名前のない感情
小春は、とても腹を立てていた。
お転婆娘だと、なぜ勇の前で言われなければならないのか。
「酷い!」
居間の隅で正座をしたまま頬を膨らませ、拳を握りしめていた。
「小春? どうしたの?」
そこへ、焼きたての魚を持って炊事場からやってきた割烹着姿の母――キヨが不思議そうな顔で小春を見る。小春はキヨを見て一層不機嫌そうな顔を浮かべた。
「お父さんが、私のことお転婆だって!」
キヨは小春の愚痴を聞きながら、着物の袂を寄せて魚の乗った皿を机に並べ、小皿に盛ったほうれん草の白和えをそれぞれの位置に置いていく。
「勇の前で言わなくたっていいのに!」
傍に置いたおひつを引き寄せてご飯をよそい、豆腐の味噌汁を静かに椀に注ぎながら、怒りを露わにする小春にキヨは小さく笑った。
小春はキヨのその笑いも勘に障り、ますます頬が膨らむ。
「お母さん! 何で笑うの!」
「小春がお転婆だって言われて、怒るような歳になったんだなと思ったのよ」
優しい笑みを浮かべて、空になったお盆を胸の前に抱えながらキヨは小春を見る。
母のその言葉に、小春は瞬間的に言葉に詰まった。
その言葉も、なんだか嬉しくない……。
「お転婆だって言われて怒ったら、駄目なの……?」
「駄目じゃないわ。そうやって一つずつ、お姉さんになっていくのだもの」
「……」
黙り込んで俯いた小春に、キヨは頭を撫でた。
「……小春。いずれ、お家のためにあなたは嫁がなきゃいけないのだから、男を立て、後ろをついて歩く。そういう淑やかさを身に着けていかなきゃね」
その言葉に、小春の心が重たくなる。
理解はしている。女とはそうあるべきと小学校でも教わっているし、そこに疑問はない。ただ、勇の前でだけは言われたくなかった。
「お姉さんになんか、なりたくない……」
ぽろっと零れた本音が、店先から部屋に入ってきた弥七の耳に入る。
弥七の姿が見えると、キヨは静かに立ち上がり、そそくさと炊事場へと盆を返しに行った。
下を向いたままむくれている小春の横に弥七が座ると、小春の体が小さく反応を示し、膝の上に置いていた手を握りしめた。
「小春」
炊事場から戻ってきたキヨを待ち、弥七が声をかけると小春は恐る恐る視線を上げる。
小春は、人前では饒舌に話をする弥七が、家の中では多くを話さないこの空気があまり好きじゃない。
「顔を上げて、食事を摂りなさい」
「……はい」
弥七はそういうと「いただきます」と手を合わせ、黙々と食事に手を付け始める。それに合わせてキヨも食事を摂り始めた。
小春はちらりと弥七を見上げるが、反論できるはずもなく、静かに箸に手を伸ばした。
***
「お帰りなさい。ご飯できていますよ」
帰り着いた勇と勘助を、母――一葉が笑顔で出迎える。
卓上にはだし巻き卵や魚、里芋の煮ころがしと味噌汁がすでに用意されていた。
「おお、今日も美味そうだ!」
「ほらほら、二人とも。早く手を洗ってきてくださいな」
一葉が二人を水場に追い立てると、勇たちは汲み置かれた井戸水で顔や手の汚れを洗い流す。
「父ちゃん」
「ん?」
「母ちゃんは元気だよな」
「あぁ、そうだな」
「やっぱ元気な方がいいな! 大人しい小春なんて想像できねぇもん!」
手拭いで水を拭い、それを首にかけると、勇は「腹が減った~!」と部屋の中へ戻っていく。
「……」
残った勘助はそんな勇の背中を見送り、小難しい顔を浮かべてため息を吐き、濡れた体を拭った。
食卓に戻った勘助を待ち、全員揃ったところで手を合わせて食事を摂り始める。
「母ちゃん、ご飯食べたらまた遊びに行ってくる!」
「まったく勇は……。明日からまた学校があるでしょう? 手習いが残ってるんじゃないの?」
「もう終わったよ~」
顔に米を付けたままにんまりと笑みを浮かべる勇に、一葉は呆れたような顔を浮かべる。
「そんなこと言って、後で出てきたらどう言いわけするつもり?」
「ほ、本当だって! ちゃんと終わらせた!」
疑われ、勇はムッとした顔を浮かべて言い返す。そんな彼の様子を見ていた勘助は笑い出した。
「よし! お前がそこまで言うなら本当なんだろう。俺は信じるぞ?」
「あなた……」
勇に対してどこか甘さの目立つ勘助に、一葉は困ったように視線をやる。しかし、勘助は笑顔を崩すことなく、勇の頭を少々乱暴にぐいぐいと撫でつけた。
「終わっていると本人が言っているんだ。な? 勇」
「……う、うん!」
満面の笑みで「信じる」と言われた勇は、一瞬言葉を呑み、ぎこちなくも頷き返した。
「心配せずとも、ちゃんとやってるさ。もしやってなければ……ま、困るのは自分だからな」
「……」
勘助の言葉に、勇はどこか僅かに視線を下げ、箸を動かす。だが、すぐに何かを思い出したように顔を上げると、勘助を振り返った。
「父ちゃん、そういえばお土産は?」
「あぁ、そうだな。ちょっと待て……」
勘助は箸と茶碗を机に置くと、腰から下げていた袋に手を伸ばした。
勇は大きな団扇だと思っていたが、それらしきものがない。団扇でないなら一体何が出てくるのかと、目をキラキラさせながら勘助を見つめていた。
「ほら、これだ」
差し出されたのは、大きな勘助の手に隠れるくらいの、二つの細長い包みだった。
「何これ?」
「これはな、寶月堂の栗饅頭だ。丸亀につい最近できた菓子店のだよ」
「あらやだ。そんなお菓子だなんて、高かったんじゃないですか?」
一葉が驚いたようにそういうと、勘助は「買ったんじゃない、貰ったんだよ」と言葉を付け足した。
ご飯を掻き込んだ勇は「ごちそうさまでした!」と手を合わせ、栗饅頭を見つめる。
「父ちゃん、一個貰っていいか?」
「そりゃ構わないが……二個じゃなくていいのか?」
「何言ってんだ。俺が二個貰ったら母ちゃんのが無くなるだろ」
そう言うと、栗饅頭の一つを一葉の前に置き、もう一つを着物の袂にしまい込む。
「小春とわけっこするんだ。父ちゃん、ありがと!」
勇はにこやかに父に礼を言うと、すぐさま遊びに出て行ってしまう。
落ち着きのない我が子を見送り、一葉も勘助も困ったようなため息を吐いた。




