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Great begin 6

 遠野幸太郎とおの こうたろうは、一か月前までは、それこそ中堅の国立大に通う普通の大学生であった。成績、運動神経、人間関係は至って普通。特技はパソコン、そして趣味はバスケ観賞という、取り柄と言える事柄はあまり持ち合わせておらず、見た目もどちらかというと地味な方な少年だった。繰り返すが、彼は極々“最近”まで普通の大学生であった。

 しかし、彼の日常は、ある日を境に大きく一変した。何時も通りの学校の帰り道、部活やサークル活動に参加していない彼は、何時も通り午後の授業を終えると、そのまま天枢町にある自宅に帰宅していた。何の事もない普段通りの時刻、普段通りの車両に乗り込んだ彼は、普段通りお気に入りの洋楽を聴きながら、うるさい高校生達に眉を顰め、気が付くと、ウトウトと頭が下がり始めていた。


 そして、遠野は彼に出会った。


 ――日常を変えてみないか?


 一瞬の沈黙の後、彼は思わず固唾を飲んだ。身体中に、まるで電気でも流れたような感触だった。

 しばらくして、彼は自分が降りる駅を通り越した事に気付いた。

 今まで一度だって乗り過ごした事のない、そこは言わば未知の領域だった。

 目の前の男の瞳に、自分の身体がゆっくりと溶かされていく。

 気付けば彼は、男の言葉に静かに頷いていた。


 人外の者が、また一人誕生した瞬間だった。












「見失いました……か」


 瞑っていた片目を開き、若き吸血鬼である遠野幸太郎は、静かに眼鏡を上に押し上げる。きっちりと揃えられた前髪が、微かに六月の風で揺れる。そして眼鏡と前髪に隠れた彼の瞳の先には、今も騒音で揺れる校庭に向けられていた。


「そろそろ、タイムリミットを意識し始めなければいけませんね」


 葛城信介とセシル・フレイスターを離すために放ったもう一人の吸血鬼も、彼の予測ではもうそろそろ限界のはずだ。仮に足止めをしているとしても、たかがハーフの吸血鬼が一分も持つはずはない。彼はゆっくり息を吐くと、もう一度精神を落ち着かせて目を瞑った。


 ――視界がまだまだぼやける……。やはり、まだ長時間の操作には限界があるか。


 彼の脳裏に映し出された、彼の視点とは全く異なった二つの視点。まるで合わない眼鏡でも掛けたようなぼやけた視界に、忙しなく動く大小様々な球体の群れ。そしてもう一つの視界も同じく濁り曇っており、こちらは呼吸に合わせて小刻みに視界が上下していた。

 彼の持つ二つの視界の正体。それは、今も校庭で暴れる二つの怪物の視点そのものだった。そして視界同様、彼が意識すれば、音や匂いも怪物を中継して感じたり、集中すれば操作する事すら出来る。葛城信介に姿を見せずに追えたのも、無論この能力のおかげであり、これこそ彼の“血の力”の正体だった。


 ――……また“飛び石”になっているな。


 だが、未だ吸血鬼に成り立ての彼にとって、二つの五感すべてを同時に感じる事は至難の業であり、また五感も集中し切っても完全にクリアに感じる訳ではない。加え、この能力には五感以外にも、絶対的な計画性を必要とする決定的な弱点があった。

 “飛び石”がこれだけ続けばそれだけ多くノイズが走る。だから建物の中は嫌なんだ。それにこちらからも死角になる。遠野は軽く舌打ちをし、運動場で動かしている怪物、“X”をオート操縦に切り替える。そして全意識を集中し、もう一方の葛城信介を追っている怪物“Y”の感度を高めた。


 ――何処かの空き教室に逃げ込まれた……か。


 微かに鮮明になった視界の先に、人の姿らしきものはない。そこにはほんのりと薄暗い、埃の溜まった廊下だけが突き当りまで広がっていた。

 彼の背中を、再び生暖かい風が撫ぜていく。狭い教室に逃げ込まれたのなら、ここは作戦を変更せざるを得ないだろう。葛城信介の疲労を待つのも、奴に休憩を入れられたのならあまり意味がない。ここは別の、多少危険が生じるが今よりかは多少堅実な方法を選択しよう。それにそろそろ、マスコミや警察の方にも動きがあるはずだ。仮にもしこの“X&Y”がマスコミや警察の目に触れるような事があれば、遠野自身、ただでは済まない。まず間違いなく組織から消される。失敗は許されない。それに時間がない。遠野は瞑っていた片目を開くと、静かに“X”をフェードアウトさせていった。












「はぁはぁ……」


 深刻な呼吸の乱れ。走りに走って、ようやく実感する身体の疲労。何度も地面を蹴って足底の籠もった熱が、ゆっくりと体中に這い上がってゆく。今まで恐怖で誤魔化されていた感覚が、砂粒ほどの安堵によって津波のように押し寄せてくる。身体中が痛い。少し休まなければ。俺は廊下の方に気を配り、何も音が聞こえないのを確認すると、そのままぶつかるように壁に背を預けた。


 ――怪物は……十中八九振り切れた……のか?


 今俺が居る場所は、つい一時間前まで賢治と昼食を取っていた自分の教室だ。校舎に入ってから無我夢中で上に駆け上がり、そして残り少ない体力の温存と今後の行動の模索のため、俺はとりあえず自分の教室に逃げ込んだのだった。

 この校舎に入ってから、どうやらあの怪物は撒けたらしい。その証拠にあの怪物の声は聞こえないし、それ以上に気配すらない。気休めだが、これで幾分かは休めそうだ。


 ――とにかく、先手は打たせない。


 二つある駒を掻い潜って王将の首だけを狙うなら、絶対に後れを取ってはいけない。第一、受け身で勝てる相手ではない。逃げ回るので精一杯なのに、向かい合って闘うなんて、自殺しに行くようなものだ。それこそ相手に触れられておめでとうの世界だ。だったら、ここで残った手は恐らく一つしかないだろう。


「悪いな賢治、しばらく携帯借りる」


 人の携帯を勝手に使うのは何だか良い気持はしないが、今はそんな悠長な事を言ってる場合じゃない。俺は賢治のバッグの中からお目当ての携帯を取り出すと、急いで俺の携帯にコールを入れる。もしものためのライフライン。ここに来てそれが、本当に天井から垂らされた、一本の蜘蛛の糸のように思える。そして俺の携帯の現在の持ち主、セシルさんがこのコールに気付くのならば、事態は一気に改善されるはずだ。……頼む、出てくれよ、セシルさん!


「畜生……駄目か」


 耳から携帯を遠ざけ、俺は荒い呼吸と同時に重い溜め息を吐く。やっぱり、まだ携帯に出れる状態じゃないのか。セシルさんと別れてから数十分経つが、それでもまだ戻って来れないのか。どうする? 俺だけで行動に出るか?

 だが、廊下に出てどうする? また当てもなく走り回るか? それは間違いなく愚策だ。ここでは逃走の選択肢は限りなく狭まるし、狭い教室に追い込まれたら、後は本当に重症覚悟で窓から飛び降りるしか逃げ道はない。


 ――……絶体絶命っつうのは、こういう事態を指してるんだな。


 最善の方法が見つからず、とりあえず俺はワイシャツのボタンを一つ開け、汗で濡れたワイシャツの襟を広げる。そしてTシャツの首の部分を摘まむと、籠り切った熱を逃がすようにその部分でパタパタと扇いだ。


 ――……やけに静かだな。


 普段なら三十人程度の人間が生活するこの空間が、今はまるで水を打ったような沈黙に包まれている。作業のためにどかされた机、まだ人の居た形跡が色濃く残る空間、そして、急な騒ぎで放り出されたのであろうカバンや道具の数々。それをまじまじと見つめていると、俺は次第に、心の底から何かが込み上がって来るものを感じた。

 俺のせいでぐちゃぐちゃになった文化祭。俺がどれだけ謝ろうとも、決して戻って来ない仲間達の青春という名の時間。全部全部、ひっくるめて俺のせいだ。ここに吸血鬼を招いてしまった事も、四季を巻き込んでしまった事も……。

 内から込み上げる怒りを必死に抑え、俺は前髪を掻き上げると、これでもかと言うくらい強く唇を噛む。噛んだ唇から、じんわりと鉄の味が染みだしてくる。血液が舌を伝い、それが口一杯に染み込むように広がっていく。……いっそ、このまま吸血鬼に捕まった方が、自分にも周りのも絶対に得策なんじゃないだろうか? そうすれば誰にも迷惑をかけない。こうやって馬鹿みたいに抵抗する方が、絶対に周りに迷惑をかけるんじゃないか?


 ――畜生。やっぱりどうしても卑屈になっちまう。


 落ち着け、冷静になれ。癇癪を起したら負けだ。妥協は決して勝利に繋がらない。それに、もう騒ぎは起こってんだ。俺がいくら敵に捕まったって、この文化祭は元には戻らないんだ。……だから考えるんだ。奴の死角を、奴の懐に入る方法を。今まで以上に、今よりもずっと鋭敏に。

 着ているTシャツを脱ぎ、俺は自分のバッグにそれを仕舞う。そしてもう一度同じ場所に座り、呼吸を落ち着かせて再び思慮を巡らせる。今までの敵の無駄、矛盾、欠点、不可解、その全てを思い出せ。根本に立ち返れ。そもそも、どうして秘匿されるべき存在のはずの吸血鬼が、あんな大それた行動をする? 大勢の死人が出れば、それだけ自分達の存在が危ぶまれる。そんな事、奴らも望んでいない筈だ。やっぱり、セシルさんを封じるため? ……いや、それだけじゃない。これだけのリスクがあるんだ。それだけじゃ釣り合わない。何かある筈だ。これだけの騒ぎを起こす、その原因が。


 ――古賀は確かに、もう一人の力を使うと言っていた。またそれには手順が必要だと。前の二人は腕力で無理矢理だったのに、どうして今回は違う? 何かが足りないのか? 


 セシルさんと切り離したら、俺だけなら簡単にあの化け物や自分自身で簡単にねじ伏せられるはずだ。それに、奴が大勢の前で自分の姿を晒すのを恐れているとしても、まだ二匹も化け物が残っているんだ。しかし、何故だ。その化け物は俺を追いはしたが、決して動きは本気じゃなかった。その動きの落差は校庭での動きを見れば確かだ。だったら何だ? どうして化け物は本気を出して俺を捕まえに来ない?

 教室の開いた窓から、穏やかな風が俺を撫ぜてゆく。心地よい風。俺をすり抜け、風はなだらかに後ろへと吹き抜けていく。止めどなく流れる風。その風を掴もうと、俺は手をそっと翳す。勿論、掴めるはずはないが、それでも指の隙間をすり抜けてゆく風は、何故か俺の火照った身体を癒してゆくような気がした。


 ――…………風。実体がないが、その感覚は五感で感じる。透明だけど、本当はそこにあるように感じる。見えないけど感じる。……感じる? …………そうか! 本当はなくても、身体はやっぱり感じるんだ!


 その瞬間、俺の思考の回路と回路が勢いよく直結してゆく。そしてそこに大量の電流が流れ、縺れた糸が急激に解けていく。俺の頭の中で、ようやく一つの答えが浮かび上がる。そして同時に、身体の底から確固たる自信が湧き上がってくる。対抗は出来ない。だが、この答が確かなら、確実に状況は好転させられる。奴がこの場所を選んだ意図、そしてわざわざ長期戦に持ち込んだ理由。無双の吸血鬼のセシルさんを切り離した訳。……そしてこの混乱の真意。それが、一つの仮定によってようやく一本に結ばれた。

 この仮定が正しければ、あの化け物の主は間違いなく“誰にも見えず、なおかつ全ての状況を見渡せる”場所に居る。そう考えれば、屋外で俺を簡単に追跡出来た事と、屋内で急に動きが鈍った事の説明がつく。やっと近づいてきたぜ、卑怯な吸血鬼。俺達の文化祭を台無しにした代償は、絶対に償わせてやる。


 ……オオオオオオォォォォォォ……


 廊下の端の方から、まるで地響きのような化け物の唸り声が聞こえてくる。俺の結論に間違いがなければ、もうあいつに恐れを抱く必要はない。後は確認作業だけだ。必要なのは俺の予想を確信に変える、確かな事実だけだ。


「さてと、それでは“ロックンロール”と行きますか……」


 心身ともに完全に回復した己を奮い立たせ、俺は決意と共にその重い腰を上げる。そして勢いよく教室のドアを開けると、廊下の遥か向こうで空いた教室を注視している化け物を睨みつける。万が一俺の結論が間違っていたとしても、相手の最終的な目的は間違いなく俺の捕獲だ。殺される事はない。だったら、絶対にここは攻勢に転じるべきだ。


「このウスノロ! お前の目は節穴か? お探しの人はお前の真ん前にいるだろうが!」


 精一杯の虚勢を張り、俺は突き立てた親指を一気に下に向ける。見えてんだろ? 吸血鬼? だったら理解できるだろ? これがお前に向けられたものだって事が。


「オオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォ!」


 俺の声に一瞬で向き直った化け物が、凄まじい勢いで俺の方に突進してくる。化け物の声で一瞬、無意識に俺は後ろにたじろいだが、もう後には引けない。引く気もない。決意はした。覚悟もした。……後は、行動するだけだ!

 目の前に迫る、それこそ巨体の名に恥じない大きい物体。貫かれたら一瞬で絶命出来る、反り返った大きな牙。俺は目を閉じ、静かに唇を噛む。さぁ、最初の勝負といこうじゃないか。


「オオオォォォォォォ……」


 刹那の時。空気が乾き、周りの景色が一瞬で透過してゆく。言葉を吐けば、まるでそれがずり落ちて、床に落下してしまうように止まった時間。吸血鬼の気配が近づく。スローモーション。だが、確実に俺に近づいてくる。身体に自然と力が入る。力を込めて地面を踏んでみる。そこにあるのは確かな現実。硬い地面の感触。そう感じるのは、間違いなく俺の五感が働いている証拠だ。――考えるな、ただただ感じるんだ。 俺はそう決心すると、瞑っていた目を開き、俺は猛然と突き進んでくる物体を刮目した。

 気配が肉薄し、接触する感覚。そして次に来るのは重なった不快感。視界はそれでもぶれない。ぶれたら最後、俺はここに立って居られないような気さえする。思考よ、停止しろ。今だけは全てを感じるんだ。

 途端、身体を何かが突き抜けてゆく衝撃を感じる。だが、感じるのは先程と同じ穏やかな風だけ。そして言ってしまえば、俺に来た衝撃は、本当にその感触だけだった。


 気が付けば、俺の身体を怪物は通り抜けていた。それだけで俺は全てを理解し、この化け物の正体を結論付けた。そして肩越しに後ろに視線を向け、俺は大きな溜め息を吐く。そこには、最初に見たあの化け物の後姿が、まるで最初からそこにあったかのように、悠然として立ち止まっていた。


 ――追いつかないんじゃなく、追いつけないんだ。この目の前の怪物は、吸血鬼が創り出した幻なんだ。


 死人は確かに出ない。混乱を生じさせるだけ。この獰猛な巨体を見れば、誰だってパニックになる。だからこの場を選択したんだ。だからわざわざ持久戦に持ち込んだんだ。触れる事も出来ない化け物をさも本物のように動かし、本当に強いセシルさんを囮で遠ざけ、自分は人目につかない所でこの化け物を操る。この一連の騒動は、全てこの欠点を補うためのものだったんだ。


「オオオォォォ…………」


 怪物の声が、少しずつ小さく、情けないものに変わってゆく。恐らく、次に俺の目の前に現れるのは、この化け物の本体のはずだ。安心はしてられない。一番の脅威は、まだこの学校内に居る筈だ。


「覚悟しとけよ、吸血鬼。……お前は、完璧に俺を怒らせた」


 口に溜まった唾を吐き出し、俺は前を向くと、後ろを振り向きもせずにゆっくりと歩き始めた。

約一か月ぶりの更新となります。すいません。どうもスランプ気味のようです。

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