3 護符③
街灯を辿るようにして走ってしばらく経った頃、明かりの届く範囲の外の景色が変わったことに気づいて足を止めた。
肩で息を切らしながら周囲を見回すと、見知った通りのはずがいつの間にか別の場所に来てしまっている。
いや、別の場所と言っていいのだろうか。
見上げると、街灯だと思って頼りにしていたのは、青白い火を灯した提灯だ。
しまったと思ったのも後の祭り。
闇夜の住人たちに導かれて、黄昏時に現れる境目に落ちたのだと自覚した。
『おおい、おおい』
提灯が作る道は目の前から細まって、明らかに私を誘う。その先からは低い男の声が聞こえてくる。
行ってはいけないと思うけれど、後ずさった私の足に、ごつんと何かが触れた。
慌てて振り返ると、そこに大きな頭だけの妖が三体、ごろんと転がって私を見上げていた。
「ひっ……」
人間の男の顔をした首が、にやにやと笑う。
髪を振り乱し、三体がぶつかり合いながら跳ねる。
もう提灯に導かれようとも、そちらに逃げるしかなかった。
もつれる足を動かして、私は走り出す。手を胸にあてて、護符を握りながら。
『……おおい、おおい』
その声が近づくのが恐ろしくてならなかったが、後ろからはどすんどすんと首が跳ねながら追ってきているのが分かる。
「助けて、兄様」
縋るものは兄が持たせてくれた御守り袋。声に出して願っても応えてくれるものではないけれど、願わずにはいられなかった。
しかし運がわるいことに、荒れた道に突き出た石に足を取られ、ついに転んでしまった。
砂利についた左手と膝に、痛みが走る。
それと同時に、周囲が沸き立つのが分かった。ざわざわと生臭い風が巻き上がり、肌に触れた瞬間に、怖気立った。
──若菜。おまえの血を、妖たちに与えてはならないよ。
兄の言葉が脳裏によぎり、慌ててハンカチを取り出す。半分に割いて血が垂れる膝に巻き付けてしっかりと結び、血を隠す。
掌はそこまでではないが、血が滲んでいる。握り込むようにして隠した。
対処したとはいえ、これ以上ここに居ては危険。冷静になってまずは自分が座り込んでいる場所がどこなのか探る。
すると側に柱があるのに気づき、それを辿って見上げると柱が鳥居であることに気づき、緊張が走る。
赤い鳥居はとても古く、手入れがされていないのか所々朱色が剥がれ落ちている。そこから続く参道らしき道は草が生えて荒れ放題だ。
その暗い参道の中程に、真っ黒い何かがいた。
『女……よこせ、その符をよこせ』
声が聞こえたと思ったら、黒い何かが蠢いた。
全身に鳥肌がたち、その黒いものがあまり歓迎できないものだということを悟る。
制服の外に出てしまっていた御守りを両手で握り、首を横に振る。
すると提灯たちが後方から素早い動きで私の脇をすり抜け、参道に立つ妖の元に集まる。青白い炎に照らされたそれは、大きな狐だった。同時に辺りを照らし、そこが古びた社をかまえる稲荷神社であることを知らしめる。
提灯だったものはいつしか形を炎だけに変え、それらが狐火だったことを悟る。
「……どうして、お狐様が」
仮にも祀られていたものが、このような強引な形で自分を誘い込む理由が分からない。これまで幼い頃から妖に後をつけられたこともあったし、悪戯をしかけられたこともある。自分の陰の気に惹かれるのは、いつだって暗闇の住民。
だが私の問いに、大きな狐は大きな口を開けて真っ赤な舌と鋭い牙を見せた。
『おまえから神気を感じる。清らかなる札を持っているだろう、それをこちらによこせ……それがあれば我は力を取り戻せるに違いない』
ぶわりと狐の毛が逆立つ。
血走った目が、まるで獲物を見据えたように鋭くなった。
『見よ、娘。金色に輝いていた我の毛は、見る影もなく煤けて闇色に染まった。ヒトがこのようにしたのだ、僅かばかりの願いでは満足しきれなかったと、次々に欲を置いていき、社はすっかり穢されてしまった。あれほど聞いてやったというのに、仕返しをしてやらねば気が収まらぬ……ああ口惜しや』
狐が毒を吐くたびに、漂う獣臭。
よく見ると、黒く染まった四肢は下にゆくほど溶けて形を失っている。
「この護符は、私にとって大切なものです、だから渡せません」
狐からどのように脅されようとも、私にとってもこの御守り袋の中に入っている護符は、生きる上で欠かせないものだ。
『よこせ、よこせ……』
叫びのような声が耳に直接入ってくるかのようで、思わず耳を塞ぎたくなる。それでも握りしめた袋を離さないようにしながら、足に力を入れて立ち上がる。
「きゃっ……」
しかし何かに引っ張られるようにして再び尻餅をついてしまった。振り返ると、スカートの裾を、追いついてきた首だけの妖が咥えていた。そしてもう一体は袖に食らいつき、避けようとしたところで三体目が跳ねた。
このままでは護符を奪われる。万事休す、そう思った時だった。
「楽しそうなことをしているじゃないか、僕も混ぜてくれる?」
若い男性の声が聞こえて、三体の首が『わ、わ、わ』と叫びながら飛び退いていく。
今度は何?
困惑する私の右隣に、すらりと背の高い、仕立ての良い洋装をした男性が立っていた。
そして左側にも気配を感じて目を向けると、もう一人、黒いコートを纏った男性が黙って立っていて驚く。
『邪魔をするな』
狐から届く威嚇のような唸り声が、鼓膜に痛みとなって届く。
思わず耳を押さえて身を捩ると。
「ノクス、ちょっと黙らせて」
右隣に立っていた男性が柔らかい口調でそう言うと、私の腕を取って立たせた。
そこでようやく、その男性が異国の人だと気づく。
彫りの深い顔立ちに、淡い青色の宝石のような目をした、金髪の男性。整った顔立ちは、まるで絵物語の世界から抜け出てきたかのよう。
唖然としていた私の後ろで、黒い何かが動いた。
『な、なんだ?』
困惑する声に振り返ると、狐の周囲に落ちた影の中から、いくつもの影が立ち上がる。
影はゆっくりと四つ足の獣の姿になり、狐を取り囲んだ。
黒いコートの男性が狐に歩み寄り、右手を挙げてその様子を黙って見守っていた。
その彼の横顔もまた、異国の色が濃い。
長く顔にかかる黒髪の隙間から見えるのは、ペリドットのように美しい色の瞳。ひときわ白い肌が、狐火の炎に照らされて彼もまた美しい人だと思った。
『やめろ、我に触れるな……』
影は大きく凜々しい狼の姿になって、あっという間に狐の手足を咥えて押さえつけてしまった。このままでは狐は、狼たちに噛み殺されてしまう。
「どうかそれ以上はお止めください」
咄嗟に、そう叫んでいた。
狼を操っていた黒髪の男性が、私を振り返った。彼らの思惑も分からず止めてしまったけれど、声に反応してくれたということにだけは安堵した。
「そのお狐様は祀られていた方です。どうか、酷いことをなさらないでください」
その訴えに反応したのは、私を支えていた金髪の男性の方だった。
「驚いたなきみ、あの狐に取り殺されるところだったのに、庇うの?」
金髪の男性はとても表情豊かに、流暢な日本語で驚きを伝えてきた。
私はとりあえず頷き、しかしどう説明したらいいのかと躊躇する。
「助けていただいてありがとうございます。ですが交渉してみたいと、思います」
「……へえ、面白いな。僕も立ち会っていいだろうか? あ、僕の名前はパトリック・ノイマン。あっちはノクスっていうんだ」
いきなりのにこやかな自己紹介に押されるようにして、私も名乗ると。
「わかった、若菜。どうぞ、交渉とやらを見学させてもらうよ」
「おい」
いきなり名前を呼び捨てられたのも初めてなのできょとんとしていると、後ろから不機嫌そうな声がした。
不機嫌な声にものともせず、金髪のノイマン氏は笑った。
「いいじゃないか、後学のためにも見ておきたい。上手くいかなくても、僕らが何とかできるでしょ」
至極楽しそうに諫めると、ノイマン氏は私に向かって手で「さあどうぞ」と促す。
成り行きではあるけれど、今さら引き返せない。私は首から提げた御守り袋を手に握り、黒い狼たちに調伏された狐の元まで歩み寄った。
「今はまだ手元にありませんが、新しい護符が明日には届く予定です。ですがそれを手にするまでは、今ここにある護符は、私が生きるために必要なものです」
狐は苦しさからか、血のように赤い瞳だけは私に向けるが、喋ることも叶わない様子。それでもこちらの要求だけは伝えなければならない。
「私を二度と傷つけることなく、解放してください。その代わりとして明日には、不要になった暁にはこの護符をあなたに差し上げます」
妖たちが、私を傷つけずにここに誘ったのには、きっと訳がある。最初から悪意があれば、とうに私は命を落とし、護符は奪われていただろう。
私は黒髪の「ノクス」と呼ばれた男性に向けてお願いをする。
「返事を聞きたいので、拘束を緩めてください」
すると狐に食らいついていた黒い狼の一頭が、首を解放した。
『否』
まさかの拒否。
「どうしてですか、約束は必ず守りますよ?」
『……我はもう保たぬ。このまま消えることもできず、腐り奈落へと落ちるだろう』
彼の手足の先は、ずぶずぶに腐って崩れかけていた。それを見て、私はかつて兄から聞かされた言葉を思い起こす。
──若菜、一度は祀られた神が自然に消滅することはないんだ。役目を終えて天に昇るか、地獄に落ちるか二つに一つ。
もし、兄からの小包が今日届いていたら、このお狐様を救えただろう。
自分の不運が、こうして何かを巻き込むことに、これまで幾度悔しい思いをしてきただろう。
「あと一日、時間があったら……」
朝から散々だった不運の連なりが久しぶりだったせいか、この夜は酷く堪えた。
頬に伝う涙を拭いながら、しゃがみ込む。
「ごめんなさい、兄様の護符を受け取れなかったから……役に立てなくて」
哀しくなってしまった私を、狐が困惑気味に見上げていた。
苦しそうな表情ではあるけれど、先ほどまでの業火のごとき赤は薄れている。恐らく、昔はしっかりと祀られていた祠の主だったのではないだろうか。
自分の力の無さが憎らしくて涙が溢れ、そして拭いきれない涙が、足元の影に落ちて消えた。
そして次の瞬間、見たこともないくらい真っ黒な闇が私を覆ったのだった。




