Hotter than hell ? 1
自分らしく生きる事。それは簡単なようで、実際は難しいものである。
社会に出たら否応無しに付き合いは必要になってくるし、建前と本音だって使い分けなきゃいけないだろう。嫌な事は嫌だと、はっきり言える人間は素晴らしいのかも知れないけど、それだって、ピンからキリまではっきり嫌と言える訳じゃない。
束縛と妥協。気にならないだけで、皆知らず知らずのうちにしている事だ。
「……本当、あっという間に暗礁に乗り上げましたね、岬警部」
部下の言葉に岬登志男は、はっとなって顔を上げた。西日が差しているやや狭い窓のブラインドに、この時間には珍しく静かな雑多な机の群。ふと視線を落とした先には、まだまだ新米の刑事である柳沢勇人が、湯気の立ったコーヒーカップを持って立ち尽くしていた。
「お前に言われないでも、十分に分かっているよ」
溜息を吐き、岬刑事は頭を抱えて椅子の背もたれにもたれ掛る。机の上には、最近神居北斗市内で頻繁に起こっていた失踪事件と通り魔に関する書類が、その言葉通り山のように積まれている。岬刑事はその巨大な紙の山脈を脇に退けると、柳沢の持ってきたホットコーヒーをそこに置いた。
「未解決の失踪事件が八件、通り魔事件が三件。そして、いずれも事件の関連性は薄い。こりゃ、新手の集団催眠ですかね?」
「そんなもんで一括り出来たら、こちらは大助かりなんだがな……」
机に置かれたコーヒーに口を付け、岬刑事はくたびれた笑顔を柳沢に向ける。何でもいいから、さっさと解決すればいいなどと、我ながら不謹慎な事を考えるものだと、岬刑事は心の中でそう思った。
確かに、この同時多発的に起きている失踪と通り魔事件は、柳沢の言うような、辛気臭い、きな臭いものを感じさせるもののように岬刑事も感じていた。しかし、それにしてはあまりにも事件の一つ一つに関連性が低く、方法も手段もまったく異なっている。信じたくはないが、これは本当に単独での犯行が重なったものなのかもしれない。
「おまけに昨日の謎の放火事件だ。これにまで関連性がなかったら、俺は本当に悪魔でも信じるよ」
「実際、悪魔でも居るんじゃないですかね? コンクリートを焼き切るなんて荒業、バーナーでも使わなきゃ無理ですよ」
「時間をかけて、あんなに広範囲をか? それがもしそうなら、俺はそいつの頭ん中を見てみたいぞ」
こうやって軽口を叩いてはいるが、この事件群は事の外重大だった。ここ最近は普段の倍以上の巡回のおかげか同じような事件は起こっていないが、だからといってこれらの事件が解決した訳ではないし、再び起きない保証もない。事件に関連性があるなら、早いうちにその原因を見つけなければ。
「しかしなぁ……」
とは言うものの、やはり事件に関する目撃情報、物的情報が何もないのは、ベテランの岬刑事にとっても、やはり捜査をしていても頭を抱えたくなるものだった。唯一の手掛かりであった通り魔事件の被害者の少年は、それこそずっと知らないの一点張りを続けているし、柳沢の言う通り、事件は完全に暗礁に乗り上げてしまった感じだった。
「そういえば、もうすぐ娘さんの学校の文化祭ですね」
岬刑事の隣に座り、黙々と資料を読み耽っていた柳沢が、ふと岬刑事の娘の写真を見ながら言った。
「ん? ああ、そう言えばそうだったかもな」
急に話題が変わり、岬刑事は机の上の写真に目をやる。今は亡き、妻の面影を色濃く残すその顔、その笑顔。写真に写った少女の顔を見ると、岬刑事は大きな溜息を吐いた。
岬刑事の娘には昔から、親友と呼べるほどの昔馴染みの少年がいる。頑固で面倒臭がりな性格なのだが、どこか正義感が強い所があり、彼の娘の確かな支えになってくれている少年だった。そして彼の娘にとって、その存在は父である彼以上に大きいなのかもしれない。いや、大きいのだろう。でなければ、彼の娘はとっくに非行に走っているはずだった。
「だったかもって、なんか人事みたいですね……」
「そういう訳じゃないさ。だがこの分じゃ、間違いなく行ってやれないな……」
自嘲気味にそう言い、岬刑事は底の方に溜まったコーヒーを一気に飲み干す。仕事の忙しさを理由にしたくはないが、自分が娘をおざなりにしているのは確かな事実であって、そして、その事実がさらに岬刑事の仕事への情熱を駆り立てているのであった。
「……文化祭くらいは行ってあげてくださいよ、岬警部。今年に入ってから、全然有休を取ってないじゃないですか」
「この忙しい時期に、抜けられる訳ないじゃないか」
無論、それも岬刑事にとっては言い訳でしかなかったが。
「警部一人が抜けたぐらいなら、私達だけで何とかやれますよ。それに、みんなだって分かってくれると思いますし……」
「だがなぁ……」
正直なところ、彼自身だって一日休みを取って、それが無理なら半日だけでも娘の文化祭に顔をだしてはやりたいのだ。だが、実際はそうも言ってられない状況な訳で、自分一人のワガママで、勝手に決められるものではないと、岬刑事は思っていた。そして岬刑事は静かに首を横に振ると、柳沢に向かって言った。
「こういう機会はまたあるし、その頃にはこの事件群も一段落着いているだろう。だから……」
「……警部、止めましょうよ、そういうの。それに、そんなに自分を信頼してくれていないんですか?」
やや厳しめな口調で、柳沢は岬刑事の言葉を遮る。岬刑事は、一瞬呆気に取られたが、すぐさま気を取り直し、溜息交じりで口を開いた。
「いや、そういう事じゃないよ。お前はまだ新米だけど、それでも努力は重ねてるし、情熱だってある。お前を信頼していない訳じゃなくてだな、状況が状況だし、これはしょうがないだろう」
「それは言っては駄目です、警部。娘さんに取ってだって、大切な時じゃないですか」
「……確かにそうだが」
そう言って、岬刑事は次の言葉を飲み込む。今更しょうがないなんて、絶対に言ってはいけないはずだし、何よりそれは、彼の、娘に対する気持ちの体言に他ならなかったからだ。
「では、休みを取ってください。警部は働きすぎです。たまの息抜きには、丁度いいでしょう」
柳沢が空いたコーヒーカップを持っていく。それを見送ると、岬刑事は娘の写真を見ながら、再び大きな溜息を吐いた。
日曜日の昼下がり。期末テストも終わり、たまの休みくらいゆっくり過ごしてやろうじゃねぇかという当初の気概を見事に打ち破られ、俺はせっせと家の掃除、というかセシルさん達の住まう部屋の整理に専念していた。
――あー。なんだこのやってもやっても切がない感じは。
無論、この状況への不平不満はたくさんある。掃除は嫌いじゃないけど、嫌いじゃないんだけど、掃除しているすぐ傍で、クークーと鼾を掻いて寝ているセシルさんを見ていると、何だか無性に腹が立った。
――ていうか、そんな格好で寝るなよ……。
俺の上げたツートンカラーのTシャツに、下は何と下着だけという、ある意味反則的な格好でセシルさんはベッドに横になっていた。俺を早くも男として見てないのか、それともただただ気にしないだけなのかは定かではないが、とりあえず言っても疲れるだけなので、俺はとにかく欲情を捨て、無心に掃除を続ける事にした。
「それにしても、随分と埃が溜まってるな」
元々、ずっと使っていなかった客室であった事もあり、この部屋の隅や本棚には、まだまだ多くの埃が溜まっている。本来ならば、客間というのは客に失礼がないように、清潔にしておかなければならない所なのだが、そんな大切なお客さんが来る事はこの家にはまず有り得ない事なので、ご覧の通りのひどい有様になっていた。まったく、本当にいろんな意味で掃除のし甲斐がある部屋だ。
部屋一面に散らかった本やら衣服などをさっさと片付けると、俺は本棚や部屋の隅の埃に取り掛かる。この分だと、床と家具を拭き終えるのに、相当な時間が掛かってしまいそうだ。
「……あれ?」
せっせと床を拭いていると、ベッドの下に見覚えのない小さなダンボールが二つ置いてあるのが目に入る。暗くてよくそれは見えないが、ダンボールの様子をよく見てみれば、どうやらそれは、結構最近置かれた物のようだった。
「……また叔父さんの“アレ”かな」
“アレ”と言うのは、勿論ご想像通り、男のあれである。別名“男のロマン”。またの名を、“買わなきゃ築ける一財産”。まだまだ未成年の手前、俺は自分で購入した事は一度もないが、それでもその圧倒的な存在感と、妖しげな装いを見れば、それが何なのかは理解する事が出来た。
――あのスケベ親父め。よりにもよって、客間にこんなもん隠しておくとは……。
実際、本人も隠した事を忘れているのだろう。でなきゃ、こんなに堂々と他人の居る部屋に“男のロマン”を置いておくはずがない。俺は大きな溜息を吐くと、手を伸ばしてその二つのダンボールをベッドの下から引きずり出した。
「うわっ重っ!」
見た目とは裏腹に、そのダンボール二つはかなり重く、身体を寝そべらせて両手で引き寄せるのがやっとだった。叔父さんは、この二つのダンボールに、どれだけ男の“夢”と“欲望”を詰め込んだんだろうか。
「さっきからうるさいな……」
俺がダンボールに四苦八苦していると、その上で寝ていたセシルさんが、目を擦りながらゆっくりと起き上がった。
「あ、ゴメン。起こしちゃった?」
「いや、構わない。それより、さっきから私の部屋で何してるんだ?」
――あんたが掃除しないから、俺が掃除やってんでしょうが!!
心の中でそう叫び、俺は笑顔を浮かべて掃除です、と一言だけ言う。我ながら情けないと思うが、セシルさんに怒ってもどうせ柳に風なので、言うだけ無駄だ。そして、セシルさんがこの部屋を自分の部屋だと言った事については、頑張って聞かなかった事にしておこう。
「そうか、掃除をしてくれているのか。別に大丈夫だぞ? 掃除なんかしなくても」
「いやいや、埃だらけの部屋に住まわせる訳にはいかないでしょう。ていうか、下になんか履いてください」
「だいぶ散らかしてしまっていたからな。片付けるのに苦労したろう?」
「現在進行形で苦労してますから。ていうか、下になんか履いてください」
俺の意見をほとんど聞かず、セシルさんはゆっくりと起き上がると、机の上に一時避難させておいた本の類を本棚へと運んでいく。これはまさか、意外にも自主的に手伝ってくれているのだろうか? ……ていうか、こうやって手伝ってくれるのは確かにありがたいんですが、その格好は本当に目のやり所に困るんです。
「ん?」
急にセシルさんの動きが止まり、俺が引き出していたダンボールに目をやる。明らかに注目というか何というか、尋常じゃない食い入るような視線に、俺は嫌な予感がする。まさか、セシルさんは既に、中身ははチェック済みなんだろうか?
「どうしたの?」
「いや、そのダンボールをどうするつもりだ?」
「どうするって……資源ゴミに出しますよ?」
叔父さんには悪いが、これは決定事項だ。こんな青少年の育成に重要なもの……もとい、邪魔なものは、さっさと捨てた方がいいに決まってる。俺はダンボールを重ね、ゆっくりと体を伸ばした。
「…………捨てるな」
「え?」
「それは、できれば捨てないで欲しい」
一瞬、俺の思考が停止する。ていうか、今この人、物凄い事言ったよね?
「だってこれは……」
「捨てられると、非常に困る」
「…………ええー!?」
セシルさんの衝撃発言に、俺は思わず驚きの声を上げる。箱の中身は、恐らく叔父さんの“アレ”。そしてそれを欲しているのは、ミステリアスな雰囲気の絶世の美人吸血鬼のセシルさん。俺は混乱を通り越して、しばらくの間絶句していた。
「あのー……セシルさん?」
「何だ?」
「どういう理由かは分かりませんが、この雑誌の類は青少年の育成に重要……もとい、良くないものなので、俺としては捨てたいのですが……」
「……信介君。何を勘違いしている?」
俺の言葉に、セシルさんは溜息混じりに言った。
「え?」
「それは、ドイツから送ってもらった私達の荷物だ」
セシルさんの言葉を聞き、しばらくして、ようやく俺はその言葉の意味を理解する。真新しくて、見覚えのないダンボール。なるほど、これはセシルさん達の荷物だったのか。
――うわー……何だか、妙に恥ずかしい。
案外やりがちなミスだが、それでも女性が相手だと、これはめちゃくちゃ恥ずかしい。もしかしたら、はっ、大したマセガキだぜとか、お前どんだけ飢えてんだよとか、何だかそんな感じの事をセシルさんは考えてそうで、それを考えただけで、俺は顔がどんどん赤くなっていくのを感じた。
「……信介君?」
「はい?」
セシルさんの言葉で我に返り、俺は気を取り直してセシルさんの方を向いた。
「とりあえず、それは捨てないでくれよ」
「いや、捨てないけどさ……」
汗で湿ったタオルを首にかけ、俺はゆっくりとベッドに座る。掃除はまだまだ残っているけど、何だか今のやり取りでそんな気も失せてしまった。
ふと、俺は積んであるダンボールに目をやる。こんな小さなダンボールが、どうして重いんだろう。俺が非力なのかもしれないけど、それを差し引いてもこれは多分に重い気がした。
「ねぇセシルさん。これん中には何が入ってるの?」
きっちりと折り込まれたダンボールのふたを触りながら、俺はセシルさんの方を向いた。
「ああ、別に開けてもいいぞ」
「いいの? ……ていうか、下着とか入ってない?」
「入ってない」
まるで気にも留めない感じにそう言い、セシルさんは俺に開けるように促す。俺はとりあえず頷くと、丁寧にダンボールのふたを外し、そっと一番上のダンボールの中を覗いた。
「…………え?」
そしてその中身に、俺は再び絶句した。
「あのーセシルさん、これって……」
「見たとおり、銃と弾とその他の道具だが?」
「いや、そういう事じゃなくて……」
小さなダンボールに、丁寧に仕舞い込まれた大小様々の銃。そしてその下には、何やら数字が書かれた小さな箱が数箱。その生々しい感じと、異様に黒光りする重厚感から見れば、これは間違いなく、日本では所持してはいけない、ある意味では“男のロマン”より危ない“アレ”だった。
――ていうか、こんな危ないもん普通に郵送すんなよ!
「あのーセシルさん?」
「何だ?」
「ばれたら、逮捕ですよね?」
「ばれないし、捕まらない。大丈夫だ、信介君」
またまた説得力のない大丈夫だな。ていうか、いくら吸血鬼が来るからって、こんなに武器を持ってきてどうするつもりなんだろう。まさか、本当に戦争でも始める気でいるのかな? いろんな意味で、段々と雲行きが怪しくなってきた気がした。