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愛の挨拶

作者: みき
掲載日:2026/10/06


 その曲には、まだ名前がなかった。


 春の終わり、王都の小さな音楽堂で、アリシアは初めてその旋律を聴いた。


 舞台に立っていたのは、黒い礼服の青年だった。王宮付きでもなければ、有名な楽団の首席奏者でもない。ただ、今夜の演奏会で欠員が出たために呼ばれた、名も知られていないヴァイオリン弾きだった。


 けれど、彼が弓を弦に触れさせた瞬間、アリシアは息をするのを忘れた。


 ひどく華やかな曲ではなかった。


 剣を掲げる騎士のような勇ましさも、嵐を呼ぶ魔術師のような激しさもない。ただ、一人の人間が、もう一人の人間へ話しかけているような音だった。


 ねえ、と。


 聞いてください、と。


 そんなふうに。


 演奏が終わると、客席から控えめな拍手が起こった。


 アリシアは誰より長く手を叩いた。


「お気に召しましたか」


 隣に座る母が尋ねた。


「ええ、とても」


「でも、あの方、平民でしょう」


 母はそれだけ言って、興味を失ったように次の演目の冊子へ視線を落とした。


 アリシアはもう一度、舞台を見た。


 青年は深く頭を下げていた。


 その人の名を知ったのは、演奏会が終わったあとだった。


 エルド・ハーヴェイ。


 王都の南区にある、小さな楽団で働いているらしい。


 伯爵令嬢であるアリシアと、平民の音楽家。


 本来なら、それだけで終わる話だった。


 けれどその夜、屋敷へ戻ったアリシアは、一篇の詩を書いた。


 誰にも見せるつもりはなかった。


 ただ、あの旋律を忘れたくなかったのだ。


     


 二人が初めて言葉を交わしたのは、それからひと月ほど経ったころだった。


 伯爵家で小さな夜会が開かれ、演奏のために呼ばれた楽団の中にエルドがいた。


 休憩時間。


 庭へ出たアリシアは、噴水のそばで一人、楽譜を眺めている青年を見つけた。


「こんばんは」


 声をかけると、エルドは驚いたように顔を上げた。


 すぐに立ち上がる。


「これは、アリシア様」


「私をご存じなのですね」


「この屋敷のお嬢様を知らずに来るほど、僕も無礼ではありません」


 そう言ってから、少しだけ困ったように笑った。


 近くで見ると、舞台の上より若く見えた。二十代半ばくらいだろうか。


「以前、音楽堂で演奏されていましたよね」


「……覚えていらしたんですか」


「ええ」


 その一言だけで、彼の顔が少し明るくなった。


 アリシアは、それがなぜか嬉しかった。


「あの曲は、誰が作ったものなのですか」


「僕です」


「あなたが?」


「まだ完成していませんが」


 エルドは持っていた楽譜を閉じた。


「だから、名前もありません」


「もったいないですね」


「名前をつけるほどの曲かどうか、自分では分からないんです」


 アリシアは少し考えた。


「なら、誰かに贈ってみてはいかがですか」


「贈る?」


「ええ。曲は言葉に似ていますから。誰かに伝えたいことがあるなら、きっと名前も決まります」


 エルドはしばらく黙っていた。


 やがて、穏やかに笑った。


「面白いことをおっしゃる」


「変でしょうか」


「いいえ」


 彼は首を振った。


「むしろ、そんなことを言われたのは初めてです」


 それから二人は、夜会のたびに少しずつ話すようになった。


 アリシアは詩を書くことが好きだった。


 けれど伯爵家では、それを知る者はほとんどいない。


 貴族の娘に必要なのは、刺繍と礼儀と、家に利益をもたらす結婚だった。


 詩など何の役にも立たない。


 少なくとも、父はそう考えている。


「僕は好きですよ」


 ある日、アリシアがその話をすると、エルドは言った。


「まだ読んでもいないのに?」


「好きなものについて話す人の顔は、だいたい分かります」


「どんな顔ですか」


「少しだけ子どもみたいな顔です」


「失礼ですね」


「褒めたつもりです」


 二人は笑った。


 それだけだった。


 手を触れることもなければ、秘密の約束をすることもない。


 けれどアリシアは、次に彼と話せる夜を待つようになった。


 そして秋が来るころには、それが恋だと知っていた。


     


 婚約の話が決まったのは、冬の初めだった。


 相手は北方を治める侯爵家の長男。


 家柄も財産も申し分ない。


「来年の春には正式に発表する」


 父は食卓で、それだけ告げた。


 アリシアは「分かりました」と答えた。


 ほかに言えることなどなかった。


 その夜、机の前に座ったまま、何時間も白い紙を見つめた。


 エルドに何か伝えたかった。


 けれど、愛しています、と書くことはできなかった。


 そんな言葉を渡して、彼に何をさせるのだろう。


 伯爵家の娘を連れて逃げろとでもいうのか。


 自分のために人生を捨ててほしいのか。


 違う。


 そんな恋をしたかったわけではない。


 だからアリシアは、一篇の詩を書いた。


 夜が明けるころ、最後の一行を書き終えた。


 題を、


『愛の恵み』


 とした。


     


 次の演奏会が、二人の最後になるはずだった。


「これを」


 音楽堂の裏口で、アリシアは封筒を差し出した。


 エルドは受け取らなかった。


「どうしたんですか」


「婚約が決まりました」


 彼の手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


「……そうですか」


「春には王都を離れます」


「そうですか」


 同じ言葉を、彼はもう一度言った。


 アリシアは笑おうとした。


「おめでとう、と言ってくださらないのですね」


「言った方がいいですか」


「いいえ」


「なら、言いません」


 その答えに、泣きそうになった。


 だから急いで封筒を押しつけた。


「詩です」


「僕に?」


「はい」


「なぜ」


「以前、曲は言葉に似ていると言いましたよね」


 エルドは黙っている。


「だから、これは私の曲です」


 そう言って、アリシアは笑った。


「返事はいりません」


 それだけ言って、背を向けた。


 本当は振り返りたかった。


 追いかけてほしかった。


 名前を呼んでほしかった。


 けれど、そんなことを望んではいけない。


 アリシアは歩いた。


 石畳を踏む靴の音だけが、いつまでも背中を追ってきた。


     


 詩には、こう書いた。


 春になれば花が咲くように。


 朝になれば鳥が歌うように。


 あなたが幸せでありますように。


 私が、その隣にいなくても。


     


 それから一か月。


 エルドから何の連絡もなかった。


 当然だった。


 返事はいらないと言ったのは自分なのだから。


 年が明け、屋敷には婚礼衣装の見本が運び込まれ始めた。


 母と仕立て師が布地について話している間、アリシアは窓の外を見ていた。


 庭には薄く雪が積もっている。


 春になれば、ここを離れる。


 そう考えても、不思議なほど実感がなかった。


「アリシア様」


 侍女が部屋へ入ってきた。


「お届け物がございます」


「誰から?」


「王都音楽院からです」


 細長い包みだった。


 中に入っていたのは、数枚の楽譜。


 一番上に、小さく文字が書いてある。


 ――A.A.へ。


 アリシアは息を止めた。


 同封された紙には、一文だけ。


『あなたの詩への返事です。』


 名前はなかった。


 必要なかった。


 アリシアは楽譜を抱え、自室へ走った。


 ピアノの蓋を開く。


 最初の音を鳴らした。


 柔らかな和音だった。


 次の音。


 その次。


 右手が歌い、左手がそれを支える。


 けれど、途中から空白が増えた。


 アリシアはすぐに気づいた。


 これはピアノだけの曲ではない。


 もう一つの旋律が必要なのだ。


 五線の上に、小さく記された文字。


 Violino.


 ヴァイオリン。


「……ずるいわ」


 思わず、笑ってしまった。


 一人では完成しない曲だった。


 最後のページまで弾いた。


 そこで初めて、隅に小さく書かれた文字に気づく。


『Liebes(リーベス)gruss(グルース)』


 古い北方語だった。


 家庭教師から習ったことがある。


 Liebe(リーベ)は、愛。


 Gruss(グルース)は――


「挨拶……」


 アリシアは指を鍵盤に置いたまま、動けなくなった。


 愛の挨拶。


 別れではなく。


 挨拶。


     


「どうして、この名前なのですか」


 三日後、アリシアはエルドを訪ねた。


 貴族の令嬢が一人で訪れるような場所ではない。音楽院の裏手にある、小さな練習室だった。


 エルドは窓際に立っていた。


「気に入りませんでしたか」


「そういうことではありません」


「なら、よかった」


「答えてください」


 アリシアは楽譜を胸に抱いた。


「私は別れの詩を書いたつもりでした」


「知っています」


「では、なぜ」


 エルドは少しだけ目を伏せた。


「僕には、別れに見えなかったからです」


「え?」


「あなたの詩は、最後まで僕の幸せを願っていた」


 彼はヴァイオリンを手に取った。


「それを別れと呼んでしまったら、本当に全部終わる気がしたんです」


「でも、私は春に王都を離れます」


「ええ」


「もう会えないかもしれない」


「ええ」


「それでも?」


 エルドは笑った。


「人は、二度と会わない相手に『また明日』とは言いません」


 アリシアは黙った。


「僕はあなたに、さようならと言いたくない」


 その言葉は、愛しています、よりもずっと深く胸に刺さった。


「だから、挨拶にしました」


「……ずるいです」


「何がですか」


「それでは、私が忘れられないではありませんか」


「忘れてほしいと言われた覚えはありません」


 アリシアは俯いた。


 涙が落ちそうだった。


 するとエルドが、少し困ったように言った。


「一度、弾いてみませんか」


「今?」


「あなたがピアノを。僕がヴァイオリンを」


「でも」


「一度だけです」


 アリシアはしばらく迷ってから、椅子に座った。


 楽譜を開く。


 エルドがヴァイオリンを肩に乗せる。


「では」


 彼が弓を上げた。


「最初から」


 アリシアが鍵盤を押す。


 柔らかな和音。


 その上に、ヴァイオリンの旋律が重なった。


 アリシアは思わず顔を上げた。


 これだった。


 一人で弾いたとき、どうしても空いていた場所。


 そこを彼の音が満たしていく。


 ピアノが問いかける。


 ヴァイオリンが答える。


 ヴァイオリンが少し遠くへ行けば、ピアノが追いかける。


 また戻ってくる。


 まるで二人の会話だった。


 初めて庭で話した夜。


 音楽堂の廊下。


 笑ったこと。


 言えなかったこと。


 全部が音になっていた。


 最後の和音が消える。


 部屋に静けさが戻った。


「……これが返事ですか」


 アリシアが尋ねた。


「はい」


「言葉では言ってくださらないのですね」


「音楽家なので」


「卑怯です」


「詩人に言われたくありません」


 二人は笑った。


 けれど、笑い終われば別れなければならない。


 アリシアは立ち上がった。


「では」


 言葉が喉に引っかかった。


 それでも言った。


「さようなら、エルド」


 彼は首を振った。


「いいえ」


「……では、何と?」


 エルドはヴァイオリンを下ろした。


「また、お会いしましょう」


 それは約束ではなかった。


 いつ、どこで、と決めたわけでもない。


 けれどアリシアは、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。


「ええ」


 だから同じように答えた。


「また、お会いしましょう」


     


 春。


 アリシアは王都を離れた。


 結婚式は、行われなかった。


 北方で領地争いが起き、侯爵家は婚姻どころではなくなった。話は一年延期され、その一年が二年になり、やがて正式に白紙となった。


 けれどアリシアは王都へ戻らなかった。


 父の領地で学校を作った。


 女の子にも詩や音楽を教える、小さな学校だった。


 エルドから手紙は来なかった。


 アリシアも送らなかった。


 それでも年に一度だけ、王都から新しい楽譜が届いた。


 差出人は書かれていない。


 題名だけがある。


『夏の窓』


『雨あがり』


『遠い灯』


 どの曲にも、ヴァイオリンの旋律があった。


 だからアリシアは、そのたびにピアノを弾いた。


 一人で。


 空いている旋律を想像しながら。


     


 五年後。


 王都へ戻ったアリシアは、一枚の演奏会のポスターを見つけた。


 王立音楽堂。


 秋季演奏会。


 指揮者と作曲家の名が並ぶ、その一番下。


 エルド・ハーヴェイ。


 ずいぶん有名になったらしい。


 アリシアは切符を買った。


 夜。


 五年前と同じ音楽堂。


 けれど今度は、客席の誰もが彼の名を知っていた。


 エルドが舞台へ現れる。


 拍手が起こる。


 五年前より少し大人びていた。


 それでも、ヴァイオリンを構える姿は変わらない。


 何曲か演奏したあと、エルドは観客へ向かって言った。


「最後に、一曲だけ」


 客席が静まる。


「ずいぶん昔に書いた曲です」


 アリシアの心臓が鳴った。


「当時、この曲には一人分の音しかありませんでした」


 舞台の中央に、一台のピアノが置かれる。


 エルドは客席を見渡した。


「今夜、もし、その人がここにいるなら」


 アリシアは息を止めた。


「一緒に完成させてほしいと思います」


 客席がざわめく。


 エルドの目が止まった。


 遠い席。


 それでも、確かに目が合った。


 アリシアは笑った。


 立ち上がる。


 五年前と同じように、少しだけ震えていた。


 舞台へ上がる。


「お久しぶりです」


 エルドが言った。


「ええ」


「お元気でしたか」


「それを今聞くのですか」


「挨拶なので」


 アリシアは笑った。


 ピアノの前に座る。


「題名は変えていないのですね」


「変える理由がありますか」


「ありません」


 エルドがヴァイオリンを構える。


 アリシアは鍵盤に指を置いた。


 五年前。


 別れの代わりに交わした旋律。


 一人では完成しない曲。


 最初の音を弾く。


 ヴァイオリンが答える。


 あのころより、少しだけゆっくりと。


 けれど確かに、同じ旋律だった。


 愛している、なんて言葉は、まだ少し恥ずかしい。


 きっと彼も同じなのだろう。


 だから私たちは、音楽で言う。


 お久しぶりです。


 ただいま。


 おかえりなさい。


 そして。


 これからも、よろしく。


 最後の音が、静かに消えた。


 拍手が起こるより先に、エルドが小さな声で言った。


「また、お会いできましたね」


 アリシアは笑った。


「ええ」


 今度は、もう別れなくていい。


「お久しぶりです、エルド」


 それは告白ではない。


 求婚でもない。


 ただの挨拶だ。


 けれどきっと、愛というものは、こういう何気ない言葉の中に、一番長く残る。


 だからこの曲には、これ以上ふさわしい名前はない。


 別れの歌ではなく。


 再会の約束でもなく。


 何度でも、大切な人へ声をかけるための曲。


 ――愛の挨拶。

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