モブキャラ アガサ号の自業自得
ミミの元同級生、アガサは学院卒業後すぐに結婚し、相手の家に入ったが、そこで突きつけられた現実に言葉を失った。
夫には学生時代から付き合っている愛人がいて、普段はその愛人と別の家に住んでいるというのだ。
「アガサさん、息子は平日はその子の所へ行きますので、週末だけこの作業をお願いします」
義母に当たり前のように説明された。
当然抗議したところ、夫からこんな返事が返ってきたのだ。
「仕方が無いだろう。彼女の方が美しいんだ」
「私はあなたの正妻なのよ。なんの相談もなく、愛人だなんて。それも結婚前からの付き合いですって?」
「なぜそんなことを言うんだ? お前は学生時代、リオ様とルビー様のことを褒めて、アナスタシア嬢のことを、悪く言っていたではないか。いつも『お邪魔虫が来た』と聞こえるように言って、せせら笑っていただろう」
夫の理屈では、美しい愛人が大事にされるのは当然で、アガサはアナスタシアと同じように我慢するしかないというのだ。
無責任にアナスタシアの悪口を言っていたアガサは、自分が同じ立場になって初めて、理不尽なことを理解し呆然とした。
実家に立ち寄ったアガサは我慢が出来ず、母親にその話をこぼした。母親は親身になって聞いてくれたが、ところが横にいた弟にこう言われたのだ。
「そんな落ち込むなよ。姉さん。嫉妬って醜いからさ。余計に旦那さん離れていくんじゃないの? それに俺、相手の女性を見たことあるけど、とんでもなく綺麗な人だったぜ。姉さんは、お邪魔虫なんだから大人しくしておいたら?」
母親はその場で弟を叱ったが、弟はなぜ怒られているのか、まるでわかっていないようだった。なぜならつい先日まで、結婚前のアガサとそういう話で、盛り上がっていたからだ。弟にその価値観を植え付けたのは、アガサ本人だった。
アガサは自分がアナスタシアに言っていたことを、弟の口から言われて、それがどれだけ理不尽なことか思い知った。そんなことを言われる筋合いはないというアガサの気持ちは、そのままアナスタシアのものだ。
弟を叱った母親は、今回の背景となったアナスタシアの話を聞き出した。そして自分の娘と息子がたいへんな失礼を働いたと知り、あわてて夫であるアガサの父親に報告したのだ。父親は話を聞いて青くなった。
「そのアナスタシアという令嬢は、キャロル侯爵令息と結婚したのか? 雲の上の女性ではないか。そんな方に失礼を?」
続けてアナスタシアが、アトリ伯爵令嬢だったということを聞き、心臓をおさえた。
「生まれも嫁ぎ先の身分も、お前が声をかけられるような立場の方ではない。高貴なご身分過ぎて、これでは謝罪すらできないではないか。お前はなぜそんな馬鹿なことをしたのだ」
慰めてもらいにきたアガサは、両親から強い叱責を受けた。
学生時代に謝罪をと思い至れば機会はあったが、なぜかアガサはアナスタシアを見下していた。アガサだけではなく、学院全体にそういった雰囲気があった。だから調子に乗って、アナスタシアに食事のトレイをかぶせるよう、ミミをたき付けたのはアガサだ。
だが今となっては、なぜ見下していいと、思っていたのかもわからなかった。
婚家に帰ったアガサは、それでも義母と夫に相談し、せめて自分の気持ちをわかってもらう努力をした。しかし返ってきたのは残酷な回答だった。
「アガサさん、あなたの気持ちはわかりました。状況もよくわかりました。ですがこちらはなにもできません」
「なぜですか? お義母さま」
「息子があの子に入れあげているのは昔からで、いくら言っても聞かないのです。諦めて我が家は、それを受け入れてくれる、正妻を探していたのです。あなたはご自分から、婚約者よりも愛人を優先して良いと、事あるごとに仰っていましたね。学院のリオさんとルビーさんは、自分の理想だと。アナスタシア様はお邪魔虫だと」
「それは……、それはリオ様とルビー様だから、そう言っていただけで、そんなつもりではありませんでした」
「そういった行き違いも理解しましたが、正直言いますと、我が家としては騙された気分です」
アガサの心の中では、なんの矛楯もないできごとだが、婚家からすると、詐欺にあったようなものだった。
「おい、アガサ。離婚してやってもいいぞ」
「私はそんなつもりで話したんじゃないわ。あなたが彼女と別れてくれるだけでいいのに」
「なんで二番手を、本命より優先しないといけないのだ」
アガサは絶句した。
なぜならそのセリフは、学生時代にアガサが、アナスタシアによく言っていたもので、それが夫に移ってしまったものだったからだ。
アガサはどうしていいかわからず、しばらくぼんやりと過ごした。両親に相談しても、考え込むばかりで答えはない。あれ以来、弟とは口を聞いていない。
この結婚はアガサの想像力のない残酷さから、アナスタシアを攻撃していたことがきっかけに決まったのだ。もう結婚してしまった以上、簡単に離婚なんてできない。結婚に当たり、両家の費用も人手もかかっている。離婚なんてすれば大勢に迷惑がかかるのだ。
この状況は自業自得なのだ。義母の「騙された」という言葉を思い出す。アガサが騙したのなら、その責任を取る必要があるだろう。
アガサは漠然とそう思い、家の仕事に励んだ。だがどうしても集中できず、ミスが増え、周囲がいい顔をしなくなっていった。
ある日アガサは、義母の事務室に呼ばれた。叱責を覚悟したが意外なことを言われたのだ。
「あなた、どうして離婚しないの?」
不思議そうに聞いた義母の声には、嫌みや皮肉は含まれていなかった。
「……この事態は、自分の浅はかさが招いたことです。責任を取ろうと」
アガサがそう言うと、義母は鼻で笑ったのだ。そして眼鏡を取って、教師のように厳しく言った。
「くだらないことに、若い時間を費やすのはお止めなさい。あなたは愚かでなにもわかっていない子どもだった。その上、無邪気に人を攻撃する残酷さだけは一人前だったわ。その過去は変えられないし、一生あなたを縛るわ」
「……だから受け入れようと」
「でもね、過去の奴隷になる必要はなくてよ。『今』あなたが判断するのに、過去って必要なの?」
アガサはどうしていいかわからなかった。義母の言っている意味がわからなかったからだ。
だがそれから何日もすると、今度は自分がなんのために、責任を取ろうとしているのかわからなくなってきた。迷惑がかかるからか、もう決まったことだからか、それとも自分を罰したいのか。自分の真剣な気持ちは、義母にくだらないと鼻で笑われるていどのものなのだ。
そのため一度実家に戻り、また両親に相談した。叱責されることを覚悟していたが、両親は黙って話を聞いてくれ、アガサが実家に戻りたいならば、受け入れると言ってくれた。
霧がかかったようだったアガサの頭の中が、整理されていくのがわかった。夫に離婚を相談すると、あっさりと成立し、アガサはこんな男のために、無駄に自分の人生を消費しようとしていた恐ろしさに気がついた。その時急に目が覚めたような気分になった。
アガサは人に任せても問題ない離婚の手続きを、なるべく自分の手で行い、それにともない迷惑をかける人々に頭を下げて回った。
それが済むと、アナスタシアに謝罪する機会を作ろうとしたが、無駄だった。父親の言うとおり身分が違いすぎたのだ。
それに義母の言うとおり、過去は変えられないのだ。散々アナスタシアを傷つけておいて、今更謝りたいなんて虫のいい話だろう。
学生時代の後悔は一生アガサを苦しめた。
アガサは姉だが、実家では跡継ぎの弟より立場は下だった。
アガサは出戻りで、アガサの方に原因があった離婚のため、再婚相手の条件はとても悪かった。生活のためには弟に頼るしかなく、夫も子どもたちも、弟一家には頭が上がらなかったのだ。
そんな弟の子どもたちが、弟の真似をしてある日言ったのだ。「美しければすべて許される。お邪魔虫は引っ込むべきだ」と。アガサはまるで時が巻き戻ったような気がした。アガサが弟に植え付けた価値観が、弟の子どもに引き継がれ、そしてアガサの子どもたちにも伝染したのだ。
アガサは自分の子どもたちにも、そして甥姪にも丁寧に話した。自分自身を尊重して欲しければ、誰かのことも同じように尊重しないといけないと。美しさは関係ないと。その考えで社会に出たら、最終的には自分の首を絞めるのだと。
アガサは自分が植え付けた価値観を壊そうと必死だった。だが実家での立場は甥姪よりも低く、なにを言っても聞き入れてもらえなかった。その思想に染まっていく、自分の子どもたちを眺めるしかなかった。
それでもアガサは何度も繰り返し、うるさがられたが、自分の時間を費やし、諦めなかった。アガサは愚かな昔の自分と、一生戦った。自業自得で、夫選びにも、結婚にも、生活にも失敗したが、子育てだけは諦めたくなかったのだ。
◇◇◇◇◇◇
リオとルビーと同世代の人間は、男女問わず軒並み同じような問題が起きた。大勢の倫理観が低くなるという現象が起きたのだ。
ミミやフェイの元へは、アナスタシアに謝罪したいと相談に来る人間が増え、アガサのような悩みを早めに解決するため、王都では結婚前の紳士婦人のための相談所が賑わうようになった。




