純粋理性批判を批判して解説
過去一頭を使いました。
こんにちは
最近は気分もいいし割と頭が冴える時期な方だと思うのでたくさんの作品を書いていこうと思っています。
そして、私は中学三年生の受験期から高校一年生である今まで哲学について少し興味があったので、
そのうちの私が読んできて一番難解で大まかですが理解するのに時間がかかった、イマヌエル.カント
というドイツの哲学者が書いた三大批判のうちの純粋理性批判について解説していこうと思う。
純粋理性批判を批判?
エピソードタイトルにあるように純粋理性批判を批判ってなんやねんって思いますよね。でもこれ意味が分かると、結構納得できるものなんです。
批判とは
批判ってよく日常的に使われる意味としては、自分が良くないとか悪いものだと思ったことに対して、
言葉に出して否定的意見を述べる、みたいな感じが一番しっくりくるかと思います。しかし、日本語の辞書で調べてみると、批評して判断すること、と書かれており純粋理性批判における批判を表す物としては、適当なのですが、もっと分かりやすく解説するとドイツ語に翻訳したほうが早いです、その意味は、
深く考える、吟味するといった意味がありますそのため、ここでいう批判は吟味することがと思ってください。
純粋理性って何
批判の意味は分かったけど、純粋理性って何って話だよって思います。この解説をする前に前提として、知識の定義を知っておく必要があります
知識の定義
ここでいうカントの知識の定義について解説します。知識とは悟性と感性、によって作られているものだと定義してます、悟性は対象をとらえて概念的に理解する能力で、感性は直観(直接的に観測できるもの)に対し五感を使って感じ取る能力、この二つが成立すると経験となり知識となりますそしてその知識の前提条件がそろって理性となります。
改めて純粋理性について。
知識の定義を前提とした上で、純粋理性について考えていきます。純粋理性は簡単に言うと、経験を成立させるためにあった感性(直接的に観測できる)悟性(対象物)を排除した理性です。
先ほど、の条件が揃ってこその知識であり理性であるため、これらの直接観測することができない(非科学的対象物)のことを純粋理性と呼んでおり、例を挙げるとすれば神様とかだろう、証明できる科学的根拠がないのに存在するというのは非科学である、しかし、だからと言って神がいないとも断言できない、神がいる証明はできないが、神がいない証明もまたないのだ、つまりまだ私たちの世界の次元では、神という存在を純粋理性的なものでしかない。
最後に
最後に純粋理性批判とはカントの知識の定義を無視した場合の理性、人知を超えた純粋理性(ここでいう非科学的物)について、人はどこまで理性という能力を使えるのかということについて、吟味することです。
そして私はその吟味した内容が分からなかったため自分なりに吟味を重ねたため、
純粋理性批判を批判しました。
当分の期間は書く気力もなさそうです




