馴染みの友
温かな春風が吹く。
桜の花びらと共に軒先に干された洗濯物が揺れ、町一帯は醤油やだしの良い匂いに包まれていた。
一本、太い通り道を挟んだ両隣に軒を連ねる木造の商店では豆腐や野菜、港で上がったばかりの魚を売りに出している。そんな家々の並ぶ本通りを往来する人々の間を縫うように、十歳の少年――橋倉勇が港方面に向かって走っていた。
瞳を輝かせ、米屋の前を通り過ぎると店の中から少女――浪越小春が慌てたように駆け出てくる。
「勇!」
鈴を転がしたような声で名を呼ぶと、勇は足を止めて振り返った。
「どこ行くの?」
「もうすぐ、父ちゃんが汽車に乗って帰ってくるんだ!」
満面の笑みを浮かべる勇に、小春もまた目を輝かせた。
「お父さん、私も一緒に行ってもいい?」
小春が店の奥に声をかけると着物を着た父、弥七が着物の袂に腕を入れ、呆れたような顔を浮かべる。
「なんだ……また汽車を見に行くのかい?」
「うん! 勇も一緒だよ!」
「そうか。もうじき昼餉の支度が整う。見たらすぐに帰っておいで」
「はぁい!」
小春は満面の笑みを浮かべて返事を返すと、店を飛び出して勇と合流する。
「今日は父ちゃん、丸亀から土産を持って帰ってきてくれるって言ってたんだ!」
カラコロと下駄の音を立て、駅を目指して走りながら勇は嬉しそうに呟く。
「お土産?」
「きっとでっけぇ団扇なんだろうなぁ! 小春が吹き飛ぶくらいでっけぇやつ!」
大袈裟なくらい両手で大きさを表現すると、小春はムッとしたように頬を膨らませた。
「私、飛ばないよ」
「分かんねぇよ?」
意地悪く笑う勇に、小春は口を尖らせながらますます顔を顰める。
「私が飛ぶなら、勇だって飛んじゃうよ」
「俺は飛ばない。男だからな!」
「え~? そんなのずるい! じゃあ、勇に掴まるから私も飛ばないもん!」
怒る小春に勇は楽しそうに笑いながら、他愛無い喧嘩をしながら町中を駆けていく。
ふと、遠くから蒸気機関車特有の汽笛と大地を揺らすような大きな車輪の音が近づいてくる音が聞こえてきた。
「帰ってきた! 小春、急げ!」
「あ、待ってぇ!」
勇が走るスピードを上げると、小春は慌てたように声を上げる。その声に歩調を弱めた勇は、手を伸ばして彼女の手をぎゅっと握ると、一緒に走り出した。
一緒になって駅へ向かうと、濛々と煙をあげて汽笛を鳴らしゆっくりと多度津駅に入る汽車の姿が見える。
「間に合った!」
ハチロクと呼ばれる大きな蒸気機関車がホームに入り、完全停車すると一際大きく、白い煙を上げて息を吐いた。少しして乗客たちを乗せた客車の扉が開き、中からぞろぞろと大きな鞄や風呂敷包みを抱えて降りてくる人々の姿が見える。
二人は駅の傍まで駆けてくると、ホームのすぐ傍で立ち止まり感嘆の声を上げた。
「すっげぇ……。格好いいなぁ……」
何度も見ているハチロク。それでも、多くの人を運ぶその姿を目の当たりにする度、勇の胸は高鳴り、気分が高揚した。
そんな興奮冷めやらぬ勇に、隣で息を整えていた小春は、得意げ笑う。
「そうよ。だってうちのお父さんたちが造ったんだもん。格好いいに決まってる」
「でた。小春の自慢」
うんざりしたような目をして小春を見ると、小春は誇らしげな表情を崩すことなく笑う。
「だって、そうなんだもん」
勇が胸を焦がし、憧れてやまない機関車の話をする度、小春は誇らしい気持ちでいっぱいになる。
「おや。勇と小春お嬢さん」
客が全員降り切ったあと運転席から降りてきた勇の父、勘助が二人の存在に気付く。
全身煤で真っ黒になっている勘助は、首から下げていた手拭いで乱雑に顔を拭うと、ホームを下りて二人の前にやってきた。
「お帰り! 父ちゃん!」
「おう。ただいま!」
自分が黒くなることなど厭わず、勇は勘助にしがみつくと、汗と石炭の濃いニオイが鼻腔をくすぐる。
「今日も父ちゃん、いいにおいがする!」
「おいおい、冗談だろう」
困ったように笑う勘助だが、勇には自分や母のために懸命に働いてきた父の体臭を、嫌なニオイだと思ったことはない。むしろ、それが勇にとって誇らしいことだった。
「勘助おじさん、お帰りなさい!」
「小春お嬢さんまで出迎えてくれるとは、わざわざすみません」
勘助が頭を小さく下げながらいうと、小春は無邪気な微笑み返した。
「さぁ、俺も今から昼休憩だ。帰って母さんの美味い飯にありつこう」
二人を促すように勘助が歩き出す。その勘助のくたびれた大きな背中を見つめ、勇は得意げに微笑む。
「俺もいつか、父ちゃんみたいな運転士になるんだ」
その純粋で真っすぐな瞳を見て、小春は大きく頷き返した。
「うん! 勇なら絶対なれるよ!」
小春のその言葉に、勇は少しだけ照れくさそうに鼻の下を人差し指でこすった。




