アナスタシア号の脱出劇
アナスタシアの愛称は、ステイシーです。
キャラクターが不本意なあだ名をつけられるシーンがあります。
アナスタシアの父親は、まるでおもしろい実験動物を見るかのように、娘の婚約者のリオを見た。
「つまりネ、今更結婚したいと言われても困っちゃうの。だってこの婚約をした七年前まではあった君の価値は、もう無いんだもの」
そう言って、アトリ伯爵は悪魔のように楽しそうに笑った。
◇◇◇◇◇◇
「あら、お邪魔虫の登場ですわ」
知らない学生にそう言われたアナスタシアは、毅然と胸を張って、校舎の廊下を歩いていた。輝くような銀髪がタテガミのように後ろへなびき、宝石のように明るい緑の瞳が輝いている。清楚な姿がまるで彫刻のように光を帯びていたが、心の中は暗い気持ちで一杯だった。
学院で優秀だと評判な、アナスタシア・アトリ伯爵令嬢には、同い年の婚約者がいる。
アトリ伯爵家の一人娘、アナスタシアの婿養子にと、入学時に父親が無理にねじ込んできた婚約で結ばれた、リオ・ウェイン子爵令息だ。だがリオはいつも、ルビーという男爵令嬢と行動をともにしていた。
ルビーは学院入学時に話題になり、彼女を見るために人が押し寄せたと言うほど、有名な美女だった。同じく美しいリオと、恋に落ち学院で堂々と愛を育んでいた。
ルビーは髪の色は茶髪、瞳の色も黒と、特徴がないように思える。だが肉感的で、その目で見つめられると、男も女も言うことを聞いてしまうほど、妖しい魅力に溢れていた。リオは金髪に青い瞳で、著名な芸術家シュタイン卿が、リオを題材にした連作を発表するなど、歴史に残るほどの美しい容姿をしていた。立っているだけで二人は芸術そのものだと言われ、美しい人と言えば、リオとルビーをさすほどの、有名人だったのだ。
この国では昔から美しいものを愛し、大事にしてきた。そのため大陸全土に響き渡るほどの芸術家を幾人も輩出していた。美しい人、美しい音楽、美しい建物、美しい馬を愛し、生み出すことに魂を注ぎ、維持するのに力を費やしてきたのだ。
だからアナスタシアに対する、リオとルビーの礼儀を欠いた振る舞いも、ただ美しいというだけで、許されるところがあった。
アナスタシアにとっては頭の痛い風潮だった。
「あら、噂のお二人がいらっしゃるわ」
「なんてお美しい」
クラスメイトの声で、リオとルビーが来たのがわかった。アナスタシアをかばうように、親友のフェイが身を乗り出す。
昼休みに入る時、リオとルビーは必ず、アナスタシアの教室の前を通った。遠回りなのにわざわざ歩くのだ。そして教室をのぞきこんだ。ルビーはまるで可哀想な者を見る目で、アナスタシアを眺めた後、その口元を手で隠しながら嘲るのだった。アナスタシアは、『そんなに暇なの?』と問い詰めたい気持ちで一杯になった。フェイは親友に寄り添うように、二人を眺めていた。
ダンスの授業も苦痛だった。規則に厳しい教師は、婚約者同士で踊ることを強制し、リオにもアナスタシアにも守らせた。だが態度やおしゃべりまでは強制できない。リオは嫌々踊っているという態度をはっきりと表に出してアナスタシアと踊り、それが終わるとルビーの元へ清々した顔で戻っていった。
教師がやらせているにもかかわらず、まるでアナスタシアが縋り付いてきて、リオは困っているとでもいうような態度を取った。そしてアナスタシアを見ながら、二人であざ笑った。そしてその空気が教室内に伝染し、関係のない者まで、アナスタシアにひどい態度を取るようになったのだ。
「例の方と踊らなくてはいけないなんて、お気の毒に」
「お邪魔虫だということを、自覚なされば良いのに」
関わりの無い人々が無責任な発言をし、まるで自分には批判をする権利があるかのように、アナスタシアに失礼にふるまった。
◇◇◇◇◇◇
アナスタシアはもう切れそうだった。
しかもアナスタシアと同じ教室の生徒も、聞こえるようにリオとルビーの美しさを称え、真実の愛を崇めるのだ。学院では絵になる美しい二人を褒める者が多く、アナスタシアは正式な婚約者にもかかわらず、まるでお邪魔虫のような扱いだった。
しかもなにに腹が立つといって、アナスタシアがまるで、リオに恋い焦がれているような前提で、噂されるのだ。
アナスタシアがルビーの件をリオに抗議するのは、ただ単に自分の立場を守るためだ。リオとの婚約が解消されないのは、いくら言ってもアナスタシアの父親が解消しないだけだ。
それなのにアナスタシアがリオに夢中だから、婚約者の座にしがみついているなどと言われると、頭の血管が切れそうだった。
「私が死んだら、絶対死因はストレスだわ。血圧が上がって脳出血よ」
学院のカフェテラスで、アナスタシアは愚痴をこぼした。
「いやもう、思い切って殺人犯になるほうがいいかも。お父様を倒して、婚約を解消するとか」
アナスタシアは目をギラリと光らせた。拳に力をこめる。
「本当に嫌になるわね」
物騒な話を続けるアナスタシアに、親友のフェイが相づちを打った。
アナスタシアを取り巻く環境は悪くなる一方で、最近では悪口を言われるどころか、嫌がらせまでされるようになったのだ。リオとルビーのファンを名乗る人々に。
そこへフェイの婚約者のマクスウェルと、その友人エドワードが座ってきた。フェイの前に、マクスウェル、アナスタシアの前にエドワードが座を占める。話に加わりながら、マクスウェルは大きくため息をついて言った。
「嫌がらせまでしてくる奴らって、少しおかしいよな」
「……」
表向きは無口なエドワードは横で黙っているが、その目はアナスタシアの理不尽な境遇に、怒りをはらんでいる。
カフェテラスでも、アナスタシアをちらちらと見て、意味深な笑いを浮かべている生徒を時折見かける。一体何の権利があって、アナスタシアを中傷するのだろう。
その時、エドワードが突然立ち上がり、大きな手でアナスタシアの体をぐいと押した。直後に派手なガシャンという音が響いた。先ほどまでにやにやと笑っていた女子生徒が、焦った顔でエドワードを見上げている。
おそらくアナスタシアに、頭から食事のトレイをかぶせようとして、かばったエドワードの上着を汚してしまったらしい。
「あ、あの、私、そんなつもりは……申し訳ありません」
エドワードは、キャロル侯爵家の長男であり、今、カフェテラスにいる人間の中で最も高い身分だ。
ミミという名のその女子生徒は、あくまでも手元がおろそかになったと言い張り、この場をどう乗り切るか頭を巡らせているようだ。
「謝ってくれれば構わないよ。間違いは誰にでもあることだ」
ミミはほっとして、潤んだ瞳でエドワードを見上げた。それにこの行為が明らかにわざとであるとしても、証拠なんかないのだ。間違いだったと言い張れば、ミミは言い逃れできるはずだった。
「君はうっかり人の頭に、食事のトレイをぶちまけてしまうような、不注意でぼんやりした女性なんだね。親から羊ちゃんって呼ばれてない? 私の田舎では、いつもぼーっとしている人は、そう言うんだ。ところでこの汚れた上着は、同じ物を用意してくれればいいから」
内心、激怒しているらしいエドワードは、スイッチが入ったのか淡々としながらも、ミミにねちねちと絡んだ。そして急にべらべらと話しながら、汚れた上着を彼女に渡した。
「よろしくね。羊ちゃん」
その日から、ミミは学院で羊ちゃんと呼ばれるようになった。
◇◇◇◇◇◇
エドワードの上着は、手に入りにくい血統馬を、一頭買えるほどの値段だった。それを持ち帰ったミミは、親にそのまま退学にさせられそうになった。エドワードの上着は芯地に希少な馬の毛が使われ、彼女の三年間の学費よりも高かったからだ。退学になったら、嫁ぎ先もなく人生が終わってしまうと思ったミミは、親に必死に頼み込んだ。その結果、親から学院でアナスタシアとエドワードに公に謝罪し、下僕として振る舞い、これ以上の問題は絶対に起こさないこと、と厳命された。
下僕になったミミを見て、生徒たちの『アナスタシアはお邪魔虫だから、なにをしてもいい』という学院の空気は、少し改善された。
「『下僕として振る舞い』って、本当に下僕になるの?」
「はい、なんでもします。代返も、ノートの写しも、馬の世話も。レポートの作成は……、あー、どうだろう、私そんなに成績良くないかも。でもとにかくがんばります」
アナスタシアの質問に、ミミが土下座したまま答えた。そこにフェイが口を挟んでくる。
「確かに羊ちゃんの名前、試験の順位表で見たことないなあ」
「あ、わたし羊ちゃんの名前見たことあるよ。ダンス上手かったよね。大会に出たことがあるって」
「…………あのう、羊ちゃんって呼ぶのは、やめてもらえせんか。言える立場にないのは、わかっていますが」
ミミがそうお願いすると、廊下を他のクラスの生徒たちが通りかかった。大きな声でおしゃべりをしている。
「あ、羊ちゃん。学校に来てる。アナスタシア様と一緒だわ。許してもらえたのかしら」
「羊ちゃん。なんか落ち着いた雰囲気になったね」
「おっと羊ちゃんじゃない」
「羊ちゃんだー」
集団が通り過ぎた後、ミミは土下座したまま諦めたような顔で言った。
「……お願いです。呼び捨てで構いませんから。どうぞ、ミミと」
◇◇◇◇◇◇
学院の空気は多少は改善されたものの、それでもなくなったわけではない。アナスタシアは、毎日が憂鬱だった。
ある日、合同で行われた詩の朗読の授業で、嫌がらせをされた。リオとルビーには近づかないように、席を選んだにもかかわらず、わざわざリオとルビーは、後からアナスタシアに近い席に座ってきたのだ。
そして、その日の題材は、有名な史実を元にした、醜くて性根の卑しい婚約者の目を盗み、真実の愛を育んでいる美しい二人が、愛馬の厩舎で永遠の愛を誓う場面を詠んだ詩だった。よりにもよってアナスタシアが朗読することになり、嫌々朗読しているのを横目に、二人はくすくす笑い出したのだ。それにつられて他の生徒も笑い出し、リオとの婚約に割り切った態度を見せていたアナスタシアも、つらい気持ちになった。フェイが、途中でその朗読を強引に交代したが、教師に止められた。
「これは授業です。与えられた文量をきちんと読みなさい」
フェイの婚約者マクスウェルは、杓子定規がすぎると抗議したが、受け入れられなかった。
アナスタシアは必死に自分を落ち着かせ、続きを読もうとした時、エドワードが立ち上がった。まるで絹のような黒髪をふると、アナスタシアを温かく見つめてきた。アナスタシアと同じ緑色だが、もっと深くて濃い緑の瞳で。
そしてアナスタシアと一緒に、張りのある声で読み始めたのだ。
教師は止めようか迷っていた。なぜならエドワードはキャロル侯爵家の長男で、例え教師といえども敵に回すのは怖い相手だったからだ。それになにか問題を起こしているわけでもない。とうぜん生徒たちは誰一人太刀打ちできない相手で、教室内は静まりかえった。
耐えがたい苦痛に満ちた時間が、急に晴れやかな空の下、緑の草原を馬で散歩するような軽やかなものに変わった。アナスタシアが輝くような笑顔を浮かべ、エドワードを見ると、エドワードもとびっきりの笑顔で見返してきた。そしてアナスタシアはさっきまで早く終わって欲しいと願った、朗読の時間が、永遠に続くと良いとまで思ったのだ。
◇◇◇◇◇◇
マクスウェルは、エドワードの姿を見かけ、近寄ると、中庭でリオとルビーが談笑していた。周囲には二人の信者が集まっている。そしてその中庭を囲むように建っている校舎からも、たくさんの見物人が眺めていた。渡り廊下から、エドワードは二人を見下ろし、その眉間には深いシワが刻まれていた。
「おい、エドワード」
エドワードは声をかけてきたマクスウェルのほうを見たが、シワは深すぎて取れなかった。
「お前もたいへんな女性に片思いしているなあ」
マクスウェルの発言にエドワードはため息をついた。
「婚約が上手く行っているなら、私だって我慢する。だが中庭の二人は、あんなひどい態度を取っていて、しかもリオ殿はさっき『結婚する気はない』とまで言ったんだ」
「ひでえ、なんで婚約解消しないんだろうな」
「アナスタシアと婚約していれば、婿養子先が必要になった時に、万が一の保険になるとでも考えているんじゃないか。それにリオ殿はルビー嬢の前では隠しているが、けっこうアナスタシアのことを気に入っていると、私は見ている」
マクスウェルも大きなため息をついた。
アナスタシアは確かに学院で孤立しているが、そうはいっても彼女が気の毒な立場だと考えている人間も、それなりにいた。婚約者が堂々と浮気し、かつ結婚する気も、かといって婚約を解消する気もないのだ。冷静に考えれば、それがいかに地獄のような状態だということは、誰にでもわかる。他人でもそう思うのだ、親しい人、友人、そして片思いをしている人間にとっては、つらいなんてものではなかった。だからマクスウェルは口を出した。余計なお世話だとわかっているが、出さずにはいられなかった。
「アナスタシアの父親、アトリ伯爵の方に、直接働きかけてみてはどうだ」
「マクスウェル、アトリ伯爵と話したことはあるか?」
「いや?」
エドワードは先ほどまでの勢いはどこへやら、急にげんなりとし顔色が悪くなった。まるで香り豊かな牧草だと思って食んでいたら、大嫌いな長ネギだと気がついた小馬のように。
「世の中には話が通じない人間というのがいるんだ。これは勘だが、たぶん私が働きかけたら、この婚約、『絶対に』解消できなくなるぞ」
「それはなぜ?」
「いいか、マクスウェル。絶対に余計なことはしないでくれ。私も私の父もなんとかしようと動いている。もしかしたらなにか頼むこともあるかもしれない。だが絶対に、絶対に、余計なことはしないでくれ」
「お、おう」
マクスウェルは鬼気迫るエドワードの様子に、ただうなずいた。
◇◇◇◇◇◇
アナスタシアは、学院での自分の立場が脅かされていることを父親に報告した。
これまでにも何度も言っているが、父親にはなんの効き目もなかった。
そもそもアナスタシアの父親は、冷血漢の人でなしで、アナスタシアが学院で立場をなくしているなんて聞こうものなら、嬉しそうに質問するのだ。
「どんな風に? ねえねえ。どんな風に?」と。
父親のアトリ伯爵は、羽ペンの先を限界ぎりぎりまで削りながら、アナスタシアの話を聞いていた。
「リオ様とルビーさんの間を、私が邪魔しているとの噂が流れているんです」
アトリ伯爵はぎりぎりまで削った羽ペンを、インク壺に入れた。
「うーん、さすがにここまで削ると、インクがつかないなあ。あ、そーだ、インクを足せば」
「私はリオ様に義務感以上の気持ちは、ないと言っています。でも駄目なんです。たぶん私がリオ様に縋り付いている方が、おもしろいんでしょうね。観客は」
「よし。やっぱりインクの量が決め手だな。これでこの羽ペンはもう少し使える。ウフフ」
アトリ伯爵は、短くなりすぎて、手で握りにくくなった羽ペンを、まるで金で出来ているかのように崇めた。
アトリ伯爵家は別に貧乏ではない。むしろ裕福だ。だがアトリ伯爵は、まだ使える物を捨てるのは、絶対にできない性格だった。
下着に穴が開いても使い続け、窓ガラスにひびが入っても交換せず、お皿に残った葉物やソースはパンできれいにすくい取った。
年を取った馬を解体して、食用肉にしようとした使用人に、もったいないからと言って、自分が散歩をするのに使うために引き取ったこともある。
その馬はアトリ伯爵そっくりの、性格が悪くひがみ根性の強い駄馬で、人にかみつく癖があり、世話が大変だった。
だが似たもの同士気が合うのか、よく一人と一頭で散歩しに行き、この馬が死んだ時だけは、アトリ伯爵も、しばらくしょんぼりしていたことがある。
娘のアナスタシアは、この父親にも人間らしい気持ちがあったのかと、驚いた記憶があるのだ。
アトリ伯爵のこの困った貧乏性を、教区の司祭は清貧の見本としてたいへん褒めたが、アナスタシアに言わせれば大いなる勘違いだ。
アトリ伯爵が羽ペンをぎりぎりまで使うのは、『羽ペンをどこまで使えるかレース』を頭の中で開催しているからだ。
新しい羽ペンを手に入れる度に、そのレースは開催され、賑やかな音楽とリズミカルな拍子を頭の中で流しながら、ぎりぎりまで使い続ける。そして最後に歓声と共に『羽ペンを使い終わる』という名のゴールを決める。その時の伯爵の頭の中では、一仕事やり遂げたような満足感で、一杯になるのであろう。トロフィーまでもらっているかもしれない。
他のことも同じだ。下着も窓ガラスもソースも、伯爵の頭の中ではレースだ。彼の中ではこの人生そのものが、遊ぶための材料なのだ。
そしておそらくこの婚約もレースの一つなのだろう。
アナスタシアはずずずいと、伯爵に近づいた。
「ちゃんと話を聞かないと、その羽ペン捨てますよ」
「スミマセン、ちゃんと聞いてマス」
「リオ様との婚約を解消させて下さい」
「えー」
アトリ伯爵は大きく抗議の声を上げた。
「えー、でもー。リオ君のウェイン子爵領は、金のなる木なんだよネ。娘一人を生け贄にして、対価が手に入るのなら、パパはこの婚約を続けたいんだけど」
アトリ伯爵は無慈悲に言った。アナスタシアは、この人の心を持っていない父親を、説得しようと頑張った。
『生け贄にして』という言葉から、アナスタシアを大事に思っていないことを、隠しもしていなかった。
リオは今や飛ぶ鳥を落とすほど、勢いのあるウェイン子爵家の次男でもあり、彼と婚約したい家はいくつもあるのだ。リオの方が選ぶ立場で、アナスタシアは黙って耐えるしかなかった。
ウェイン子爵家は領内で、国内で必要とされている鉱物の鉱脈が見つかったり、高い技術力を持つ民族を抱えていたりした。また毎年安定した農作物の収穫があり、名馬の産地としても知られ、婚約相手としてまれなる優良物件だった。
「確かにリオ様を婿養子に迎えれば、ウェイン子爵領の特産品や、技術や、名馬をもらえる契約になっていますが、よく考えて下さい。同じ学院にいる婚約者の立場を危うくしたり、婿養子のくせに愛人抱えていたり、我が家に損害を与える気満々ですよ。しかも絶対自覚なしに損失を作ります」
「でもステイシーちゃんの苦労は、パパにはお楽しみ……あ、いや、関係ナイシ」
「関係ないって言い換えても意味ないですから。十分ひどいですからね。
あのですね、私は一人娘だから、絶対に誰かと結婚しなければならない義務があります。だからこの婚約を受け入れているんです。でもリオ様は結婚しないとまで言っているんですよ。しかも理由は『面倒だから』です。こんな婚約意味ありますか? リオ様には常識が通用しないんです。仮に結婚したとしても、愛人にだけ子どもを生ませて、我が家は乗っ取られるだけですよ」
「乗っ取りかー。そうなったら、お前を跡継ぎからはずして、パパは養子を取るから別にいいヨ」
「よくないでしょう。最初からそういうことをしない婿養子を探して下さい」
「他の婿養子ねえ。そういえばキャロル侯爵家から、婚約についての照会があったなあ」
「キャロル侯爵家って、え、それって」
まさかエドワードから、婚約についての問い合わせがあったのだろうか。アナスタシアの胸は期待に躍った。そして反射的にその期待を胸に閉じ込めた。恐る恐る父親に目をやると、満面の笑みを浮かべていた。
「ステイシーちゃんって。もしかして……ぐふふふふフ」
いたぶりがいのある獲物を見つけたアトリ伯爵は、心の底から喜びの感情をわき上がらせた。知らない人が見たら、溺愛している娘が、可愛くて仕方がない父親に見えるだろう。
だがアナスタシアは、エドワードへの気持ちがばれようものなら、リオとの婚約は『絶対』に解消されないことをわかっていた。理由は一つ、そのほうがアナスタシアをいじめられて、アトリ伯爵にはおもしろいからだ。
アナスタシアは少し考え込み、こう言う時のために取っておいてある、秘策の一つを使うことにした。アトリ伯爵の気がそれそうな、とっておきの話題を一つ提供したのだ。
「……実はリオ様から、大分前にどんな小さなものでも切れる、ミニミニ小刀をもらったことがあるんです。領地の特産品だとか。それがあれば羽ペンが、限界を超えてどこまでも削れるでしょうねえ……」
アナスタシアが父親をチラリと見た。アトリ伯爵はただちにアナスタシアとの取引に応じて、話題を元に戻した。口元と違って目がキラキラと輝いている。
「あのね、ステイシーちゃん。それにネ、この婚約って解消すると、結構な額の違約金が発生するんだヨネ」
「その違約金以上の損害を、リオ様は発生させるだろうと言っているんです」
「うーん。でもなあ、魅力的なんだよネ。リオ君の婚約の条件」
「逆でしょう。リオ様にあれだけ問題があるから、魅力的な条件にしたのでは」
「なるほど。ステイシーちゃん。賢い」
アトリ伯爵はアナスタシアを褒めた。
父親にはそんなつもりはないのだろうが、どう聞いても馬鹿にしているとしか思えない返事をされ、アナスタシアは血管が切れそうだった。
かっときたアナスタシアは、思わず父親の大事な羽ペンを奪うと、父親が見ていた書類に突き刺した。ただ刺しただけなので、丈夫な紙は破れるどころか、傷一つつかなかった。だがアトリ伯爵への効果は絶大だった。
「どうしたの? ステイシーちゃん? そんなに怒ったら血管切れちゃうヨ」
いつも人を小馬鹿にした顔で見て、冷笑を浮かべる父親がめずらしく警戒している。
「お父様。この婚約を解消しないと言うのなら……」
アナスタシアは怒った勢いのまま父親の机の上に、飛び乗ろうとした。しかし実際にやってみるとそんなに体が柔らかくないので、足が上がらず、乗るのに時間がかかった。その間に、父親は椅子から立ち上がり逃げようとした。アナスタシアは今までの鬱憤が爆発し、今の気持ちを机の上に乗り、大声で宣言しようと思ったが、やってみると意外に体力を使ってしまい、乗った時には割と平静で間抜けな気分だった。
だがアナスタシアの気持ちは、もう決まっていた。
だから静かに宣言したのだ。
「私はこの家を出て行きます。当然この婚約も果たしません」
「えー」
そう言われた父親は、めずらしく真面目な顔をし、しばらく考え込んだ後で言った。
「それは案外、いい提案かもしれないヨ。ステイシーちゃん」
「……は?」




