戦え! 信介正義のために 2
神居北斗市の実質的な中心地であり、多くの企業の拠点である天枢町。この町は、神居北斗市内の他の地区とは比べ物にならないほどビルが立ち並び、それに比例して多くの路線が通っている。行き交う人は、それこそ多くがスーツに身を固めたビジネスマンだったが、市の中心地である事も手伝ってか、中にはちらほら子供連れや、仲睦まじく手を繋ぐカップルの姿もあった。
「それにしても、見れば見るほど我らが拠点は雑多な町ですね」
そんな天枢町を忙しく行き交う人々を見下ろしながら、“グラストベリーの邪教徒”ことロメオス・ハーミットは、その端整な顔を微かに歪め、既に冷め切っているホットコーヒーに口を付ける。着ている服は、普段の牧師服とは違うグレーのスーツで、彼の容姿と相まって、仕事の出来るクールガイといったような感じだ。
彼は今、天枢町でも有数の巨大さを誇る、「ポラリスビル」内部の喫茶店に居た。このポラリスビルは、日本中でもっとも強い影響力を持つ「極星グループ」の傘下にあるビルで、そのビル内のほとんどが極星グループの息のかかった企業の店舗だった。
「そりゃ、こんな高い所から見下ろせば、そうも思うでしょうね」
そして、そんなクールガイを見ながら、ロメオの目の前に座る白いブラウスを着た女性は、半ば呆れて口を開く。その様子は、ロメオに負けず劣らず端麗で、これでこの女性がロメオに嫌悪感を抱いた表情を終始見せていなければ、まるで一昔前のラブストーリーの主人公とヒロインのようでもあった。
「視点の問題ではありませんよ、ニジョウさん。私が言いたいのは、見掛けの問題ではありません。そんなもの、あっても一文の得にもならないと私は思いますよ」
ニジョウと呼ばれた女性は、ロメオの言葉に溜息で返事をする。そのある意味完成しきった容姿のお前には、その言葉は説得力など無いに等しいと、彼女はそう思った。
「どうだか。まぁ、それより、ここにこうして呼び出されたって事は、何か新しい指令が下った、って事でよろしいんでしょうか?」
「さすがニジョウさん。話す手間が省けました」
ポケットから数枚の封筒を取り出し、それをロメオは目の前の女性に渡す。それをその女性は受け取ると、中身を確認せずにバッグの中にしまう。それを確認すると、ロメオは残っていたコーヒーを飲み干し、おもむろに口を開いた。
「それと、これは担当者である私からの命令です。今後、葛城信介の詳細な情報を入手するまで、彼の自宅への直接的な攻撃は慎んでください」
「……どういう事?」
彼女の言葉に、ロメオは軽く頷き、一枚の写真を彼女の前に差し出す。そこには、真っ黒な外套を羽織った銀色の髪の少女が、まるで獅子の精悍さで、こちらを睨むように見つめていた。
「これは?」
「“銀狼”、“二挺拳銃のセシル”。このどれかの名前は、貴方も聞いた事あるでしょう? その本人です。古賀君の接触した協会のハンターは、間違いなくこの写真の人物です」
写真を手に取り、女性は不快そうな顔をしてそれをロメオに渡す。協会の“銀狼”と言えば、協会でも有数のエースハンターじゃないか。
「ハッキリ言いますが、貴方や趙さんのレベルでは、このハンターに勝つ事は難しいです。況してや、貴方の部下達では、足元にも及ばないでしょう」
「それはそうよ。それに、協会のハンターは常に二人以上のペアで動いている。それを考えたら、この子と同じクラスのハンターが何人か居るでしょう?」
「ですから、しばらくの間は様子見という事で、単独での攻撃は控えてくださいね」
「それも伝えておくわ。貴方に伝えた通り、彼の住所は調べがついたから、調査だけは引き続きやるから」
「それでいいです。我々の目的は、敵の殲滅ではなく捕獲ですから」
話を終え、彼女はゆっくりと立ち上がり、テーブルの隅に置かれたレシートを手に取る。しかし、向かい側に座っていたロメオはそれを制し、そのレシートを、彼女から優しく取り上げた。
「コーヒーくらい奢りますよ。これでも、私は貴方の上司ですから」
「……」
言葉を飲み込み、彼女はポケットから財布を取り出し、そっと札を取り出す。それをテーブルの上に置くと、静かに口を開いた。
「そういうのは止めて頂戴。私は私の目的を果たすだけだし、貴方とは……悪いけど、そういう上司と部下とか、そういう関係になるつもりはないわ」
やはり、彼女にとって、このロメオス・ハーミットという男は、どうしても好きになれなかった。その理由はよく分からないが、それでも、どこか得体の知れない感じを持つこの男に、吸血鬼の本能と言うかそういうものが、彼女に無意識にブレーキをかけているのかもしれない。
「……ふふ、大分嫌われてますね。まぁ、いいでしょう。ニジョウさんにはそれなりの仕事はして貰っているのですしね。それより、彼の学校で、近々文化祭が催されるのはご存知ですか?」
ロメオの言葉に、彼女は首を横に振る。だが、言いたい事は分かる。この男は、そのチャンスを生かせ、と言いたいのだろう。
「チャンスは逃さないでください。人目につく所というのは、どちらにとっても弱点なんですから」
「はい、はいはい、そういう事で頼む。じゃあまた、出来上がったら連絡してくれ」
そういって電話の受話器を置き、俺はメモ帳にある衣装の欄に線を引く。これで、何とか文化祭前までには衣装は間に合いそうだ。
「信介、長々と何の話してんだ?」
ソファに腰を下ろし、ビール片手にテレビを見ていた叔父さんが、振り向きながら俺に向かって言った。
「文化祭だよ。今年は文化祭があるんだ」
「文化祭? ああ、そういえば登志男さんもそんな事言ってたな。ていうか、お前そんなに行事とか一生懸命やるような奴だったっけ?」
叔父さんの言葉に、俺は首を軽く横に振る。こんな真面目に家事と趣味以外の事に取り組むなんて、恐らくこれが生まれて初めてだろう。叔父さんが奇異に思うのも分かる気がする。
「場の流れで俺が文化祭の実行委員になっちゃったんだよ。だから、やってるっていうか何というか……」
「昔から押しに弱いからなぁ、信介は」
あれは、押しがどうこうの状況じゃなかったけどね。それに、俺ってそんなに押しが弱い方なのか?
ソファに深く腰を下ろし、俺はポケットに入っている自分の携帯を開く。メールの着信が三件、そのどれもが他の文化祭実行委員からの連絡と報告だった。
――休憩する暇も無いなぁ……。
文化祭まで後二週間近くあるが、脚本に演出、機材の準備に小物の製作。やる事はまだまだある。各自の負担を軽くするために各自の仕事を専門化したんだが、これじゃ俺にばっかり負担が回ってくる気がする。これじゃ、今日もまた寝るのは深夜になってしまうな。
「しかし、お前も本当に真面目というか不器用というか……」
「え?」
叔父さんの言葉に、不意に携帯をいじる手が止まる。叔父さんの方を向くと、叔父さんは少し微笑みながら俺の方を見つめていた。
「押し付けられた仕事なら、自分が嫌なら手を抜いてもいい。誰も責めはしない。押し付けた人間が、言える言葉はない。だけど、お前は文句は言っても手は抜かず、こうして頑張ってんだ。本当、立派だと俺は思うぞ」
「まぁ、部活も勉強もそれほど真面目にしてないんだし、これくらいはやらされても苦には思わないよ。それに、それは皆同じじゃないかな? 誰だって、たとえ強制でもやる時はやらないといけないと思うし」
勉強だって仕事だって、やりたくない奴にしたら、それはただの苦痛でしかないし、痛みしか伴わないだろう。だけど、勉強や仕事をしなければ、実際問題俺達は生きていけない。文化祭の実行委員なんて、そんなものと比べたら本当に砂粒みたいなもんだと思う。だったらそんなもの、こなそうと思えばこなせるじゃないか。
「それは違うと思うぞ、信介。大抵の奴は、もっとメリハリつけて生きてる。全部を全部頑張るなんて不可能なんだし、必要の無いものに見切りを着けるのは、生きてる上できっと大切な事だ。だけどお前の場合、勉強や家事だって、やらなきゃいけない範囲以上にやってるし、任された仕事だって一生懸命やっている。だけどな信介、傍から見てると、それが何だか危なっかしく見えてな」
最後の一口を流し込み、叔父さんは缶をぐしゃりと握り潰す。そしてテーブルにそれを置くと、体を起こして俺の方を向いた。
「つまり、お前は最近一生懸命過ぎだ。文化祭とか家事とかそういうのもひっくるめて、もう少し手を抜いても俺はいいと思うぞ?」
「……そうかな?」
叔父さんの言うような、そんな事はないと俺は思う。思うのだけど、それでも確かに無理を続けているという実感はあった。セシルさん達が来てから、確かに睡眠時間は減ったし、自分の趣味の時間も削ってきた。況してや今回の文化祭に至っては、やらなきゃいけない家事や勉強すらも疎かにしているような感じもあった。言葉では否定はしていたけど、心の中では、叔父さんの言葉に、無意識で頷いている自分がいた。
「ああ、そういうもんだ。確かに、努力は報われる。誰かが違うと言ったって、俺はそう思う。だけどな、何事も過ぎたるものは、得てして崩れやすいっていう欠点があるもんだ。頑張る反面、何かを諦めるのも大切な事だ」
言い終えた叔父さんは、潰した空き缶を手に取ると、ソファからゆっくりと立ち上がる。確かに、何時でも自然体の叔父さんを見ていれば、その言葉は非常に説得力がある。何だかんだで、叔父さんは俺のために……と言ったら言い過ぎなのかもしれないが、恋愛も趣味もしていない。そこを思うと、俺は何だかやるせない気分になってきた。
「お前の限界は、お前にしか分からない。人間、どう頑張って自分の限界内でしか力を発揮出来ない。だったら、お前にとって必要の無い事、束縛にしかならない事は早めに切り捨てろ。それを続ければ、お前にとって必要な事すらも駄目になってしまうぞ」
叔父さんは去り際にそう残し、そして部屋には、静かな沈黙が広がる。叔父さんの言っていた言葉の意味。それを考えると、確かに俺は、必要以上に頑張っていたのかもしれない。突然の訪問者達の不自由がないように、吸血鬼の来訪に備えて、意識を集中させたり……。叔父さんの言葉通り、このままじゃ、本当に駄目になっていたかもしれない。
「そういえば俺は、文化祭に関して言えば、クラスで絶対的な権力を有しているんだよな……」
携帯を手に取ると、俺はすぐさま賢治にメールを打つ。その内容は、これからは各担当者に、その担当の決定権を委ねるというものだった。