青い影 1
全ての物事は、案外自分の知らない所で進行しているものである。身体の新陳代謝しかり、人間関係や自分自身の社会の評価だってそうだ。自分が一因にならなくとも、他の誰かに左右される事が世の中には多い。
――要するに、頑張ってもどうしようもない時が世間にはあるって事。
「葛城君? ああ、二年B組の奴だろ?」
「葛城……。屋上でビンタされた奴か?」
「葛城君ですか? あの岬四季と噂がある奴ですよね」
「葛城か。色々あって特進クラスから外された二年の奴だろ?」
「……」
葛城信介の探索を開始して一日目。長期戦になる事が予想されていた探索は、一人の男の調査によって呆気なくひっくり返る。その男の名は古賀茂。“世界吸血鬼協会”に相反する組織に属する新米吸血鬼だ。
「まさか、四人に一人が葛城信介の事を知っているとはな……」
屋上の手すりに寄りかかり、古賀は今日集めた情報に目を通す。知り合いや後輩の話によれば、葛城信介というのは魁皇学園二年B組の生徒で、魁皇町のカシオペア通りに住んでいるらしい。また一年生に二股をかけ、成績は良かったのだが素行不良で特進クラスを落とされた奴だそうだ。
古賀は、この男はどうしようもない奴だと思ってたが、しばらくして自分は人の事は言えないなと思い、微かに笑みを浮かべた。
それにしても、葛城信介がこの学校の生徒だった事は本当に意外だった。もしかしたらこの学校の生徒ではないか、なんて楽観的に考えていた節も勿論古賀の中にはあったが、本当にこの学校の生徒だったと分かった時は、さすがに失笑を禁じえなかった。世の中、案外狭いもんだ。
――それにしても、本当に呆気ねぇ。
実際古賀自身も、数日かかる事は見越していたし、約束の期限以内に発見できない事も顧慮していたのだ。それがこんなに簡単に発見出来てしまったら、幾らなんでも気合というか何というか、そういうものが抜けてしまうのは当然だろう。それにこの感じだと、その気になれば今日中に目的の人物と会えてしまうのではないだろうか。
「……さてと」
着崩してボロボロになった制服のズボンの裾を上げ、古賀はポケットに今日集めた情報を記した紙を突っ込む。気は抜けているが、勿論仕事はしっかりとするつもりだ。これから一生付き合っていくかもしれない組織だし、この実績は直接自分の実績になるのだ。組織の中で強権を振るいたいなら、それに見合った実績も必要なはずだ。古賀は身体を起こすと、軽快に階段を下っていった。
先程までざわめいていた教室が、今は空っぽの水槽のようにがらんとしている。そんな空しい空間の中で、俺と蒼井賢治は無言のまま机に座っていた。
「……あー。何だ、この憂鬱感は」
普段以上の大きな欠伸をし、俺はだらしなく机に頬杖をつく。時間は放課後。本来なら授業が終わって開放感が身体の底から溢れ出てくるのに、最近は何だかそんな気さえ起きない。鬱。漢字は難しいが、この感じは今なら痛いほど理解できる。それは単に、鬱になる原因を知っているからかもしれない。
「……信介。最近、元気無さ過ぎだぞ?」
俺の机に寄りかかり、賢治が腕組みしながら言った。
「鬱な状態で、元気一杯に振舞えるほど俺は強くない」
「中間テストがやばかったとか?」
「大丈夫だし、それは無い。テストなんて、あんなもんは形骸だろ」
「じゃあ、岬に嫌われたか?」
「それは、……無い事はない」
あれから、四季は何だか俺に対して物凄く不機嫌になっている。ちゃんと謝りには行ったのだが、それでも少し変な目で見られた。四季の友達にも言われたのだが、しばらく近づかないほうがいいかもしれないそうだ。
まぁ、圧倒的に悪いのは俺な訳で、これは四季が機嫌を直してくれるまで待つしかないだろう。
――あー。四季の事考えたら、また鬱になってきた。
机に頬を付け、俺は目を瞑って溜息を吐く。帰りたくない。マジで帰りたくない。帰ってあの不条理空間に身を投じるくらいなら、いっそこのまま賢治と学校に泊まったほうがマシだ。
「……何だか、また俺を巻き添えにしようとしているな?」
「空気でそれが分かるようになったら、そりゃもう一人前さ。とりあえず、しばらく俺と付き合ってくれ」
「あのな。とりあえずで俺の貴重な放課後を奪うなよ」
「……俺はな、その貴重な放課後と、夕飯後の大事なプライベートタイムすら奪われてるんだぞ」
家に帰れば、今日も間違いなくあの一人と一匹のために晩飯を作らなければいけないし、夜になればテレビは二人と一匹に占領されて一時間すら見る事も叶わないのだ。
――大体今日の朝だって、どうして忙しい俺にわざわざ仕事を頼むんだ。
目を閉じれば、鮮明に思い浮かぶあの朝の生き地獄。叔父さん一人でも大変なのに、それ以上に用事を申し付ける客人達。今までの十七年間の中で、これほど不条理を感じた事は無い。
――……。
「信介君、朝飯は?」
「ゴメン、セシルさん。もう十分待って!」
「信介君。悪いんだが、冷蔵庫から牛乳を取ってくれんかの」
「テーブルの上に既にコップに注いで置いてあります! 大人しく座って待っててください!」
「おい信介! 喫茶店の方の砂糖、切れてるから買ってきてくれ!」
「そんなもん、このくそ忙しい朝に頼むなぁぁぁ!!!!」
――……。
「信介?」
身の毛もよだつような地獄を思い出していた俺は、青葉の言葉で意識の奥底から急浮上する。……何だか、本当に一人暮らしでもしたくなって来た。
「なぁ、この年齢で家事を完璧にこなせるのは、もう特技の欄に書き込んでも大丈夫だよな?」
「いきなり意味分かんねぇよ。確かにお前の料理は上手いけど、そこまででもないだろ」
「いやいや、ここ数日で俺のスキルは格段に上がってる」
少なくとも、手際の良さとお勝手の上手な使い方に関しては確実に成長しただろう。あの不動の一人と一匹と、横着な一人を相手にしてるんだ。それだけは自負できる。
俺の大きな溜息とともに、無機質なチャイムの音が学校中に鳴り響く。帰宅部の俺にとってそれはまさに、地獄の始まりを告げる合図だった。
「ほら、下校のチャイムだ。見回りが来る前に帰ろうぜ」
俺の机に寄りかかっていた青葉が、バッグを持って立ち上がる。……嫌だ。ここで立ち上がったら、またあの地獄に逆戻りだ。
「賢治、お前んちに泊めてくれ」
「絶対に無理」
俺の切なる願いをあっさり却下し、賢治は手をパタパタ振って教室を後にする。そして俺の希望は、賢治の足音とともに、少しずつ遠退いていった。
「……すっかり遅くなっちったな」
商店街を急ぎ足で歩きながら、俺は腕時計に目をやる。時間はもうすぐ五時。早くご飯を作らないと、またセシルさんに急かされそうだ。
――ん?
三丁目のスーパーの曲がり角を曲がった所で、俺は不思議な感覚に囚われる。変に空気が乾くこの感覚。憎悪にも似た、あの禍々しい圧迫。この感覚は……そうだ。定本の感覚だ。
辺りを見渡し、俺は一呼吸置いて意識を集中させる。微かだが、周りを威圧するような異質感、圧迫感、そして威圧感。この行き交う人の中に、確実に吸血鬼は居る。俺はわざと家からは遠回りになるを道を選び、周囲に気を配りながら歩みを進めた。
――狙いは、俺の命ではないんだよな?
アルフレッドさんの話を信じるならば、この近くにいる吸血鬼はまず間違いなく俺との接触を試みてくるはずだ。それがこの前のような乱暴なものかどうかは分からないが、少なくとも殺される事はない。そして、吸血鬼は決して人間の前で人外の力は使ってはいけないという鉄の掟があるらしいから、それを利用すればある程度こちらの流れで話を進めれるかもしれない。
商店街を抜け、少しずつ風景が住宅街へと移っていく。人通りは疎らだが皆無ではない。そして気配は、少しずつだが強いものに変わってきている。仕掛けてくるなら、そろそろだろうか。
「おい」
完全に人の通りがなくなったその時、不意に後ろから声がかかる。定本とは違う、低い感じの男の声。そして同時に感じる圧倒的な存在感。間違いない。俺の後ろに吸血鬼が居る。
恐る恐る振り向き、俺は吸血鬼の姿を一瞥する。ツンツンに尖がった金髪頭に、切れ味が鋭い感じのツリ目。そしてその吸血鬼は、驚くべき事にうちの制服を身に纏っていた。
「葛城信介……だよな?」
しばらくの沈黙の後、男は再び低い声で言った。
「そういう貴方は、吸血鬼ですよね?」
平静を装い、俺は丁寧な口調で口を開く。そして俺の言葉を聞いた男は、微笑を浮かべて首を縦に振った。
「まったく無知という訳でもないようだな。葛城信介」
「そりゃ、小さい頃からそういう環境で育ちましたから」
無論、これは真っ赤な嘘だ。確かに男が言う通り、俺は全く無知ではない。だが、それも所詮かじりかけの知識だ。それなら、自分の手の内は濁した方が得策だ。
「て事は、俺がここに来た理由も察しがつくだろ?」
「勿論」
俺の親父の集めた情報だろ。言わなくても分かってるさ。
「そうか。なら話は早い。葛城信介、今からちょっと面を貸してもらう」