1話
2008年9月15日。
この日アメリカの伝統ある投資銀行が破産した。
リーマンブラザーズ。
世間が知るところのリーマンショックその名前の由来となった出来事だ。
この金融危機は住宅価格の上昇を背景に、本来返済能力を有していなかった人たちに貸し付けられた大量の住宅ローンと、
その負債から生成された金融商品が世界中に流布したことに端を発する。
普通ものを売る人間はその商品の中身をきちんと把握しておくものだが、おざなりにもその毒は見抜かれることなく世界中の金融機関がその商品に熱中した。
はじめは確かにうまくいっていた。
持ち家の価格が上昇すればローンのやりくりがうまく回ったし、家が建てばそれに関連して消費も旺盛になる。
ただそのサイクルは所詮泡沫のもので、泡が弾けたタイミングで証券の担保になっていた住宅価格が暴落し債務者達は破産。
大量の不良債権の起爆とそれに伴う連鎖反応が未曾有の金融危機が引き起こした。
その爆発の威力は凄まじくS&P500は一時40%以上下落したし、遠くの日本でもTOPIXが同じくらい落ち込んだ。
実体経済の方も良かった分だけ今度は逆のサイクルが始まり、ものは売れずに投資は途絶え失業者が街に溢れる。
マネーゲームに参加していなかった人達までそのツケを支払うことになったのだ。
当然その災厄の震源地となったウォール街は人々から口汚く罵られ、誰もが金融の終焉を予感した。
が、けれども資本主義は死んでなどいなかった。その兆候はまず鉱業指数からあらわれる。
株価もそれに続いて堅調に回復を続け、アメリカでは2010年には暴落前の水準に回復する。
株価を見る限り人々の悲観に反して経済は復活したようである。
しかしこれはなにも奇跡じみた話ではない。歴史を振り返るとバブルと呼ばれる現象はいくつもあった。
土地神話に基づいた日本の不動産バブル、ドットコム革命、古いものではオランダのチューリップバブル。
それらの熱狂は名が体を表す通り全て弾けて、そのたびにメディチ家を批判したサヴォナローラよろしく、
金融業は社会から厳しく非難され資本主義の崩壊が予言されたが、それらの終末論はいずれも成就することなく私達が暮らす今がある。
記憶に新しいところだと100年に一度の危機と呼ばれたコロナにおいても経済活動の停止から世界の株価はおおきく毀損したが、
そのショックから一年と経たずNASDAQは過去最高値を叩き出す。
メインストリートで人々が疫病に苦しむさなかにそれは記録された。
それどころか業界の中にはそうした危機ですらも金融の力で乗り越えられると頭を働かせる人々すらいた。
再保険会社のスイス・REをスポンサーに持ち、ケイマン諸島に籍を置くVita Capital Ⅵ Limitedはそうしたミッションの為に設立された会社のひとつで、
2021年の7月に投資家向けにあるカタストロフィー債を発行した。
その中身はオーストラリア、カナダ、イギリス、アメリカの4カ国における超過死亡指数をトリガーにしたキャットボンドで、
購入者は2021年から5年間そのリスクを引き受けることでプレミアムを獲得するという内容であった。
もう少し嚙み砕いて言うと、予想されているよりもその4カ国で沢山の人が死ねば保険会社は得をして投資家は損をする。
逆にそうしたイベントが発生しなければ投資家は一定の収益を得られるというものだ。
1987年シカゴ連邦準備銀行で開催されたカンファレンスで、証券化可能なものは証券化されるという言葉が流行ったそうだが、
想定よりも人がたくさん死ぬというリスクに対して人類はすでにそれを証券化したらしい。
ちなみにこの証券のデフォルト確率は0.6%とはじめ発表されていたが、
2026年には全額償還される見込みとなったのでこれに投資を行った人は大きな損失を被ることとなる。
悪魔が人の魂を取引するみたいに人の生き死にでお金を動かしたのだからそれは因果応報だと考える人もいるかもしれない。
ただこれが暴落したということは当該地域において想定されていたよりも多くの人が死亡したことを意味するので手放しに喜ぶことは出来ないだろう。
とかく資本主義というものはその性質からあらゆるものに対して値札を貼り付けたがるものらしい。
そしてその査定は生者である君達にも当然実行される。
2019年に創業されたアファームは、
オンラインショッピング向けのローンを組む際に銀行のエージェンシーとして与信審査を行い、そこで組成されたローンの引受も行う会社として知られている。
早い話がネットに強い金貸しなのだが、その信用調査のやり方がユニークであることでも有名だ。
通常個人が銀行でローンを組む際は職業や年収などがヒアリングされた後にCICといったサービス、
アメリカではFICOなどで信用スコアが照会されてから判断が決定する。
この信用という言葉はなかなか厄介な代物で、良いスコアを稼ぐためには金融事故を起こさず、
継続的にクレジットカードなどを利用して信用を積み重ねていく必要がある。
しかし皆が皆充分な信用スコアを持っているのかというとそうではない。
アファームはそうしたサブプライムなどに分類されている人たちに注目をして、従来のやり方に依存しない与信審査を開発した。
それは機械学習によるアプローチである。
FICOなどでは数十の変数からスコアが求められたが、機械学習によるモデルなら1,000を超えるデータポイントでも難なく処理できる。
この技術によってリスクが高いとされてきた顧客に対して適切な金利でアファームは貸付を実現し会社はおおきく成長を遂げる。
2024年度の年次報告書を確認するとその取り扱い高は260億ドルを超え、アクティブユーザー数は1900万人へと迫っているのだから驚きだ。
それで気になるのが具体的に我々の何を利用してその機械とやらは信用を学習しているのだろう?
ZestFinanceは法人向けにそうしたモデル開発を支援している企業なのだが、
彼らいわく私達はインターネットにそのヒントとなるものを大量に残しているらしい。
例えば検索エンジンの使い方や、欲しい商品を見た時の時間や位置情報、そのページにたどり着くまでの経路などである。
こうしたものを業界ではライフログと呼ぶのだが、前述にある通りそうしたものを数千個もかき集めてモデルは開発されている。
あなたがネットで服を眺めているだけであなたのだいたいの年収が分かると言われている。
勝手にそんなことをするな!と反発したくもなるが、残念ながらこうした技術は一度開発されるとその流れを止めることはとても難しい。
だから規制の届かない場所で競争に勝ち抜き、より強く進化したモデルが私達の目の前にある日突然出現してもなんら不思議ではないのだ。
家でネコがごろごろしているだけの動画を毎日眺め、くだらないインフルエンサーの尻を追いかけていると、
将来住宅などでローンを組む際にそのことがあなたにとって不利に働くかもしれない。
だからたまには嘘でもいいから株で1000万儲けたとつぶやいてみたり、読む予定はなくてもウォーレンバフェットに関する著作を購入してAIにアピールしておくといいかもしれない。
いつ、どこであなたが監視されているのか誰にも分からないのである。
こんな話を急に聞かされると金融業界で働いている人のことを新たに憎む人が出てくるかもしれない。
その反応はとても人間らしく自然なものなので否定はしないが、ここで紹介した世界はあくまでも業界の一部でしかないということを強調しておきたい。
もちろん今後も高度なアルゴリズムやAIが業界全体の成長を牽引していくことだろうが、安楽椅子の上で全ての仕事が完遂するほどこの世界も単純ではないのだ。
例えば信用金庫という働き方がある。
一般の人からすると規模の小さい銀行というイメージでしかないかもしれないが、名前が違うようにその実態は銀行のそれとは大きく異なる。
まず信金は利益を第一とする営利姿勢を良しとしない。
それは法律によって営業エリアが制限されていることが関係している。
限られた地域で不誠実な行動を何度も重ねていると、その噂はひろがり最後には誰からも信用されないことになる。
だから信金は顧客第一を掲げ短期的な利益に惑わされない営業姿勢を大切にしている。
主要な顧客も実入りの大きい大企業ではなく、小規模事業者が中心になるのでその距離感はとても近く、
冷たい暗室のサーバールームで数字だけが処理される金融資本とも対象的だ。
融資審査も土地担保を中心とした銀行のやり方とは違って、顧客との関係性を土台に信用貸しが実行されることもある。
もちろん彼らもただのいい人達ではないので、担当の営業は融資の回収がいかに可能であるか上司を合理的に説得しなくてはいけない。
その説得の材料をパソコンが全て集めてくれるはずもなく、
普段からこまめに行っている企業訪問や顔と顔を直接突き合わせた面談のなかに担当者はそれを見出している。
泥臭いことを言うかもしれないが、ネットの情報だって元々は現実の世界で起きた出来事を地道に収集した人が裏に存在するから我々はそれを目にすることが出来る。
その情報は言語やデータフォーマットという制約を経て記事になるのだから、いわばネットソースは現実の劣化物でしかない。
削ぎ落とされたものは元々余分なもので、むしろそれは洗練されているのだと主張する人もいるかもしれないが、
それは典型的な万能主義で、何が不要で何が有用であるか判別する能力が人の中にあると仮定するのはあまりに荒唐無稽だ。
ましてやそうしたデータで訓練されたAIに、神のような力が宿るだなんて論理的にありえないだろう。
俺はそのことを仕事を通じて学んだ。かく言う自分も信金マンなのである。
さきほどだって馴染みの取引先の様子を確認するために、原付きにまたがって市中を駆けずり回っていたのだ。
そう、走り回っていたのだ。




