『アナスタシアはリオを愛しているに決まっている』
リオは絞り出すように声を出した。最後の砦にすがったのだ。
「それじゃあ、……アナスタシアと会わせて下さい。アナスタシアは俺のこと許して、エドワードと離婚して戻ってくれるはずです」
「そりゃまた、なんで?」
アトリ伯爵が不思議そうに聞いた。どことなくわくわくしているように見える。
「そんなの俺のことを愛しているからに、決まっているじゃないですか」
「へー、そーなんだ。じゃあ、なんでエドワード君と結婚したノ?」
アトリ伯爵は、愛用の羽根ペンを宝物のように大事にしまい、手持ち無沙汰になった手を、机の上の馬の置物の上に置いた。
「そんなの俺が結婚してやらなかったからに、決まっているじゃないですか。俺が振り向いてやらなかったから、仕方なく結婚したんですよ」
「つまり愛情より、結婚適齢期をすぎるほうが心配だったんだネ」
「ぐっ。いやそうじゃなく。とにかく俺が結婚してやると言えば、戻ってきますから」
「え? どうして? だってもう結婚できたから、適齢期の心配はしなくていいジャナイ」
「だから、そうじゃなくてですね。アナスタシアは、俺を愛しているんですよ。だから戻ってきます」
「でも愛している君より、婚期のほうを優先したんデショ? 自分でそう言ったジャナイ。ねえ、どうして?」
アトリ伯爵はクロスを取り出すと、馬の置物を磨き始めた。しかしその顔はリオのほうを向いていて、目は無邪気にキラキラと輝いている。
「だから、そう言うことではなく。とにかく俺が結婚してやる、ってアナスタシアに伝えて下さい」
「なんの効果もないと思うけどネ」
「え、なぜですか?」
「だって、君。七年前にアナスタシアと『結婚してやるから』と、婚約を結んだジャナイ。でもこの七年間、なにもしなかったヨネ。だからアナスタシアは、婚期を気にして、五年も前に別の男と結婚したって、今言ったジャナイ。同じことを今更言って、なんの効果があると思うノ」
「だから」
リオはイライラして強めに言った。
「だから、今までは結婚する気がなかったけど、今はあるんです。そう伝えてくれれば、アナスタシアは帰ってきますから」
「それおかしくない? だってアナスタシアは君への愛情より、結婚適齢期のほうを気にして、別の男と結婚したんデショ。愛している君を待つより、婚期が過ぎる方が嫌だったんジャナイ。なのに、なんでわざわざ離婚して、君と結婚し直すノ? もう適齢期を気にしなくて良いのに。ねえ、どうして? どうして?」
アトリ伯爵は別に酔っ払っていない。
何かの薬をやっているわけでもない。
だからこそ、たちが悪いのだ。
ただ少し人より冷血漢で、おもしろい人間を見ると、おもちゃにしてしまうだけなのだ。それを自然体でやってしまうところが、悪魔の申し子と呼ばれてしまう由縁だった。
「だから、それは、何度も言っていますが。アナスタシアは、俺を愛しているからです」
「婚期が遅れる方が嫌だったのに?」
リオはその発言に、自分でもなぜかわからないほど、かっとし、信じられないことをやった。アトリ伯爵の胸ぐらをつかみ、壁に押しつけたのだ。
「アナスタシアに、結婚してやるって伝えて下さい」
「……ハイ、スミマセン。ワカリマシタ」
リオはどちらかというと、軟弱と呼ばれるタイプで、人に強くあたったことは、人生で一度も無い。だから胸ぐらをつかむどころか、怒鳴ったことすらなかった。だが今回だけは自分を抑えることができず、アトリ伯爵にせまった。
自分のやったことに驚いたリオは、あわててアトリ伯爵から離れて謝った。そして急いで伯爵家を出ようとして、両手に変な感覚を覚えた。よく見ると、きちんと手入れされていた爪の先が折れているのに気がついた。確かにアトリ伯爵の態度は悪かったが、だからと言ってどうして自分がこんなになるほど、腹が立ったのかわからなかった。あとはアナスタシアからの連絡を、待つしかないのだ。
アトリ伯爵は脅され大人しくなり、しょんぼりとしていた。
「本当のこと言っただけなのに。もうちょっと遊ばせてくれてもいいのになあ。意地悪」
リオは、子どもの頃から特別扱いされてきた。だからアナスタシアとの結婚に期限がないのなら、いくら先延ばしにしても構わないと思っている。それで誰も自分を責められないと。だが同じようにアトリ伯爵も急ぐ必要はないのだ、と突きつけられた時、まるで卑劣な裏切りに合ったような、ひどいショックを受けた。
この時、自分が特別な人間ではなく、誰もが平等なのだと知る機会はあった。だが思い込みが抜けず、同じ間違いをした。アトリ伯爵が悪魔のような人間だと、その目で見ているのに、アナスタシアへの伝言を頼んだのだ。そしてその伝言は、必ず伝えられるだろうと信じて疑わなかった。リオは誰にも誠意を見せないのに、他人には自分への誠意を要求する人間だった。
そしてアトリ伯爵は、アナスタシアにはなんの連絡も取らなかった。だってそのほうがアナスタシアが対策が取れず、もしリオとぐうぜんに再会した時に、きっとおもしろいトラブルになると、期待したからだ。
リオは自宅にとぼとぼと戻り、現子爵の兄に相談した。
「お前の婚約を解消するには、莫大な慰謝料が必要だ。それを払ってもお前を手に入れたいというお嬢さんはいないのか? お前もてるんだろう?」
それを聞いて、リオは、アナスタシアからの連絡を待っている間、社交に乗り出した。もっといい女性に巡り会えるかもしれないからだ。
◇◇◇◇◇◇
ルビーも、リオを頼れなくなったことで、両親から同じようなことを言われて、夜会で挨拶回りをしている。しかし中々上手く行かなかった。
ルビーは自分の美しさを、『リオの』お金を使って、維持してきた。最大限努力してきたのだ。おかげで二十三歳になった今でも見た目はまったく変わらず、学生の時のままだ。
そして社交界では蝶よ花よと大事にされ、もてはやされてきた。だから新しい婿候補や、愛人、パトロンは簡単に見つかると思っていた。それ自体は間違っていない。だが見つかった男性は皆、中年以上で、脂ぎって腹が出ており、言うほどお金はないのだ。
ルビーは昔のリオのように、若くて美しくて、お金を持っている男性を探したが、そういった男性の一人にアプローチしたところ、不気味な物を見る目つきで見られたのだ。
「なにあれ、気持ち悪い」
そう言われたルビーは、あまりの衝撃に口もきけなくなった。
ルビーは自分の美しさが、男をひきつけていると思っていた。それもまた間違いではない。だが人の外見だけを見て、点数をつけるような人間たちは、その女性が何歳なのかというのを、重要視した。彼らにとって年齢というのは、容姿よりも重要で、二十三歳の『まだ』美しいルビーより、十六歳の『若くて』可愛い女の子のほうがいいのだ。
リオと付き合うことで、七年近くの歳月を無駄にしたことに気がついたルビーは、あわててフェイ・バネル夫人の元を訪れた。
フェイは、婚約者のマクスウェル・バクスリと結婚した後、旧姓を使い、パートタイムで結婚前の婦人のための相談所で働いていた。歯に衣着せぬ彼女の助言は、大変有用だと評判で、長い順番待ちの列ができていた。そこをあらゆる伝手をたどり、なけなしのお金をはたいて面会したルビーは、学生時代のことを謝罪しつつ赤裸々に自分の悩みを話した。
二時間近くかけて話を聞いた忍耐強いフェイは、なぜか部屋の中にある木人に向かって行き、鉄扇をふるった。鉄扇の勢いのある音が部屋に響く。ちなみに木人とは戦闘訓練に使う、人型をした材木だ。
「ひっ」
ルビーは悲鳴をこらえた。
「甘い」
鉄扇を持ったまま、ゆらりと振り向いたフェイは言った。頭の後ろでポニーテイルにしてある髪の毛が、文字通り馬の尻尾のように揺れている。
「もう。考え方から行動の一つ一つにいたるまで甘すぎて、可愛らしいポニーレースの話でも聞いているのかと思いましたよ。いやもう、こんなのポニーにも失礼です。婚約者のいる男性と七年も付き合う? 急に婚活して年下狙い? せっかく結婚してくれるっていう、男性たちに文句? 自分の市場価値わかってますか?」
フェイはまるでゾンビのように、ルビーを下から覗き込んだ。
がたがた震えるルビーは、他人から言われると、確かに自分の行動は支離滅裂だと思った。そのルビーの頭の中が見えるかのようにフェイは言った。
「いや支離滅裂どころじゃありませんよ」
「ひっ、頭の中が読めるの?」
フェイはもう一度木人に鉄扇をふるって言った。
「まあ、でも、助言はして差し上げてもいいです。お金頂きましたし。ルビーさんならこの事務所の宣伝もしてくれそうですから」
ルビーは喜びと、恐怖から解放される安心感で涙を流しながらお礼を言い、フェイの助言を書き留めるために持ってきた手帳を取り出した。
「じゃあ、ルビーさんに対する助言です。今日一日私の側について、相談に来る方の話を『真剣に』聞いて下さい。そしてルビーさんなりの助言を『頭の中で』して下さい。ただし『一言も口をきいてはいけません』」
「え……、でもそれって、助言なの? なにかの役に立つとは思えないけど」
フェイは、また木人を鉄扇で叩いた。その音は、パンという軽い音を超えて、鈍い重低音を響かせた。
「ひっ」
「つべこべ言わずやってみましょう。一日実践すれば、千の助言よりわかることもあると思いますよ」
それを窓から覗いていた馬が、耳をぴるぴると震わしていた。フェイの鉄扇はいつものことなのか、馬はのんびりと草を食むのだった。
◇◇◇◇◇◇
フェイの言うことに従い、助手としてお茶出しや受付をしながら、その日相談にやってきた女性たちの話を、ルビーは真剣に聞いた。そして一人目の話が始まって直ぐ、フェイの指示を守ることがいかに難しいか身をもって知った。
終わった頃には、脳が疲労で飽和状態だった。そしてフェイから借りた木刀を使って、心の中で我慢していたストレスを叫びながら、木人と戦っていた。
「暴言を吐く男が、優しいわけあるか!」
「くだらない理由で、恋人よりも妹を優先する男が、家族思いなわけあるか!」
「母さんの味じゃないって文句言う男は、自分で飯を作れ!」
「前の彼女と一々比べる男は、巣に帰れ! どうせ一人目の彼女は、母親と比べてたんでしょ」
「婚約者のいる男に、愛を囁かれたからって調子に乗るな。所詮は二番手よ…………」
ルビーは急に力をなくした。
「ルビーさん、自分のことわかりましたか?」
「きついなあ」
人の悩みを黙って聞くのが、こんなにつらいことだとは、ルビーは初めて知った。フェイはそれほど苦痛ではないそうだ。だがルビーは思ったことを、ぱっと口に出したり、言いにくいことをずけずけ話したりする性格なためしんどかった。
なにより、恋は盲目とはよく言ったもので、他人には明らかな欠点や、将来の不安に、目をつぶっている女性たちの話を聞くと、まるで鏡の自分を見せられているようで、きつかったのだ。ずっと見ないふりをしてきたリオとの関係が、いかに不毛か思い知らされた。
「しんどい。現実が見えてきて、だんだん落ち込んできた」
「助言です。二十歳過ぎたら美人って強みは、ほとんど意味がありません。まあルビーさんは確かに年齢を超えた美しさをお持ちです。だけどそれは封印しましょう。それより二十三歳を『若い』と感じる男性を伴侶に選んで、……相手から選んでもらってはいかがでしょう」
「うん」
「ただ二十三歳は適齢期の終わりですけど、人生の中では若いです。だから真剣に人付き合いをすれば、そしてものすごく運が良ければ、いい人と巡り会うかもしれませんよ」
「希望は捨てるなってことね」
過去の因縁があるにもかかわらず、料金分以上の助言をしてくれたフェイに、ルビーはきちんとお礼を言った。
「あの、どうして私にこんなによくしてくれるの? あなたにもアナスタシア様にも、ひどい態度をずっと取ってきたのに」
「まあ、お客様だからってことはあります。あと私はルビーさんみたいにガツガツした人って、嫌いじゃありません」
フェイは頭の中でお気に入りの馬、グリーンシトラス号を思い浮かべた。性格が悪く凶暴で、毎年世話をする人たちを数人は病院送りにする伝説の魔神……いや、馬だ。だがレースに出ると圧倒的な強さを見せつけ、フェイのお小遣いをたっぷりと増やしてくれた。
どこがグリーンで、どのへんがシトラスなのかがわからない最悪な馬で、ゴールを決めると、大抵は背中の騎手を勢いよく振り落とし、時には踏みつけ、鼻でせせら笑う悪魔のような馬だった。しがらみの多い貴族社会で、中間管理職のような立場のフェイは、その何者にも縛られない自由な魔王の暴れっぷりが好きだったのだ。
学生時代、ルビーはよく、アナスタシアとフェイの教室の前を通った。ただアナスタシアをせせら笑うためだけに。
そのせせら笑いが、グリーンシトラス号が得意げに人を踏みつける時の笑いにそっくりで、いつもフェイの胸を熱くさせた。とくに顔の角度と、鼻の穴を大きくふくらませて、揺するように上下する動きがそっくりで、胸がキュンとした。
アナスタシアの件については、ルビーを許せなかったが、そのアナスタシアが幸せになった今では、そんなに怒っていなかったのだ。なぜなら、もうどうでもいい存在だから。
「だってグリーンシトラス号にそっくりで可愛いし……」
「え?」
「なんでもないわ。あと、あえて残酷な言い方をするわね。私もアナスタシアも、もう五年も前に結婚しているの。なにもかもに恵まれて幸せだから、心の余裕があるのよ」
フェイは無邪気に笑ったあと、気の毒な人を見るような目でルビーを送り出した。『可哀想』なルビーは最後に特大の爆弾を放り込まれて、もはや涙も出なかった。




