事もなかったように、前を向いて運転を続けていた。
「……確かに。この状況から判断すれば、完全に吸血鬼が仕掛けていると見て間違いない。ん、分かった。信介君。交代だ」
椅子から立ち上がり、俺を押し退けてセシルさんが前に出る。多分、セシルさんの蹴りなら、俺が蹴るより数段早くドアをぶっ壊す事が出来るはずだ。だから今はどっちかと言うと、そのドアの破片とかが道路に飛散しないかって事が心配だ。
「セシルさん、窓枠外すだけでいいからね」
「ん? ん」
ん、んって……。一応念押しはしといたけど、これはこれでめっちゃくちゃ不安だ。ていうか、こういう乗り物って、そう簡単に壊れないようになってるから、もしかしたら案外ドアは原形を保って……。
ドガコンッ!
――っくれないよね!
勢いよくドアがぶっ飛び、強い風がバスの中に吹き抜けてゆく。念のためにもう一度確認するが、バスの乗客は俺達の行動全く関心を示していないし、運転手は何食わぬ顔で運転を続けている。――異常。小さな違和感が、ようやく大きなものに昇華されてゆく。無表情、無関心、そして沈み切った静寂。ここに居る全てが人形のようで、ここに居る全てが静かな水の中に囚われているように見える。こんな事が出来るのは、改めて言うのも何だが、吸血鬼以外に存在していない。
強い風を受け、俺は顔をドアの方から背ける。そしてちらっと確認すると、バスの外は何時の間にか都市部を抜けて、絶対にバスが通らないような天枢町の住宅街の方に入っていた。
「信介君、降りるならさっさと降りた方が良い。このバス、私の予想だが、どんどん人気のない所にように向かっている気がする」
「確かに……この住宅街を抜けたら、結構な田舎道に入る。そこを抜けたら今度は山間部だ。それでもし山なんかに登られたら、それこそ逃げ道がなくなる」
「ちなみに聞くが、そこ等辺に何処か大きな建物はあるのか?」
「確か……極星グループの大きな工場だか何だかがあったと思う。でも、今は昔起こった地域住民とのトラブルとかで、使われていないよ」
荒れる風に髪を押さえ、セシルさんは険しい顔をする。それは、今まででは見た事もないくらい冷たくて、そして凍り付いた表情。俺の背筋に冷たい汗が流れた。
「思いつく限りの最低の場所だな……そんな所、よくもまぁ見つけたものだ」
一言そう呟き、セシルさんは素早く先程の席に戻り、荷物の中から何かを取り出し、それを強引にジーンズのポケットに押し込む。それは、セシルさんが闘う時に良く見る、あの黒い塊だった。
「無駄話をしてしまった。さっさとこのバスを降りよう」
セシルさんの方を振り返り、俺は大きく首を縦に振る。そうだ。セシルさんが言う通り、一刻も早くこのバスから降りなければ。幸い、まだ吸血鬼の姿は見えないし、乗客が動くような素振りもない。今しかない。この機を逃したら、本当に次は闘わなくちゃならないんだ。
「セシルさん、とりあえず俺、車から飛び降りるのは人生でこれが初めてだから、色々とサポート頼むわ」
「冗談を言っている場合か! ……拙いな。そろそろ本当に住宅が無くなって来た」
セシルさんの言葉通り、周りの景色がどんどん変わっている。本当に拙いな。これ、確実に時速六十キロ以上は出てるだろ。B級アクション映画じゃあるまいし、本当に打撲ぐらいで済むだろうか。
――ま、選択の余地はないけどさ。
恐る恐るドアの外を見てみるが、やはりこれはかなりの勇気がいる。確かに何度か危ない目にあって、感覚が麻痺ってる所もあるけど、やっぱり人間怖いもんは怖いもんで、俺はこれから起こるであろう痛みを想像し、当然の如くガタガタと震え始めていた。
「!? ――信介!!」
突然、セシルさんが大きな声を上げる。その視線の先は、俺を通り越して後ろの方。突然の事に驚き、どうしたのかと思って後ろを振り返ろうとした。
「!?」
瞬間、俺の身体は誰かに強く押され、その勢いで思い切り固めのバスの床に叩きつけられた。その衝撃で俺の意識が一瞬遠くの方に飛んでいく。同時に、今度は上から誰かに抑えつけられるような、そんな感覚を覚えた。
セシルさんが、先程ポケットに押し込んだ銃を抜いたのが視界に入った。……吸血鬼? まさか。あの静かな乗客の中で、息を潜めて機会を窺っていたのか。そんな馬鹿な。あの反吐が出るような殺意と存在感がしない吸血鬼なんて、そんなの全く計算外だ。
「おっと、迂闊に動かないでくれよ、“二艇拳銃”。まぁ、今君が銃を撃ったとしたら、彼の命は助からないのは分かっていると思うけどね。……それとも、やってみるかい? 彼の命と引き換えに」
「……くっ!」
頭の上から、聞き覚えのない男の声が聞こえる。そして、その声に促されるまま、セシルさんは抜いた銃を再び腰に戻した。
「話が分かるじゃないか。それじゃあ分かるついでに、そのままそこのドアからご退場願おうか。今から行く所に、君が居るとちょっと邪魔になってね」
何も言わずにセシルさんは立ち上がり、そして俺と、俺の上に居る男の方を見つめると、なびく髪も押さえずに壊したドアの前に立った。
「せ、セシ……」
――……くっ。
抑えつけられた時に胸を打ったせいか、声が上手く出ない。せめて、工場のある場所くらいなら教えられると思ったのに、畜生。こんな時に限って……! 俺は指に感覚がなくなるほど、強く拳を握った。
「……渡し……だ」
振り向きもせずに、セシルさんが口を開く。言葉は風に掻き消され、殆んど聞こえない。しかし、それでも俺は、必死に耳を澄まし、セシルさんの声を聞く事だけに意識を集中した。
「渡したはずだ。それなら、どうにかなるかもしれない」
「ははは。恋人との与太話はその辺にしてくれ。それともこのまま、目的地まで乗る気なのかい?」
「……いや、だが覚えておけ、吸血鬼。例え私が居なくとも、貴様が抑えつけている彼は、既に何度か吸血鬼から生き延びている」
そう言い残し、セシルさんはそのまま床を蹴ってバスの外に飛び出す。外で何かが転がる音がする。遠く、遠く。その音が消え、空気の流れが変わり、僅かな彼女の香りを残して、そして消えていった。
「……セシル!!」
今となっては、遅すぎる悲鳴だった。