アナスタシア号の結婚とリオ号の気づき
翌日、アナスタシアは浮かれた気分で学院に行くと、友人のフェイとミミに話した。父親から『アナスタシアは自由に結婚しても良い』と言われたのだと。
アナスタシアはもはや天馬になった気分だった。昨日までの、針でつつけば爆発しそうな風船ではなく、この世のすべてから解放されたペガサスのようだ。
フェイはそれを聞いて晴れやかな笑顔になると、アナスタシアの両手をがっちりつかんで立ち上がった。その余波で、座っていた椅子が後ろに倒れ、教室中の生徒の注目を集めたが、フェイは気にしなかった。ミミは驚いて二人を見上げている。
「来て。ステイシーに紹介したい人がいるの!」
そう言って、フェイはアナスタシアを連れて、強引に教室を飛び出した。元気な子馬のようにぴょんぴょんと跳ねて……すぐにその勢いがなくなる。
「……ごめんなさい。今の話なかったことにして」
「ここまで来て?!」
アナスタシアはけっこうな大声で抗議した。だって一瞬あることを期待したのだ。フェイは申し訳なさそうに言った。
「紹介したい人がいるのは本当よ。でも私が勝手に、その人の気持ちを口にしては駄目だと思ったの」
「それは確かに」
「だからセッティングするわ。それでね、お願いがあるの。私の紹介が済むまで、他の方の紹介を受けないでほしいの」
「わかったわ」
アナスタシアはフェイのことを信頼していたので、待つことにした。そしてそれはすぐに訪れた。
その月、王城で夜会が開かれたのだ。
アナスタシアとフェイはそれに招待された。
フェイは婚約者のマクスウェルと出席し、アナスタシアは招待状に指定されたとおり、父親のアトリ伯爵のエスコートを受けた。
入場すると嫌な二人組が目に入る。
リオ・ウェイン子爵令息と、その恋人ルビー・ブルノ男爵令嬢だ。
二人は本来、今日の夜会には入れない身分だが、社交界で噂の美男美女であり、芸術のモデルである著名人として招待されていた。
「本当だー。リオ君は愛人と二人で堂々と来ているヨ。神経疑うな-」
「そのリオ様と婚約を結んでいる我が家も、同じ目で見られていますよ」
アナスタシアが父親と話していると、気がついたルビーが、ニヤニヤとした顔で、リオを引っ張ってやってきた。リオが先に挨拶する。
「アトリ伯爵。こんばんは」
「今晩はー、こっちの美女が、噂のルビーちゃん?」
ルビーはアトリ伯爵になにか不自然な物を感じたが、とりあえずアナスタシアを見下した目で笑うゲームを始めた。
「ええ、美しいでしょう。伯爵閣下には申し訳ないが、俺の側にはルビーが必要なんです」
「ねえ、ルビーちゃん。この顔だけの男のどこがいいノ? 普通、金持ちのほうを選ばない?」
ルビーは率直な質問に戸惑ったが、すぐに淑やかに答えた。
「え……、お金なんてわたくし。リオ様を愛していますから」
そう言って、頬を赤らめたルビーに、アトリ伯爵はさらに聞いた。
「えー、でもさあ、ルビーちゃん。顔なんて、後十年もすれば衰えるシ。なにより腹だよネ。もうぽっこりしちゃってさー。お金は永遠だヨ」
アトリ伯爵は自分の腹をぽんぽんと力強く叩いた。
「え、あの、でも、わたくしは」
「それにさあ、ルビーちゃん。この男はっきりと、「美しいから側に置いてる」って言ってるヨネ。君のこと外見しか見てないじゃない。お互いに十年後はどうするノ。そんなんで。顔もさあ、腹もさあ」
「ちょっとお父様」
アナスタシアはあわててアトリ伯爵を引っ張った。伯爵は悪気なく質問攻めにするのだ。しらふなのに酔っ払いのからみ酒のようで、非常にたちの悪い性格だった。ルビーは自分の方から近づいてきたくせに、リオを引っ張って逃げようとしていた。今や恐怖の表情を浮かべている。
二人が立ち去るとアトリ伯爵が楽しそうに言った。
「いやあ、聞きしに勝る美男美女だネ。ありゃあ、おもしろいことになるぞー」
「ちっともおもしろくありませんが」
「おっとフェイ君が来たナ。では私は胴元のところへ顔を出そう。じゃあな、ステイシーちゃん」
そう言うとアトリ伯爵は立ち去った。
「胴元って、賭けでもやっているのかしら」
「多分、リオ殿とルビー嬢がいつまで付き合うかの、賭けが行われているのでしょう」
フェイと一緒のマクスウェルが答えた。
「みんな暇なのね」
リオとルビーを見た時、アトリ伯爵はまるで子どものように、無邪気に目を輝かせた。アナスタシアは、どうして父親のアトリ伯爵が、アナスタシアを婚約から解放したのかわかった気がした。アナスタシアよりももっとおもしろい、おもちゃが見つかったのだ。そしてそのおもちゃで遊ぶのに、アナスタシアが邪魔になったのだろう。しかしこんな風にお邪魔虫扱いされるのは、アナスタシアには大歓迎だった。
そこへ緊張しきった、エドワードが遅れてやってきた。
「踊ろうか」
マクスウェルがフェイを誘うと、エドワードもアナスタシアを誘った。
ふだん無口で無表情なエドワードが少し赤くなっており、手を取られたアナスタシアも動悸が止まらなかった。
(これって、絶対にそうなってほしいわって願った予想通り?)
アナスタシアの頭の中で、賭けの胴元の格好をしたアナスタシアがろうろうと叫んでいた。
(さあ始まりの時間が、やって参りました。本日のレース、各馬どんな走りを見せてくれるのでしょう。美しい夜空を背景に、華やかなナイトレースが始まろうとしております。
さて一レース目から本命馬の登場です。出走するのは、キャロル厩舎のエドワード号。オッズはなんと記録的な1.2倍。さすが本命です。もはや馬券を買っても意味が無いほど、低い掛け率だと思う方もいらっしゃるでしょう。いいえ、なにかに命を賭けるというロマンの前には、人も馬も関係ないのです。さあみなさま、残り時間わずかとなりました。馬券の購入はお早めに)
アナスタシアはダンスをしながら頭をふった。
エドワードが心配そうに見てくるが、頭の中の胴元のアナスタシアは消えなかった。
(なにをぐずぐずと、早く馬券を買わないと間に合いません。ほらいくら賭けますか。一ポンド?十ポンド? ほらほら)
胴元のアナスタシアに、アナスタシアは頭の中で答えた。
「全財産」
「え?」
思わずもれた声に、エドワードは不思議そうな顔をした。だがエドワードも少し汗をかいていて、どことなく余裕がなさそうだ。
ダンスが終わると、エドワードはさりげなくバルコニーのほうへ誘導した。
「庭で散策しないか」
「う、うん」
(さあ、本命馬ゲートイン。いよいよレースの始まりです)
二人と胴元のアナスタシアの、合わせて三人はバルコニーに出る。
エドワードは少し焦ったように言った。
「アナスタシア嬢にずっと言いたいことがあって」
アナスタシアは両手の拳を握りしめ、喜びの臨戦態勢を取ろうとした。しかしあわてておしとやかに見えるよう手を下ろした。
そしておしとやかに待ったが、エドワードは沈黙したままだった。
「……」
「……」
あまりに待たされたので、おそるおそる聞いた。
「あの、エドワード?」
「どうしよう、急に怖くなってきた」
「ここまで来て?」
「いやだって、君と出会った二年前からずっと悩んできた問題で、どうやっても解決しそうになかったから。いろいろ手を尽くしても、結局ラスボスのアトリ伯爵が、どう出るかが怖くて、手出ししようがなかったし。
それなのに急にこんなに、都合良く事が運ぶかな? 私騙されていない? アトリ伯爵、絶対こう言う罠好きだよね」
「大丈夫。騙されてナイ。ワタシは結婚相手を探してイマス」
アナスタシアが下手な翻訳のように話した。アトリ伯爵がめずらしく、アナスタシアの喜ぶことをしたと思ったら、今度はエドワードが不信感をこじらせていたのだ。アトリ伯爵はもう新しいおもちゃを見つけたのに。
「……断られたらどうしよう」
「じゃあ、私から」
アナスタシアはこの状況をどうにかしようと、意気込んで名乗りを上げると、エドワードがあわてた。
「待った、待った、待った、待って」
エドワードは何度も深呼吸すると、小さな声でなにかをつぶやき始めた。
「私は出来る子。私はやれる子。私は……」
エドワードが小心者だという意外な一面を見て、アナスタシアは反射的に冷水でもかけたいと、少し思った。だが情けないと思ったのは事実だが、自分の心の中には、そんなエドワードをどうにかして、助けたいという気持ちの方が多いことに気がついたのだ。それに悪魔のようなアトリ伯爵を敵に回して、二年も前から手を尽くしてくれていたと知り、それだけで嬉しかった。
アナスタシアはこう言った。
「あの、その中に『アナスタシアは優しい子』、っていうのを入れて下さい」
エドワードと、胴元のアナスタシアは、それを聞いて意味がわからず、きょとんとした。
エドワードが『アナスタシアは優しい子』と思えば、アナスタシアに言い出しやすくなるのではと思ったのだ。
エドワードは、意味をはかりかねてしばらく考え込んだ後、アナスタシアをじっと見ると、急にすごく優しい目つきで見てきた。そんな目で見られて、アナスタシアはとたんに落ち着かなくなった。
「よし」
決意したエドワードは、アナスタシアの前に勢いよくひざまずいた。
『ゴスッ』という鈍い音がして、エドワードがぷるぷると震え始め、汗をかきだす。
どうやらバルコニーの段差があるところに膝が当たったらしい。
「エドワード、すぐ医者の所へ」
「大丈夫だ」
「エドワード」
「もういっそこのままのほうが、頭が冷えて言いやすい。アナスタシア、私と結婚してくれ」
「喜んで!」
アナスタシアは、早く医者の所に行って欲しくて余韻もなく了承した。ちなみにエドワードの周囲からの評価は『沈着冷静』だ。
胴元のアナスタシアが叫んだ。
(エドワード号跳んだー! 見事、優勝を飾りました。エドワード号勝利をもぎとったのです!)
頭の中で、アナスタシアの全財産を賭けた馬券が紙吹雪のように舞い散り、歓声が上がった。
そしてアナスタシアの返事を聞いて、バルコニーの周囲からいっせいに本物の歓声が上がった。
「よくやったな」
「おめでとう」
「お幸せに」
夜会のバルコニーという目立つ場所での求婚劇に、観客が集まっていた。そのためアナスタシアとエドワードの結婚話はすぐに広まった。だが、誰もリオとルビーには言わなかった。なぜならアナスタシアはお邪魔虫であり、それが退場することを、わざわざ主役に言う人間はいなかったのだ。
ちなみにエドワードの膝は、少ししびれただけでなんともなかった。
アナスタシアとエドワードは学院を卒業後、すぐに結婚した。
◇◇◇◇◇◇
対抗馬のリオは、ルビーと、誰もが羨むような愛に満ちた生活を送っていた。
学院を卒業してからもう二年、実家の持っているマンションに二人で住んでいる。父親のウェイン子爵に生活費を出させ、優雅に暮らしていた。
リオは、この生活が永遠に続くと良いのにと考えている。内心ではルビーが、結婚を焦っているのには気がついていた。だが『愛に満ちた生活』と言いつつ、結婚する気はなかった。ルビーのブルノ男爵家に入る気はなかったからだ。裕福な自分の家に比べて、ただ男爵位を持っているだけの家だ。ルビーと結婚でもしようものなら、貧しい暮らしになるのはわかりきっている。そもそもルビーには兄がいる。
だから愛するルビーを手放さず、かといって保険となるアナスタシアとの婚約を解消もせず、ルビーと結婚もしない生活を送っていた。
ルビーの方は、リオと結婚したいと考えていたが、結婚したら今より生活が貧しくなるのがわかっていた。それにリオがルビーに夢中なのもわかっていたので、悠然と構え、人からうらやましがられる生活を送っていたのだ。
ところが、二人で夜会に出席したところ、アナスタシアがエドワード・キャロル侯爵令息と、結婚していると聞かされたのだ。
「おい、アナスタシア。お前俺の婚約者なのに、なんでキャロル侯爵令息のエドワード様と、腕を組んでいるんだ」
アナスタシアがまるで夫婦のように、エドワードと体を寄せ合っているのを見たリオは、さすがに黙っていられないと抗議した。
しかしその場にいた大勢の人は、唖然とした顔でリオを見てきた。そこで一番身分が低かった、ミミ夫人が説明した。ミミは未来の侯爵夫人アナスタシアの、友人兼取り巻きになっている。ミミの身分では大出世だ。その縁で夫も見つけ、今や悠々自適の生活を送っている。
「アナスタシア夫人は、二年前、学院を卒業してすぐ、侯爵令息のエドワード様とご結婚なさっています。将来の侯爵夫人です。あなたが声をかけて良い、お方ではないのです」
「なんだそれ、アナスタシアは俺の婚約者だろ。どういうことか説明しろ」
リオは抗議したが、衛兵に外に出されてしまった。そこであわてて家に帰ると、父親にアナスタシアが結婚したのは、本当だと説明されたのだ。
ルビーは怒っているリオをなだめた。
「そんなこと気にしなくていいじゃない。アナスタシア様と、結婚する気はないんでしょう?」
確かにリオは結婚する気はなかった。だが自分のものだと思っている女を、他の男に盗られて、腹が立たないわけがない。それとこれとは別問題なのだ。
リオは父親のウェイン子爵と、婚約の書類を改めている兄のヒューに話を聞いた。
「どういうことですか、兄上」
「えーと、婚約に当たる条項は。あ、これだな。なるほど『アトリ伯爵令嬢と婚約を結ぶ』とある」
「つまりアナスタシア個人を指定して、結んだ婚約ではないのですか?」
ウェイン子爵家とアトリ伯爵家との婚約は、リオと『アトリ伯爵令嬢』との婚約であって、アナスタシアでなければいけないものではなかった。
「父上、どうしてこんな契約にしたんですか?」
「なにを言う。お前はいい加減なところがあるから、アナスタシア殿になにがあっても婚約が結ばれるよう、アトリ伯爵家そのものとの契約にしたんだ。これで食いっぱぐれないぞ」
「そうですね、父上。おい、リオ。結果的にアナスタシア殿は嫁に行ってしまったが、お前の婚約は残っているではないか。なにが問題なんだ」
リオはそこでぐっと黙った。ルビーがいるから口に出せなかったが、アナスタシアの清楚な美しさもリオは好みで、この状況に至っても手放す気はなかったのだ。
「でも、でもじゃあ、俺の婚約者は誰なんですか?」
「だから『アトリ伯爵令嬢』だろう? 結婚したいならアトリ伯爵家に行けば良い。契約通り令嬢を用意してくれるだろう。まあ用意できなくて慰謝料を貰うのもお得だな」
またリオは黙り込んでしまった。なぜならこの問題をはっきりさせる気は、なかったからだ。アトリ伯爵家に行ったら、さすがに結婚しないといけないだろう。相手がルビーや、アナスタシアのような美しい女性だという保証はない。おまけに生活がどうなるのかもわからない。それなら今まで通りの生活をしたほうがましだ。
リオはこの問題を放置した。それを後で何度も後悔することになった。




