愛の挨拶
その曲には、まだ名前がなかった。
春の終わり、王都の小さな音楽堂で、アリシアは初めてその旋律を聴いた。
舞台に立っていたのは、黒い礼服の青年だった。王宮付きでもなければ、有名な楽団の首席奏者でもない。ただ、今夜の演奏会で欠員が出たために呼ばれた、名も知られていないヴァイオリン弾きだった。
けれど、彼が弓を弦に触れさせた瞬間、アリシアは息をするのを忘れた。
ひどく華やかな曲ではなかった。
剣を掲げる騎士のような勇ましさも、嵐を呼ぶ魔術師のような激しさもない。ただ、一人の人間が、もう一人の人間へ話しかけているような音だった。
ねえ、と。
聞いてください、と。
そんなふうに。
演奏が終わると、客席から控えめな拍手が起こった。
アリシアは誰より長く手を叩いた。
「お気に召しましたか」
隣に座る母が尋ねた。
「ええ、とても」
「でも、あの方、平民でしょう」
母はそれだけ言って、興味を失ったように次の演目の冊子へ視線を落とした。
アリシアはもう一度、舞台を見た。
青年は深く頭を下げていた。
その人の名を知ったのは、演奏会が終わったあとだった。
エルド・ハーヴェイ。
王都の南区にある、小さな楽団で働いているらしい。
伯爵令嬢であるアリシアと、平民の音楽家。
本来なら、それだけで終わる話だった。
けれどその夜、屋敷へ戻ったアリシアは、一篇の詩を書いた。
誰にも見せるつもりはなかった。
ただ、あの旋律を忘れたくなかったのだ。
二人が初めて言葉を交わしたのは、それからひと月ほど経ったころだった。
伯爵家で小さな夜会が開かれ、演奏のために呼ばれた楽団の中にエルドがいた。
休憩時間。
庭へ出たアリシアは、噴水のそばで一人、楽譜を眺めている青年を見つけた。
「こんばんは」
声をかけると、エルドは驚いたように顔を上げた。
すぐに立ち上がる。
「これは、アリシア様」
「私をご存じなのですね」
「この屋敷のお嬢様を知らずに来るほど、僕も無礼ではありません」
そう言ってから、少しだけ困ったように笑った。
近くで見ると、舞台の上より若く見えた。二十代半ばくらいだろうか。
「以前、音楽堂で演奏されていましたよね」
「……覚えていらしたんですか」
「ええ」
その一言だけで、彼の顔が少し明るくなった。
アリシアは、それがなぜか嬉しかった。
「あの曲は、誰が作ったものなのですか」
「僕です」
「あなたが?」
「まだ完成していませんが」
エルドは持っていた楽譜を閉じた。
「だから、名前もありません」
「もったいないですね」
「名前をつけるほどの曲かどうか、自分では分からないんです」
アリシアは少し考えた。
「なら、誰かに贈ってみてはいかがですか」
「贈る?」
「ええ。曲は言葉に似ていますから。誰かに伝えたいことがあるなら、きっと名前も決まります」
エルドはしばらく黙っていた。
やがて、穏やかに笑った。
「面白いことをおっしゃる」
「変でしょうか」
「いいえ」
彼は首を振った。
「むしろ、そんなことを言われたのは初めてです」
それから二人は、夜会のたびに少しずつ話すようになった。
アリシアは詩を書くことが好きだった。
けれど伯爵家では、それを知る者はほとんどいない。
貴族の娘に必要なのは、刺繍と礼儀と、家に利益をもたらす結婚だった。
詩など何の役にも立たない。
少なくとも、父はそう考えている。
「僕は好きですよ」
ある日、アリシアがその話をすると、エルドは言った。
「まだ読んでもいないのに?」
「好きなものについて話す人の顔は、だいたい分かります」
「どんな顔ですか」
「少しだけ子どもみたいな顔です」
「失礼ですね」
「褒めたつもりです」
二人は笑った。
それだけだった。
手を触れることもなければ、秘密の約束をすることもない。
けれどアリシアは、次に彼と話せる夜を待つようになった。
そして秋が来るころには、それが恋だと知っていた。
婚約の話が決まったのは、冬の初めだった。
相手は北方を治める侯爵家の長男。
家柄も財産も申し分ない。
「来年の春には正式に発表する」
父は食卓で、それだけ告げた。
アリシアは「分かりました」と答えた。
ほかに言えることなどなかった。
その夜、机の前に座ったまま、何時間も白い紙を見つめた。
エルドに何か伝えたかった。
けれど、愛しています、と書くことはできなかった。
そんな言葉を渡して、彼に何をさせるのだろう。
伯爵家の娘を連れて逃げろとでもいうのか。
自分のために人生を捨ててほしいのか。
違う。
そんな恋をしたかったわけではない。
だからアリシアは、一篇の詩を書いた。
夜が明けるころ、最後の一行を書き終えた。
題を、
『愛の恵み』
とした。
次の演奏会が、二人の最後になるはずだった。
「これを」
音楽堂の裏口で、アリシアは封筒を差し出した。
エルドは受け取らなかった。
「どうしたんですか」
「婚約が決まりました」
彼の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……そうですか」
「春には王都を離れます」
「そうですか」
同じ言葉を、彼はもう一度言った。
アリシアは笑おうとした。
「おめでとう、と言ってくださらないのですね」
「言った方がいいですか」
「いいえ」
「なら、言いません」
その答えに、泣きそうになった。
だから急いで封筒を押しつけた。
「詩です」
「僕に?」
「はい」
「なぜ」
「以前、曲は言葉に似ていると言いましたよね」
エルドは黙っている。
「だから、これは私の曲です」
そう言って、アリシアは笑った。
「返事はいりません」
それだけ言って、背を向けた。
本当は振り返りたかった。
追いかけてほしかった。
名前を呼んでほしかった。
けれど、そんなことを望んではいけない。
アリシアは歩いた。
石畳を踏む靴の音だけが、いつまでも背中を追ってきた。
詩には、こう書いた。
春になれば花が咲くように。
朝になれば鳥が歌うように。
あなたが幸せでありますように。
私が、その隣にいなくても。
それから一か月。
エルドから何の連絡もなかった。
当然だった。
返事はいらないと言ったのは自分なのだから。
年が明け、屋敷には婚礼衣装の見本が運び込まれ始めた。
母と仕立て師が布地について話している間、アリシアは窓の外を見ていた。
庭には薄く雪が積もっている。
春になれば、ここを離れる。
そう考えても、不思議なほど実感がなかった。
「アリシア様」
侍女が部屋へ入ってきた。
「お届け物がございます」
「誰から?」
「王都音楽院からです」
細長い包みだった。
中に入っていたのは、数枚の楽譜。
一番上に、小さく文字が書いてある。
――A.A.へ。
アリシアは息を止めた。
同封された紙には、一文だけ。
『あなたの詩への返事です。』
名前はなかった。
必要なかった。
アリシアは楽譜を抱え、自室へ走った。
ピアノの蓋を開く。
最初の音を鳴らした。
柔らかな和音だった。
次の音。
その次。
右手が歌い、左手がそれを支える。
けれど、途中から空白が増えた。
アリシアはすぐに気づいた。
これはピアノだけの曲ではない。
もう一つの旋律が必要なのだ。
五線の上に、小さく記された文字。
Violino.
ヴァイオリン。
「……ずるいわ」
思わず、笑ってしまった。
一人では完成しない曲だった。
最後のページまで弾いた。
そこで初めて、隅に小さく書かれた文字に気づく。
『Liebesgruss』
古い北方語だった。
家庭教師から習ったことがある。
Liebeは、愛。
Grussは――
「挨拶……」
アリシアは指を鍵盤に置いたまま、動けなくなった。
愛の挨拶。
別れではなく。
挨拶。
「どうして、この名前なのですか」
三日後、アリシアはエルドを訪ねた。
貴族の令嬢が一人で訪れるような場所ではない。音楽院の裏手にある、小さな練習室だった。
エルドは窓際に立っていた。
「気に入りませんでしたか」
「そういうことではありません」
「なら、よかった」
「答えてください」
アリシアは楽譜を胸に抱いた。
「私は別れの詩を書いたつもりでした」
「知っています」
「では、なぜ」
エルドは少しだけ目を伏せた。
「僕には、別れに見えなかったからです」
「え?」
「あなたの詩は、最後まで僕の幸せを願っていた」
彼はヴァイオリンを手に取った。
「それを別れと呼んでしまったら、本当に全部終わる気がしたんです」
「でも、私は春に王都を離れます」
「ええ」
「もう会えないかもしれない」
「ええ」
「それでも?」
エルドは笑った。
「人は、二度と会わない相手に『また明日』とは言いません」
アリシアは黙った。
「僕はあなたに、さようならと言いたくない」
その言葉は、愛しています、よりもずっと深く胸に刺さった。
「だから、挨拶にしました」
「……ずるいです」
「何がですか」
「それでは、私が忘れられないではありませんか」
「忘れてほしいと言われた覚えはありません」
アリシアは俯いた。
涙が落ちそうだった。
するとエルドが、少し困ったように言った。
「一度、弾いてみませんか」
「今?」
「あなたがピアノを。僕がヴァイオリンを」
「でも」
「一度だけです」
アリシアはしばらく迷ってから、椅子に座った。
楽譜を開く。
エルドがヴァイオリンを肩に乗せる。
「では」
彼が弓を上げた。
「最初から」
アリシアが鍵盤を押す。
柔らかな和音。
その上に、ヴァイオリンの旋律が重なった。
アリシアは思わず顔を上げた。
これだった。
一人で弾いたとき、どうしても空いていた場所。
そこを彼の音が満たしていく。
ピアノが問いかける。
ヴァイオリンが答える。
ヴァイオリンが少し遠くへ行けば、ピアノが追いかける。
また戻ってくる。
まるで二人の会話だった。
初めて庭で話した夜。
音楽堂の廊下。
笑ったこと。
言えなかったこと。
全部が音になっていた。
最後の和音が消える。
部屋に静けさが戻った。
「……これが返事ですか」
アリシアが尋ねた。
「はい」
「言葉では言ってくださらないのですね」
「音楽家なので」
「卑怯です」
「詩人に言われたくありません」
二人は笑った。
けれど、笑い終われば別れなければならない。
アリシアは立ち上がった。
「では」
言葉が喉に引っかかった。
それでも言った。
「さようなら、エルド」
彼は首を振った。
「いいえ」
「……では、何と?」
エルドはヴァイオリンを下ろした。
「また、お会いしましょう」
それは約束ではなかった。
いつ、どこで、と決めたわけでもない。
けれどアリシアは、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
「ええ」
だから同じように答えた。
「また、お会いしましょう」
春。
アリシアは王都を離れた。
結婚式は、行われなかった。
北方で領地争いが起き、侯爵家は婚姻どころではなくなった。話は一年延期され、その一年が二年になり、やがて正式に白紙となった。
けれどアリシアは王都へ戻らなかった。
父の領地で学校を作った。
女の子にも詩や音楽を教える、小さな学校だった。
エルドから手紙は来なかった。
アリシアも送らなかった。
それでも年に一度だけ、王都から新しい楽譜が届いた。
差出人は書かれていない。
題名だけがある。
『夏の窓』
『雨あがり』
『遠い灯』
どの曲にも、ヴァイオリンの旋律があった。
だからアリシアは、そのたびにピアノを弾いた。
一人で。
空いている旋律を想像しながら。
五年後。
王都へ戻ったアリシアは、一枚の演奏会のポスターを見つけた。
王立音楽堂。
秋季演奏会。
指揮者と作曲家の名が並ぶ、その一番下。
エルド・ハーヴェイ。
ずいぶん有名になったらしい。
アリシアは切符を買った。
夜。
五年前と同じ音楽堂。
けれど今度は、客席の誰もが彼の名を知っていた。
エルドが舞台へ現れる。
拍手が起こる。
五年前より少し大人びていた。
それでも、ヴァイオリンを構える姿は変わらない。
何曲か演奏したあと、エルドは観客へ向かって言った。
「最後に、一曲だけ」
客席が静まる。
「ずいぶん昔に書いた曲です」
アリシアの心臓が鳴った。
「当時、この曲には一人分の音しかありませんでした」
舞台の中央に、一台のピアノが置かれる。
エルドは客席を見渡した。
「今夜、もし、その人がここにいるなら」
アリシアは息を止めた。
「一緒に完成させてほしいと思います」
客席がざわめく。
エルドの目が止まった。
遠い席。
それでも、確かに目が合った。
アリシアは笑った。
立ち上がる。
五年前と同じように、少しだけ震えていた。
舞台へ上がる。
「お久しぶりです」
エルドが言った。
「ええ」
「お元気でしたか」
「それを今聞くのですか」
「挨拶なので」
アリシアは笑った。
ピアノの前に座る。
「題名は変えていないのですね」
「変える理由がありますか」
「ありません」
エルドがヴァイオリンを構える。
アリシアは鍵盤に指を置いた。
五年前。
別れの代わりに交わした旋律。
一人では完成しない曲。
最初の音を弾く。
ヴァイオリンが答える。
あのころより、少しだけゆっくりと。
けれど確かに、同じ旋律だった。
愛している、なんて言葉は、まだ少し恥ずかしい。
きっと彼も同じなのだろう。
だから私たちは、音楽で言う。
お久しぶりです。
ただいま。
おかえりなさい。
そして。
これからも、よろしく。
最後の音が、静かに消えた。
拍手が起こるより先に、エルドが小さな声で言った。
「また、お会いできましたね」
アリシアは笑った。
「ええ」
今度は、もう別れなくていい。
「お久しぶりです、エルド」
それは告白ではない。
求婚でもない。
ただの挨拶だ。
けれどきっと、愛というものは、こういう何気ない言葉の中に、一番長く残る。
だからこの曲には、これ以上ふさわしい名前はない。
別れの歌ではなく。
再会の約束でもなく。
何度でも、大切な人へ声をかけるための曲。
――愛の挨拶。




