2 護符②
櫛笥環、華族櫛笥家の令嬢。
彼女こそ私が通う女学院でもっとも尊い家柄の生徒、櫛笥環様だ。彼女がどうしてこの郵便局に居るのかわからないが、とても大きな身体の側付きらしき男性を従えて、ホールの奥に続く部屋から出てきたところらしい。
その彼女の隣には制服を着た年配の男性がいて、すぐさま状況を見定めて厳しい声を上げたのだった。
「また問題を起こしたのか、貴様。あれほど横柄な態度を取るなと、何度言えば分かるのか!」
叱咤された局員よりも立派な制服だ、ぴんと伸びた背筋から高い地位の方であることは一見して分かる。
その彼を見て、横柄だった局員が一瞬で青ざめ、慌てて姿勢を正した。
「きょ、局長……今すぐ、ご用意いたします」
そう言って逃げるようにして席を立ち、裏方へと走っていった。
一連のやり取りを呆れ顔で見ていた環様が、カウンター越しにひょいと手を伸ばし、局員に奪われていた兄からの手紙を拾い上げる。
「どうぞ、若菜さん。災難だったわね」
「……ありがとうございます、環様。それから局長様にも、お礼申し上げます」
「気にしなくてもよくってよ、ちょうど居合わせただけですもの、そうですわね、禅院様?」
すると先ほどの威厳に満ちていた様子から一転して、優しい落ち着いた声で微笑みながら、禅院と呼ばれた郵便局長が「お役に立てたのでしたらよろしゅうございました」と言ってくれた。
その二人の言葉に安堵しながら、私は取り戻した手紙の封筒を改めてハンカチで包み、ポケットに戻す。
「お手間を取らせてしまいました、きっと小包はすぐに持ってきていただけると思いますので、どうぞ環様の御用事をお済ませください」
私は環様と、彼女の後ろに立っていた大柄の側付きの男性へと会釈する。ここらで一番大きな局とはいえ、彼女のようなご令嬢が直接赴くのならば、よほど大切な用事があったに違いない。それを自分のことで邪魔をしてしまったのだ、これ以上は迷惑だろう。
すると環様は驚いたような顔をしてから、後ろの男性へと目配せをして言った。
「……あなたもしかして」
そう言いかけたところで、先ほどの窓口の局員が慌てた様子で戻ってきた。そして奥の仕事場から客たちがいる方まで出てきて、私たちに深々と頭を下げたのだった。
「も、申し訳ございません……」
表情は見えないけれど、声と肩が僅かに震えているように感じられた。
その様子にどうしたのかと困惑していると、続く言葉に耳を疑った。
「仁倉様あての小包が、手違いで他局への配達車に紛れ込んでしまったらしく……その、お渡しできなくなりまして」
「手違いで、誤配送?」
至極冷静な環様の声に、局員はびくりと肩を震わせた。
「当局留めの荷の箱から、こぼれ落ちたのかと……」
「馬鹿者!」
禅院局長の雷が落ちた。
訪れていた人々の目が、一斉にこちらに向く。
「どこの局に向かう便だ?」
「それが、東京中央本局へ……」
局長の顔が曇る。彼は胸元から懐中時計を取り出すと、小さくため息をついた。
「仁倉様、申し訳ありません。大至急、荷を回収に赴きたいところですが、既に中央本局への搬送地下軌道へ既に乗せられている可能性が……回収は最速でも明日以降となります」
頭を下げる局長に、慌てて首を横に振る。
「どうか頭を上げてください、手違いも仕方がないことですし、見つけていただければそれで」
東京駅の地下から中央郵便局へ繋がる搬送便に入ってしまえば、見つけ出すことが容易ではないことくらい、簡単に想像がついた。
兄から送られてくる『護符』がないと心許ないのは確かだが、こうなってしまっては自分にはどうにもならない。それに、と大きな窓から外を見る。
夕立は上がったものの、空は暗くなってきていた。
焦る気持ちから、制服の奥の胸元に下がる御守りをぎゅっと掴む。
「あの、また明日、受け取りに伺ってもよろしいでしょうか?」
「それはもちろん……なんでしたら、配達をさせていただきますが」
「それは大丈夫です、局留めで」
慌てた様子が不審に思わせてしまったのか、局長は様子を見守っていた環様にちらりと視線を向ける。
どう伝えたら不自然ではないだろうか。兄の護符はとても強力なものだ。私以外の者が長時間触れることはできたら避けたい。そのために、予め局留めと指定して送ってきたものなのだ。でもそんな事を言うわけにはいかないので、良い方便がないかと考えあぐねていると。
「局長、若菜さんの希望通りにするのが誠意というものでしてよ」
「それは……確かに、おっしゃる通りです。それでは、こちらに留め置きます、それでよろしいでしょうか仁倉様?」
「もちろんです、そうしていただけると助かります」
そうして環様の助言により、明日の夕方、もう一度この郵便局に私が受け取りに来ることで話がまとまった。
私は局長と環様に丁重にお礼を言い、それから郵便局を後にした。
時刻は既に五時を回っていたと思う。
バスの時刻を見ると、次に来る便まではさほど待たずにすみそうだった。郵便局のそばの停留所から、寮までは二十分ほど。
暗くなる前には帰れることを祈りながらバスを待った。
私がここまで焦るのには、理由がある。
生まれた時から、強い陰の気を持っている私は、兄の護符なしでは東京で過ごすことは叶わなかったろう。
私の血は、大きな不運を呼び込む。
護符の効力が完全に切れてしまったら、朝から繰り返したような小さな不運では済まないことも起こりえる。
例えば……今目の前に来たバスに私が乗ったことで、故障をしてしまうか、思いもよらない不運に逢う。それは周囲にいる人々を巻き込んでも止まることはなく、最悪の事態にもなりかねない。
それでも私が今の歳まで無事なのは、どんな不運を呼び込んでも私自身は見えないモノに護られているからだ。だから兄の護符は、私を護るというよりも、私にかかわる全てを私から護る。
「どうか今日はまだ無事に着きますように……」
空いている座席に座り、兄の御守りを握りしめて祈る。
歩いて帰ったら寮に着く頃には暗くなっていただろう。暗い中を歩くのは禁じられている。私の血は、陰のモノたちを呼び寄せてしまう。バスの中を照らす明かりがあれば、それも少しは防げるからだ。
そうして祈りが届いたのか、しばらくして寮の側にある停留所の二つ前まで来た。あと少し、ほっとした時だった。
バスが停留所ではないところで急に停車した。
どうしたのだろうかと思っていると、運転手と車掌がなにかをこそこそ話し合っていた。他の乗客も困惑した様子でそれを見守る。
「申し訳ありません、このバスはここまでで引き返すことになりました。この先に行かれるかたは降車願います」
エンジンは止まっていない。故障というわけでもなさそうなのに、どうして急に引き返すのかと他の乗客たちが車掌に詰め寄る。
けれども私は黙って立ち上がり、逃げるようにしてバスを降りた。
このまま乗っていても、バスは目的地に着くことはないと判断したからだ。
空は茜色から藍色に変わろうとしている。
降りる時にすれ違った車掌の袖口からは、動物のような毛がはみ出していた。そして鼻をかすめる獣臭。
いつの間にか、妖が車掌に取って代わったのかもしれない。
焦りで足がもつれそうになるが、私はひたすら街灯の光を辿るようにして、通りを走った。 大通りならば、まだ人が歩いている。日が完全に落ちてしまったら、闇夜には古から棲みつくモノたちが這い出てくる。
東京といえども、それは今も変わらない。いや、街灯と家に灯る明かりが強く闇を押し出すことで、より闇が濃縮されてそこにある。
息を切らしてはしたなく走る私を見て、すれ違う人たちが振り返る。
けれどもそんな事を気にする余裕が、私にはなかった。