最終話 悪魔のような人
設定を追記します
・アトリ伯爵は仕事面ではたいへん有能です
・家族親族は取り扱いに慣れているので問題意識が低いです
・出てきませんが、伯爵夫人のほうがラスボス感があるので、相対的に小物に見られています
描写不足ですみませんでした
「やったぞ、ステイシーちゃん。大穴狙いの万馬券があたったゾ」
アトリ伯爵は、報告を受けて歓声を上げたが、可愛がってやってるアナスタシアは、もうずいぶん前に嫁いでしまい、いなかった。
「いじめる相手がいないとつまらないナ。ステイシーちゃんは、真面目で、からかいがいがあったノニ」
報告書にはウェイン子爵家の次男リオが、領地で『謹慎』しているとあった。
つまりこのまま、リオとアトリ伯爵家の婚約を放っておけば、自動的に無効になり、違約金が発生しなくなるということだ。この国では、婚約を含むいくつかの契約は、結んでからなにもしないと、計三十年後に、無効になるのだ。
これで、リオという不良債権を抱え込まなくて済むし、違約金も払わなくて済むというお得な結果になった。
だがアトリ伯爵にとっては、そこは重要ではない。なんなら、リオがアナスタシアと結婚したとしても、それはそれで伯爵にとってはお得な結果だったのだ。アナスタシアをいじめて楽しめるという。
アトリ伯爵にとってのこの婚約、結んだときから波乱含みで、十三年間楽しい想い出で一杯のレースだった。
「まさか結んだときは、こんな結果になるとは思わなかったナー」
だがアナスタシアが、切れて机の上に乗った時に、この人でなしも少しは反省したのだ。いじめすぎたと。浮かれ過ぎて、アナスタシアに成敗でもされたら、レースが楽しめなくなってしまうと。可愛い生け贄のアナスタシアを父親として送り出し、残ったリオ君で我慢しようと。だがリオ君は期待以上のレース結果を出してくれた。
リオ君は、婚約したものの、結婚もせず放置し、アナスタシアに逃げられ、何年も経ってからやって来たと思ったら、追い返されて、その後領地に監禁されるだなんて、とんでもない結果を叩き出してくれた。誰が予想しただろう。アトリ伯爵の競馬レース予想表、失礼、婚約レース予想表にもこんな未来はなかった。
「うふふフ、楽しかったなア」
リオ君は間違いなく歴史に残る名馬だった。
「でも……、楽しみがなくなってつまらないなア」
たっぷりとレース、あ、いや、婚約の結果報告の余韻に浸っていたが、そうは言っても、実は次の楽しみは、もう見つけてあるのだ。
ステイシーちゃんは二十九歳になり、子どもが五人いる。
パパは五人の孫持ちなのだ。
そしてアトリ伯爵にとって、なにが楽しいって、一番上の子どもが十歳になったということだった。
アトリ伯爵は、ステイシーちゃんをいじめる悪魔だが、その悪魔にも誇りというものがある。
その一.法律を守る。
その二.契約を守る。
その三.一応常識も守る、多分。
そして、大事な、その四.小さい子はいじめない。
これらを守ってきた。
たいへん誇り高い立派な人間である。
そしてアトリ伯爵にとっての、小さい子という基準は、だいたい十歳くらいまでなのだ。つまり十歳をすぎたらいじめられるのである。
アトリ伯爵は気分が浮き足立って、天にも昇る気持ちだった。
え? どうして小さい子はいじめないのかって? そんなのつまらないからに決まっているじゃない。ただ泣くだけの子どもなんて。
そんなひどい悪魔が……人間が、どうして法律を守るのかって? そんなの、ゲームはルールがあるほうが、おもしろいからに決まっているじゃない。
法律という柵の、コーナーぎりぎりをせめるスリルのほうが楽しいのだ。
アトリ伯爵は対戦相手が強いほど燃える、ゲームプレイヤーだった。アナスタシアがこんな父親に育てられてまともなのは、単純にまともに育てられたのだ。強い対戦相手になるように。
「楽しみだなあ。ステイシーちゃんの子馬は五頭もいるんだぞ。あ、間違えた。ステイシーちゃんの子どもは五匹もいる、だ。馬なんて言ったら失礼だものね。それに侯爵家に嫁いだ以上、もっと産むかもしれないし、おもちゃが無限大に増えるなんて」
ぐふふふふと、使用人たちの前で笑った。
そして領地に帰り、また戻ってきたのだ。
アトリ伯爵家は妙にきれいでこざっぱりとなっていた。
「ただいまー」
アトリ伯爵が家の中に入ると、すぐに異変に気がついた。
ひびが入っていた窓ガラスが、新品に取り替えられていたのだ。
自分の部屋に落ち着き、着替えをすると、肌着から何から何まで新品の服に変わっていた。
心持ち冷や汗をかきながら、自室で軽食を食べようとすると、砂糖壺がきれいにぴかぴかになっていた。
砂糖壺は砂糖がこびりつき、使う度に力技でごりごりと砂糖を削り落とすのが、お楽しみの日課だったのだ。
「えっと、あの、その……」
いまや涙目のアトリ伯爵は、自分の執務室にびくびくしながら向かった。
中には跡継ぎの甥と、アナスタシアが満面の笑みで待っていた。二人はアトリ伯爵を座ったまま出迎える。アトリ伯爵は二人にぺこぺこし、床に正座した。
「えっと、あの、ボク、なにか悪いことした?」
「良いことしたことあります? 伯父さんが」
「ゴメンナサイ……」
軽蔑しきった顔の甥に、即座に断定されたアトリ伯爵は、しょんぼりした。
「お父様、私の子どもたちで遊ぶ計画があるそうですね」
「イエイエ、ソンナ、恐れ多いことは、イタシマセン」
「それならここで約束できますよね? 私の子どもに手を出さないと」
アトリ伯爵は残念そうに目をそらした。
楽しくゲームをするには、ルールが不可欠だ。だがここでアナスタシアの子どもで遊ばないと約束してしまったら、この先の大いなる楽しみを逃がしてしまうことになる。
まあ、あれだ。こう言う時は抜け道のある約束に、してしまえばいいのだ。
「うん、約束してもいーヨ」
「それなら――」
アナスタシアはおもむろに、ガラスで作られた縦長の入れ物を取り出した。
「!」
アトリ伯爵が絶句した。
それはアトリ伯爵が羽根ペンのために特別に作らせた、ガラス製の羽根ペン立てで、羽根を痛めずに出し入れできるように、筒の真ん中に大きな取り出し口があるものだった。一目で高価だとわかるもので、事実作らせるのに、めずらしい馬が一頭買えるほどの値段がかかっている。
だがアナスタシアの狙いは、羽根ペン立てではない。その豪華な羽根ペン立てを無造作に置き、中にある、短くてぼろぼろの、ゴミにしか見えない羽根ペンを取り出した。
「やめて! それだけはっ」
「お父様。もし約束を破ったら――」
「ゴメンナサイ。モウシマセン。ナンデモ言うコト聞きマス。許してクダサイ」
アトリ伯爵は、アナスタシアの前に身を投げ打ち、床に這いつくばって、渾身の謝罪をした。
アナスタシアがやると言ったら、やることは身にしみていた。最初にアナスタシアを怒らせたのは、十二歳の時だ。ちょっと調子に乗って、うっかりやり過ぎてしまって、ほんの少しだけ逆鱗にふれたのだ。誠に申し訳アリマセンデシタ。
アトリ伯爵はあれ以来、節度を持ったプレイヤーになろうと思ったのだ。冷静になってみると、アナスタシアの子どもで遊ぶのは、確かにやり過ぎだ。大きなレースが終わって、暇になったから、つい余計な事を考えてしまったのだ。デモナー、魅力的なんだヨナー。だが羽根ペンにはかえられなかった。仕方がナイ。
「うう、コノ悪魔め」
アトリ伯爵は悔し涙にまみれて、床からアナスタシアを見上げた。アナスタシアは羽根ペンを手に持ったまま無言で見下ろしている。その目がまるで悪魔のように、光っていた。
「悪魔が、悪魔って言ってるよ。ステイシー義姉さん」
アトリ伯爵の甥がぼそりとつぶやいた。
その場で、アトリ伯爵はアナスタシアと約束させられた。ひどい脅迫を受け、乱暴に扱われ、大事なものを人質にされるという非人道的な暴行を受け、ようやくアトリ伯爵の羽根ペンは無事に戻ってきたのだ。
ちなみに伯爵はいま四十八歳だが、なぜいまだに伯爵位についていて、甥に跡を継がせないのかというと、それは関係者、いや世の中全員の希望だ。
アトリ伯爵を『暇にさせたくない』という。
◇◇◇◇◇◇
< とても平和な、キャロル侯爵家のひとコマ >
「まあ、ヤーン渓谷で絶滅したはずの、野生馬が発見されたんですって。えーと、さっそく保存会が発足したのね。私ちょっと行って、委員かスポンサーになってくるわ」
エドワードに溺愛され、内側から輝くようになったアナスタシアは、新聞を手に勢いよく立ち上がり臨戦態勢をとった。
「前から不思議に思っていたけど、ステイシーは馬が好きだよね。どうして?」
そう言われたアナスタシアは、反射的にエドワードの顔を潤んだ瞳で見上げると、ぽっと顔を赤らめた。
「本命馬が……、その、ごにょごにょ」
アナスタシアの頭の中で、エドワード号に求婚された時のことが蘇った。あの時からアナスタシアは、馬を自分のラッキーアイテムにしているのだ。
恥ずかしそうにもじもじすると、逃げるように部屋を立ち去っていった。
「え?」
取り残されたエドワード号は、不思議そうな顔をした。
「ちょっと待って、なんで馬の話題で私を見るの? なんで顔を赤らめるの? なんで逃げるの?」
答えるものはいなかった。




