1 護符①
生まれた瞬間から、私の宿命は定まっている。
空に太陽と月があるように、朝を迎える前に夜があるように。日の光に影が出来るように。私はすべてを燃やし尽くす太陽のごとく陽の気をもつ兄の対として、陰の気を受けて生まれた。
それは決して覆らないこの世の理なのだと、諦めることを教えられて育った。
時は大正の御代を迎えてそろそろ十年を迎えようとしていた。
明治維新以来、西欧文明が津波のように押し寄せ、その勢いは未だ衰えず。数多の恩恵が国の隅々まで行き渡るのは、そう遠くない未来と誰もが信じられるようになった。
まるで地下水が吹き上がるごとく繁栄が目に見える。誰しも努力すれば、叶わない願いはないと信じられる時代。
電灯の明かりが原初の恐れであった夜を退け、人が栄華を極めた時代に、私は新しい挑戦に胸を躍らせながら東京へと出てきて、そろそろ三ヶ月が経つ。
寮の世話になりながらの高等女学校の生活は、勉強と生活の両立は大変ながらも、ようやく慣れたところだった。
この日は、朝からついてなかった。
梅雨が明けて朝から汗ばむ陽気に見舞われた朝、細々とした不運が続く。寮を出ようとしたところで靴紐が切れた。代わりの紐を結び直して急いで停留所へ向かった。いつもより一本バスを乗り損ねたが、それでも充分に間に合う時間だ。
しかし待てども待てども、いつも定刻通りにくるバスが停留所にやってこない。
「おおい、お客さん方、申し訳ないが次のバスは、一つ前の停留所で故障をしてしまった。次の便を待つか、他をあたってくれ」
車を待っていたのは私と同じく女学校に通う先輩学生が二人。それから年配の男性が三人ほど。そこに切符を切る車掌が走って、バスの運行中止を告げに来たのだった。
息を切らしながら、もう一つ先の停留所まで告げに行くという車掌。それを通りがかった自転車の男性が憐れみ、言伝を買って出たようだ。
「若菜さん、あなたはどうされますかしら? 私たちは向こうの大通りまで行って、人力車を掴まえるつもりよ」
「よろしければ、私も是非ご一緒させてください」
仕方なく同じくバスで女学校に通う二つ年長の女学生たちと停留所を後にして、そこから列に並び人力車に乗り合わせることになった。人力車とはいえ手痛い出費だが、あのまま歩いて行ったのでは、大遅刻間違いない。
それから掴まえた人力車に三人で乗り、何とか学校に到着することができた。とはいえ五分の遅刻をしてしまい、三人揃って教師にきついお叱りを受けてしまった。
不運はそれだけに尽きず、裁縫の授業ではおろしたてのはずの針が折れ、教師に準備がなってないとお叱りを受けた。こういう不運には慣れっこではあるものの、しっかり気を張って注意せねばと己を叱責しつつ残りの授業に臨んだのだけれど、最後の最後で失敗をしてしまった。
不注意で足を捻挫してしまったのだ。
「仁倉若菜さん、注意散漫でいるから怪我をするのです。今朝は遅刻したと聞いていますよ」
手当をしてくれたのは、担当教員をしていたに藤堂という女教師。
「はい藤堂先生、申し訳ありません」
バスが来なかったと言い訳をしても、そのような言い訳は通用しない。常日頃から早めの行動をしておけば、遅れなかったはずだと言われることは分かっている。
こうして体操の時にうっかり捻ってしまった怪我の手当てをしてくれているように、何かと風当たりの強い女学生を心配して、彼女は厳しい指導を心がけている。
「包帯で固定しておきましたが、痛みが引くまではあまり走ったりしないようになさい」
「はい。ありがとうございました」
「……あら、夕立かしら」
立ち上がった先にある窓の外を見て、藤堂の顔が曇る。
先ほどまで晴天だった空に、いつの間にか暗雲が立ちこめていた。耳を済ませると遠雷が聞こえる。
「この調子では、港に来ている蒸気船の野次馬に冷や水を浴びせさせそうね」
藤堂の視線の方角は、確かに港だ。確か、昨日から外国の貴人を乗せた大型蒸気船が寄港したと、大層噂になっている。きっと大勢の見物人が、港に詰めかけているに違いない。
「あちらの政府高官や軍人、お抱えの商人を乗せて入港したと新聞に載っていました。こちらも歓待に大忙し、ほらあなたの同級生の方々も、お休みをしていたわね」
「そういえば……櫛笥様がご不在でした」
私が通うこの女学校には、良家の子女が多く通う。政府高官や豪商の令嬢から、元は大名だった貴族のお姫様まで。そのなかでも外国の貴人の歓待にまで顔を出すご令嬢といえば、決して多くはない。
その稀なお一人というのが、華族、櫛笥家のご令嬢である環様だ。
「仁倉さん、あなたも早めに寮へお戻りなさい」
教師がそう勧めると、まだ晴天にもかかわらず強い雷鳴が轟き、二人揃ってびくりと身体を震わせた。
「あら、何か落ちたわよ」
知らぬ間に、制服の内側にあった紐が切れて、首から下げていた御守りが落ちたのだった。拾ってもらったその御守りを両手で握りしめる。
「ありがとうございます、兄から託された大切な御守りを無くすところでした」
「お兄様?」
「はい、五つ離れていますが、寮生活を案じて作ってくれました」
「そう……妹想いなのですね」
私は赤絹で包まれた御守りを握りしめ、笑顔で頷いた。
それから帰り支度を済ませる頃には、激しい夕立が本格的になっていた。しばらく待ってみると、小雨になる。その僅かな雨の合間に学校を出た。
同級生の綾音さんにはまだ待つようにと声をかけられたが、今日はそうも言っていられない事情があった。
私は手ぬぐいを頭にあてて、足早に歩く。
通りは人通りも少なく、脇の軒下にはちらほらと雨宿りの人が佇む。その中を制服を着た女学生が歩くのだから、人の目が集まる。金物屋のおばあさんから「ちょっと濡れちまうよ、休んでおいき」と声をかけられるが、頭を下げて遠慮を申し上げる。
そうして着いた先は、郵便局。
手ぬぐいで塗れた制服を拭き、中に入り窓口に向かう。
幾つも並んだ窓口はどこも人が立っていて、混みあっている。だが無愛想な中年男性の手前のカウンターが一つ空いているようで私はそこに行き、小さく会釈をしながら塗れないようにハンカチに包んでポケットに入れておいた封書を差し出す。
「あの、手紙を送りたいので切手をお願いいたします」
すると局員の男性は無言のまま、その手紙を秤に乗せ、ぶっきらぼうに金額を告げられる
その代金を支払い、切手を貼る。
「それから小包が届いているはずですので受け取りに参りました、仁倉若菜と申します」
切手を貼った封書を後ろの篭に入れた男性が、じろりと私を見る。そしてしばらく濡れそぼった私を観察してから言った。
「身元を証明するものは?」
「身元……ですか?」
小包を受け取るのに、証明が必要だとは思わなかった。動揺しながらもハッと思い当たり、手にしていた手提げから、手紙を一通取り出した。
「こちらに、兄から私宛に小包を送ると連絡がありました。きっと送り主は兄、仁倉和哉と書かれているはず」
「仁倉というと、あの皇族方も利用なされる保養地の?」
「はい、ですから贈り主の住所も仁倉となっているはずです」
納得してもらえたかと安心したのに、郵便局員は鼻で笑った。
「あんたが仁倉家の者? そうは見えんな。おおかたこれも盗んだんじゃないのか?」
そう言いながら差し出していた手紙を掠め取られた。
「それは私のものです、どうかお返しください」
真剣に訴える私に、局員は薄く笑う。
周囲に助けを請うように視線を向けるも、厄介事には巻き込まれたくないのか、視線を逸らされてしまう。
兄からの手紙を奪われたくない。そんな想いから手を伸ばそうとするも、ひょいと躱される。
今日は本当に厄日だ。
涙目になりそうになったその時だった。
「あなた、どういうおつもりなのかしら。小包を渡さないばかりか、人の手紙を取り上げるなんて」
若い女性の凜とした声が局内に響いた。
ざわざわとしていた局内が、途端にしんと静まり返る。
「そちらの方は仁倉若菜さん、わたくしの学友でしてよ。それともわたくしの言葉では身元証明には足りないとおっしゃられるのかしら」
声のする方を振り向くと、局長室の前に立つ振り袖姿の若い女性と目が合った。
牡丹が咲き乱れる意匠に、全く負けないほどの美しい顔立ち。大きな目はまっすぐこちらを見据え、小さな身体とは裏腹に、只者ではない覇気をまとっている。
「櫛笥様……?」
そう呟くと、彼女はちらりと私を見て、にっこりと微笑んだのだった。