My Fair Lady 2
そんなこんなで、夏休みが始まってからあっという間に一週間が経っていた。
今日も今日とて何も収穫がなく、ただただ大きな溜め息と失望の言葉を漏らしながら、俺達は天枢町駅の地下にあるファーストフード店で遅めの昼食を取っていた。時間は午後四時前。不本意ながら、今日もこれで探索は打ち切りだろう。本当に四季の後輩はどこに行っちまったんだ。
「はぁ……」
夏休みになって、何度溜め息を吐いたか分からない。心なしか身体も重いし、イライラも溜まってる。ここまで来ると、一週間一体自分は何をやってたんだか、だんだん分からなくなってきた。
「ん。大分疲れが溜まっているんじゃないか?」
俺の目の前に座るセシルさんが涼しい顔で口を開く。流石というかなんというか、セシルさんはこういう一日中歩き回るような事は慣れているらしく、一週間経ってもまるでへばるような気配はなかった。いや、勿論俺が体力がないだけかも知れないが、それにしたってセシルさんの体力は純粋に凄いと思う。
ちなみに、今日のセシルさんは何時ものような全身真っ黒な服装ではない。シンプルなプリントが入った純白のティーシャツに七分のスキニ―デニム、そして頭には銀色の目立つ髪を隠すような、底の深いキャスケットを被っていた。無論、これは俺の持っている服ではなく、全て初日にセシルさんのために揃えたものだ。おかげで俺の財布はあっという間に氷河期になったが、本人がこうして抵抗なく着てくれるなら、これはこれで良かっただろう。
「一週間歩きっぱなしだからなぁ。俺はセシルさんが疲れてない方がおかしいと思うぞ」
テーブルに頬杖を突き、フォークを銜えるという最高に行儀の悪い格好をしながら、俺はセシルさんに返事をする。本当ならテーブルに突っ伏してやりたい所だが、それは流石に止めておこう。
「それは君の歩く速さが遅いからだ。お節介だが、君はもう少し体力をつけた方がいいぞ」
「……あのね。一応言っとくけど、セシルさんの歩くスピードに合わせたら俺はもう軽く小走りになるんだぜ? この暑さで走ったりしたら帰る頃には余裕で昇天してる」
実際、あの人混みをどうやったらあんなに速く歩けるのかと思うくらい、セシルさんの歩くスピードは速い。マラソンとかではあるまいし、そんなスピードなんかに一凡人の俺が付いていけるはずがない。
「まぁ、それはそうと何度も聞くが、本当にずっとここを探すつもりか? 今日で一週間経つが、全くと言っていいほど手掛かりはなかったぞ?」
「……うん。とりあえず、彼女の家はこの街の郊外だし、それに、この街の人口密度はここいらでは圧倒的だからなぁ。やっぱり、探すのはここが最適な気がする。確かに学校の近くとか色々考えたけど、もう夏休みだし……」
実際問題、俺だって本当に此処を探索し続けるのがベストなのかは分からないんだ。それに他の場所を探すと言ったって、初対面の人間を捜すのに、見当の付く所なんてものは無いに等しいと思う。
眉を顰めて立ち上がり、俺とセシルさんは何時ものように長居する事なく外に出る。セシルさんは鬱屈そうに身体を伸ばすと、そのまま大きな欠伸をした。
「それじゃ、今日もぼちぼち帰ろうか。もう少しするとバスも混み始めるだろうし」
「ん。そうだな。私も早く君の夕飯が食べたいし、それに父上もそろそろ帰る頃だろうから」
「ははは……。たった今飯食べて、まだ貴方は食う気デスか? っていうか、アルフレッドさんも今日は出掛けてるの?」
「君が知らないだけで、父上は結構出掛けている。まぁ、それは大した問題ではない。それよりも重要なのはだ、私は今夜こそは素麺以外のものを食べたいという事だ。ここ最近、君はこってりしたものを全くと言って良いほど作ってくれない。文句を言う気はないが、正直夕飯が素麺だけだと言うのは堪えるものがある」
「はいはい。でも暑いから、俺はなるべく素麺とか素麺とか、軽めのものが……」
猛禽類が獲物を射抜くような視線を向けられ、俺はため息交じりでセシルさんに肯く。そりゃ確かに、ここ数日の夕食は素麺というお手軽料理のみで、結構な手抜きだったのは認めるが、この時期に素麺ばっかり食うのが良くも悪くもこれも日本の一つの伝統なのだ。まぁ、言った所で分かってくれる訳もないが。
「まだ時間があるなぁ……」
時刻表を見ると、どうやら前のバスはつい五分ほど前に出てしまったようだ。次のバスまでの十分間、一体何をして過ごそうか。
バッグをベンチに置き、俺はその隣に腰掛けた。とりあえず、十分くらいならぼーっとしていよう。運が良けりゃ早く乗れるし、その方が何だか気楽だ。
「しかしなんだ」
無心に行き交う通行人を眺めていると、セシルさんは空いていたベンチのスペースに腰を下ろす。そして煩わしそうに帽子を取ると、アップにしていた髪を解いた。
「こうやって君と町を歩いていると、まるで君とデートをしているような気分になるな」
卒倒しそうになるのを必死に堪え、俺は思わずセシルさんの方を向く。ていうかこの美人さん、しんみりとした口調でとんでもない事を口走りやがった。
「ま、まぁデートにしちゃあ、さっぱり色気のない感じだけどね」
顔をそらし、俺は必死に取り繕うように言った。恐らく、俺の顔はまだ見ぬ今日の夕焼けよりも紅潮し、心臓はフルマラソンを走り切ったランナーよりも動悸が激しくなっているだろう。言わずもがな、こんな超絶美人にこんな事を言われたら、男なら誰しも俺と同じ症状になるだろう。本当、我ながら吃驚だ。
「そういえば、こうしてゆっくり二人きりで話す事なんて今まで無かったしな。何時も居間には叔父さんやアルフレッドさんが居たし、学園祭の時は吸血鬼がどうこうで忙しかったし……」
喋っていて思ったが、自分自身何が言いたいのかさっぱり分からない。とりあえず間を持たせるために口を開いたは良いものの、この一種の病気である動悸のせいで、頭はさっぱり回転してくれなかった。というか、とりあえず落ち着け、俺。
「そ、それにさ、こうやってセシルさんと出掛ける用事も今まで無かった訳だし、実際こうやって歩いてみると――」
「信介!!」
セシルさんは咄嗟に俺の言葉を遮り、俺を制するように右手を翳した。
「せ、セシルさん?」
今までの穏やかな空気を振り払い、セシルさんは遠くの方を注視する。思わず同じ方を見るが、そこには特に何があるような気配はなかった。
「どうしたんだよ、いきなり真面目な顔して……」
「信介君。吸血鬼の――何か変な感覚はないか?」
「何か……って?」
「……いや、何でもない。君が何も感じないなら、それはそういう事だ」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、セシルさんはそれ以降何を話すでもなく、ずっと視線を遠くに向けている。その表情には、ここ数日中に見せていたあの穏やかなものはなかった。
「あ……」
目の前のバス停に、魁皇町方面あろうバスが停車する。時刻表を見れば、恐らくこのバスは後五分ほどで発車するだろう。俺はセシルさんの袖口を引っ張ると、バスの方を指差した。
「その、セシルさん。バスが来てるんだけど」
「……ん? ん。分かった」
ようやくセシルさんは視線を遠くの方から戻すと、息を吐いてバスの方を向いた。その表情はまだ若干強張ってはいたが、俺がバスに乗り込んだのを見ると、しぶしぶと言った感じで彼女も後に続いた。
「……発車します」
まるで俺達が乗るのを待っていたかのように、運転手は発車を告げた。
「……どうやら、上手くいったようね」
この町でも有数の高さを誇るビルの屋上から、バスの停留所を双眼鏡を見つめていた二条薫は、そう言って双眼鏡から目を外した。
一瞬、“銀狼”に勘付かれたかとも思ったが、それもどうやら見過ごしてくれたようで、二条は二人が乗ったバスが市街地に消えていくのを確認すると、同時に大きな溜め息を吐いた。
「しかし、よくもまぁここまで葛城信介の行動を調べられたわね、ロメオ」
そう言って彼女は、横目で手摺に寄り掛かっている一人の男に視線を向ける。視線を向けられた男、ロメオ・ハーミットは、彼女の言葉に応じて微かな笑みを浮かべた。
実の所、葛城信介とセシル・フレイスターの行動は、ロメオには筒抜けだったのだ。勿論、彼等の情報は直接ロメオが集めたものではなく、この町に潜むロメオや組織の関係者から集められたものだが、彼がその人伝の情報を見逃すはずがなかった。
「カオルさん達が作戦を立てている時に、この私がずっと遊んでいたとでもお思いでしたか?」
「そうね。たまに見る貴方の様子から考えれば、確かに遊んでいると思っていたわ」
「ははは……。こう見えても、私は結構仕事熱心な方なんですがね」
冗談めかしてそう言うロメオに、二条が返事を返す事はない。況してや、偽りと虚構に塗れたロメオの顔など、彼女は見る気すら起きなかった。
「ま、とにかく私は作戦が成功すれば何も言いませんよ。前回の失敗だって大目に見るつもりですしね」
「あら、仕事については貴方と同じように熱心なつもりよ。少なくとも、貴方のボスが私との約束を守ってくれるのであれば」
「約束については心配しなくて良いでしょう。葛城信介を手に入れれば、貴方も彼女も用済みでしょうから。……まぁ、貴方が最後まで葛城信介に罪悪感を抱いているようなら、約束は貴方自身が駄目にしてしまうと思いますがね」
「分かっているわ、そんな事。情けはかけるなって事でしょ? 私だって、もうそんな余裕はないし」
そうだ。もう余裕はない。二度の失敗は許されない。彼女は拳を握り、全てに決着をつけ、全てを取り戻す事だけを考えた。
強いビル風が舞い上がり、下界を見下ろしていた二条の髪を掻き上げた。彼女は乱れる髪を押さえて空を見上げると、手前の透き通った青空の向こうに、大きな灰色の雲が迫って来るのが見えた。
「……一雨来るわね」
不快な顔を浮かべ、彼女は呟くようにそう言う。嫌な色。潔白でもなく、そして染まり切った色でもない、ただただ中途半端な灰色。彼女の不安は、その遠くの空を見つめる毎に、少しずつ大きくなっていった。
「それなら、人が少なくなって好都合でしょう? カオルさん。まぁ、提供した場所も場所ですから、余程の事でもない限り人目にはつかないと思いますが」
「だと良いんだけど」
「貴方らしくないセリフですね。……まぁ、良いでしょう。これから闘いに赴く者に、慰めや励ましは不必要でしょうから」
「……そうね。どうせ良くも悪くも、あんたと話す事はこれで最後でしょうから」
着ていた牧師服を翻し、ロメオは踵を返して出口へと向かう。二条は振り返る事はせず、ロメオの足音だけを聞いていた。
「期待していますよ、二条薫さん」
ロメオの言葉が風に乗り、二条の耳に届く。だが、当然のように彼女がそれに返事をする事はなかった。
「……やってやるわよ、お望み通り」
遥か上空からは、大粒の雨が降り始めていた。