苦い経験
声のする方へ駆けつけ、勘助の身長さえも裕に超える草木を掻き分けた。
「……っ」
そこには、山の斜面だが僅かに窪地になった場所に、涙でぐしゃぐしゃになってしゃがみこむ勇と、彼の傍で倒れている小春の姿を見つけた。息を荒らげていた勘助の胸中は、一瞬安堵する。
「父ちゃん、小春が……」
その言葉と、ぐずぐずと泣く姿を見て、勘助の心臓が一つ、大きく不安に鳴り、血の気が引いた。
喉の奥が急速に乾き、張り付くような感触を覚えながら、息を呑む。
――まさか……。
勘助はその可能性を繰り返し頭の中で否定する。
恐る恐る小春の傍に近づき、微かに震える手で彼女の体に触れた。
温もりは……ある。
呼吸も……ある。
そこまで確認できると勘助は本当の意味で安堵し、肩から力を抜いて深いため息を吐いた。だが、よく見れば顔と腕には小さな擦り傷があり、左足首は僅かに腫れている。
「……」
「父ちゃん……」
勘助は勇を見た。
勇は顔中泥だらけになっていて、着物が所々裂けてはいるが、怪我をしている様子はない。
「……!」
勘助は目を見開き、普段見せない厳しい表情を見せ、勇の肩を掴むと無言で右手を振り上げた。
――ぶたれる。
瞬間、勇は体を震わせて目をきつく閉じ、反射的に両手で頭を抱えて身を縮こませる。
「……」
だが、食らうはずの衝撃は来ず、勇が恐る恐る目を開いて見上げると、勘助は顔の横に振り上げたままの手のひらをきつく握り締めた。震えるその手はやがてゆっくり降ろされ、肩を掴んでいた手が離れていく。
「……帰るぞ」
勘助は小春を抱き上げると、勇に背を向けて一言、抑揚のない低い声でそう告げた。
――父ちゃんを、怒らせた……。
勇は先を歩く父の背中を上目遣いに見上げる。
一言も話さず、振り返ることもない父の大きな背中が、今の勇には恐ろしかった。
ただ黙って、安全な道を選びながら歩く父の姿に涙が滲む。
「……」
勇は視線を下げ、心が重たくなった。
――殴られるのは痛くて怖い。でも、殴られなかったことの方が……もっと痛くて、怖い。
ぎゅっと腹部の着物をきつく握りしめ、勇は唇を噛んだ。
「小春!」
山を下りると、捜索に出ていた大人たちが総出で出迎えてくる。
二人が無事に戻ってきたことを心から安堵して喜ぶ大人たちの声を背に、弥七が勘助の傍に駆け寄り小春を抱え込む。
弥七は抱きしめた小春の様子を見て、大事ないことを確認すると、ようやく肩から力が抜けた。
「浪越さま」
背を向けてしゃがみ込んでいた弥七は、ゆっくりと振り返る。
「すみませんでした」
勘助が静かに頭を下げると、弥七はそんな彼をやや目を眇めて見つめる。
勇は、自分の目の前で頭を深々と下げる勘助を見つめ、ただ困惑していた。
「多少の怪我をしているとはいえ、無事に戻ったから良かったものの……何かあったらどうするつもりでいたんですか」
「……返す言葉もございません」
頭を下げたまま、勘助は動かない。ただ、眉間に深い皺を刻み、視線は食い入るように地面の一点だけをじっと見つめている。
――父ちゃんが、怒られている……。
まさかそんな場面を目の当たりにするとは思ってもいなかった勇には、この状況にショックを受けた。
――悪いのは俺なのに、なんで父ちゃんが怒られなきゃいけないんだ……。
勇は、ただただ困惑していた。
「このことの重大さ、よくよくお考え頂きたい」
「……はい」
弥七が立ち上がりこの場を去ろうとした瞬間、ほんの一瞬だけ彼は勇に視線を向けてきた。
「……っ」
勇は真正面からその視線を浴び、さっと顔が青ざめ、息が詰まった。
まるで、自分という存在を疎んでいるかのような、その眼差し……。
今まで弥七が自分に対し、そんな目を向けてきたことは一度たりともない。そのあまりに鋭く、冷ややかな視線に、勇は無意識に着物を掴む手に力が入った。
――俺も、謝らなくちゃ……。
頭では分かっていたが、どうしても体が動かない。
勘助は、弥七が見えなくなるまで頭を下げ続け、勇はその場に凍り付いてしまっていた。




