第54話「いたいのいたいのとんでいけ」
手のひらを貫く短刀が微弱に横揺れし、青い瞳に私を映す。
「また何か怖がらせちゃった? ごめんね。もう一人にしないわ。傷つけたりしない」
彼女の手は動揺に震えており、それを見て私は反対の手で濡れた指先をほどいた。
「待っていて。すぐに終わらせるわ。あなたを魔物のままには……ぅうっ!?」
「あ”……ぁああ……ぐぅあああ”っ!」
魔物によく似たおどろおどろしい声だ。
短刀が引き抜かれるとドプッと血が溢れだす。
ついに思うように指先を動かせなくなり、痛みにうずくまる。
めまいに吐き気がし、声を押し殺して目をぎゅっと瞑るしかない。
だがそれでは彼女の表情が見えないと、上半身の片側を浮かせて一途に見つめた。
「ウェリナ。その子は……」
レクィエスは剣を引きずり、私と彼女の横に立って困惑に見下ろしてくる。
その場に膝をつき、顔面蒼白になって私の身体を抱き起こした。
「私とレクィエスの子だよ。ね、そうでしょう?」
いとしいあの子に語りかけるように笑顔を向ける。
対して彼女は言葉を出せずに、枯れて潰れた声で唸りだした。
白眼は赤く充血しており、瞳の色はチカチカと色を変える。
口の中にあふれたヨダレを処理しきれず、まるで赤ん坊のようだ。
どうしてこんな形でこの聖堂にいるのか。
あの子はずっと囚われの身で、魔物になりたくないと泣いていた。
心に反して私を呪い、純粋な心で私の意識に入り込んで助けてくれた。
望まぬ力は暴走し、かろうじて母を助けたが本人は縛られたまま。
――はじめからあの子はここで待っていた。
消えた未来でも、魔物は二体いた。
人型の魔物、青い髪をした二人の女性。
その一人があの子だったと、モヤがかかっていた記憶が鮮明となる。
母としての恥に涙が頬を伝った。
(レクィエスは絶望したんじゃない。戦えなかったんだ)
見た目はファルサの面をかぶっているのに、どうしてわかったのだろう?
時々、レクィエスの五感は常人を凌駕する。
私たちの子だと気づき、剣を振るえなくなった彼は戦意喪失して手放した。
……消えた時系列で、レクィエスは父となっていた。
「ありがとう」
今も、未来も、守ろうとしてくれて。
この子の心を守ってくれてありがとう。
身体を起こし、私は彼女を抱きしめて向こう側にいるレクィエスに叫んだ。
「避けてっ!!」
直後、レクィエスにむかって鋭い一閃が袈裟懸けに走った。
レクィエスは私とあの子をかばうように剣を拾って反撃する。
危機一髪のところで攻撃を回避したが、鋭い風圧でレクィエスの二の腕に切り傷が走った。
「まあ……。避けられちゃった。あなたがレクィエスの想い人ね。うん、いいわね。子どもを産むにふさわしいわ」
(なにを言っているの? 今、そんなことを口にするときじゃないでしょ……)
いや、こうしてわざわざ魔物で襲いかかり、ギリギリの駆け引きでここに導いた。
行方不明となりずいぶんと経って、また顔を出す。
多くの謎を残すレクィエスの母親が何の狙いもなく、ここにいるはずがなかった。
「あんた、何がしたい? あんたはとっくにここを去った人だろう」
「そうね。ワタシは目的があってこの島に来た。でも失敗しちゃった。だから出ていこうとしたのよ」
レクィエスの問いに淡々と答える様は、葛藤ひとつ感じられない。
起こった出来事をただ語る、それ以上でも以下でもなかった。
「ワタシは魔女を産みたかったの。王族に生粋の魔女の血を……。でも生まれたのはレクィエス、あなただった」
教壇に座ると足を組みなおし、太ももを指先でトントンと叩く。
少しずつ心の片鱗が出てきて、時を刻む指の動きが早くなった。
私は今にも暴走しそうな子を抱きしめ、血であふれる手を握りしめて止血しようともがく。
鈍い痛みは頭痛をも引き起こし、苦痛に眉根を寄せてなんとか耐えようとする。
同時に私たちをかばうように前に立つレクィエスが気がかりだった。
後ろ姿ではレクィエスの表情が見えない。
いつもより肩の起伏が目立ち、足裏で砂利を擦りだす。
落ちつこうとして、無意識に身体でやわらげている。
二人を見ていると胸騒ぎがし、私は今にも暴走しそうな彼女を抱いて思い悩むしかなかった。
「俺は魔女じゃない。力は使えても女じゃない。……あんたは女を産みたかった」
「そうよ。よりにもよって男。せっかく王に取り入ったのに。何の意味もなかったわ」
鋭利な刃物が心をえぐる。
マリナの言葉は銀のナイフになり、レクィエスの孤独をさらに深めた。
レクィエスはマリナがいなくなり、命を狙われるようになった。
それが彼にとっての孤独の引き金であり、救われない現実だった。
心休まらなかった日々を思うと、マリナの冷酷さが際立つ。
私を愛したのも、彼にとっては必要な希望だったというのに……。
母親のマリナが希望を奪った。
「レクィエス……」
泣いていいんだよって。
痛いなら痛いって言ってもいいと。
私はずっと彼にそう言ってあげたかった。
”いたいのいたいのとんでいけ”は、私が知る最上位の愛の言葉だった。




