遠い世界の話
ボク何か悪いこと言ったかな……
ちょっと沈黙が続く。海の静けさが、その沈黙をより深いものにする。
「僕は逃げてきたんだ……街に貴族達の兵隊がいっぱいやって来て、家という家に火をつけて、食料や若い娘を奪って、逃げ出してきた住人を見境い無しに殺しまわって……それで僕だけでも逃げろって……」
――酷い……!
人間族の世界で本当に戦争があったなんて!
話には聞いていたけれど、こんなにも生々しい現実があったなんて。
ボクは怒りと悲しみを同時に心に共有させてしまった。戦争という言葉は、ママから人間族の物語として聞いたことがある。
でも、それはずっと自分とは無縁な別世界の出来事だと思っていた。
だけど目の前にいる少年が、その残酷な現実を生きているなんて。
この人間族は、今とても辛い筈だわ。自分のパパやママがその戦争の中にいるなんて。ボクだったら悲しくて心が張り裂けてしまうかもしれない。いや、きっと張り裂けてしまう。
「キミ、どこから来たの?」
「ジール王国だよ」
少年は顔を上げ、弱々しく月が照っている方向を指して伝える。その声には、故郷を思う切なさが滲んでいた。ボクの胸が締め付けられる。月の光に照らされた彼の瞳には、深い悲しみが宿っているように見えた。
その指し示す方向に目を凝らしてみるけど、暗がりの中に沈む景色の中では、何一つ見えるものは無かった。ただ果てしない夜の海が広がっているだけ。波のさざめきだけが、静かな夜の証人となっている。
ここの海は凪いでいる。
月明かりは、ボクの周りを青白く儚く照らし、目の前にいる少年もまた金色の髪を風に揺らして、儚さをその全身に纏っている。ボクは思わず、その儚げな姿に見入ってしまった。
海の底に住むボクたち人魚族は、地上の出来事をほとんど知らない。パパは時々、地上の様子を教えてくれるけれど、それは港町の漁師たちの話や、遠く離れた島々の噂話ばかり。
戦争なんて、想像もできないような残酷な出来事が、本当に起きているなんて。
「人間族の国の事はよく判らないけど……」
ボクは、正直に答えた。
知ったかぶりで適当に合わせても何の役にも立たないし、彼が何故ここに来たのかという理由も理解できたから……それに、この少年は嘘をつくような人には見えない。その澄んだ瞳には、深い悲しみと共に、どこか純粋な信頼が宿っているように感じられた。
「そこって、遠いの?」
「僕の街は、彼方をずっとずっと行った所さ……此処からじゃ何も見えないけど……」
マックスの声は、遠い記憶を辿るように少し途切れがちだった。
きっと、故郷の街並みを思い出しているのかもしれない。ボクには想像もつかない景色だけれど、彼の心の中では鮮明に浮かんでいるのだろう。
「ずっとずっとって……どのくらい海の上を漂っていたの?」
「三日……だと思う。太陽を見て日数を数えていたから」
――まぁっ、三日も!
人間族がこの海の上を三日も彷徨っていることは、とても辛いことに違いない。水も食べ物も限られているはず。それなのに、こんな優しい声で話しかけてくれている。ボクの胸が痛むような気持ちになった。
海の上での三日間、彼は何を考えながら過ごしていたのだろう。故郷への思い、家族への心配、そして自分の運命への不安……想像するだけでも胸が締め付けられる。
でも、どうしよう? この人間族を海に潜らせてボクの家に招待するわけにも行かないし……そもそも人魚族の集落に人間族を連れて行ったら大騒ぎになる。
「とにかく陸に上がったら?」
ここは凪いでいる場所だから、潮の流れで船が流されることはないだろうけど、いつまでも船の上というのも人間族にとっては良くはない筈だろう。少し休ませてあげたい。それに、このままボクだけが海の中から話しかけているのも、なんだか変な気がする。
ボクは隣の場所を空けて、空いている空間を右手で叩いて促すと、少年は、船と岩を縄で結び、船から降りてそこに座った。気が付かなかったけど、身体のあちこちを傷ができている。
――命からがら逃げてきたのね……
それでも陸に上がって落ち着いたのか、少年の顔に笑顔が浮かんでいる。
その仕草には疲れが見えたけれど、それでもその笑顔の中に安堵の気持ちも浮かんでいるようだった。きっと、三日間ずっと緊張した状態で過ごしていたのだろう。
「キミ、名前は?」
「僕はマクシミリアン」
「マクシミリアン……言いにくいからマックスで良いかな? ボクはナディア。三日も海の上じゃ、お腹も空いてるんでしょう?」
マックスは少し考えてから申し訳なさそうに言った。その表情には、困ったような、でも少し期待するような感情が混ざっているように見えた。
「実は凄く……水だけは船にあった樽に入っていたから、どうにかなったけど……」
つまり、彼はこの三日間、水だけを飲んで生きてきたということなのだろう。
当然空腹になるのは間違いない。ボクは思わず、自分の家にある食べ物のことを考えた。海の底の家には、いつもママが用意してくれる美味しい食事がある。でも、果たして人間族にも食べられるものなのだろうか?
ボクは、家の中にある食べ物を思い返しながらマックスに訊ねた。
「人間族って何を食べるの?」
「肉とか魚を焼いて食べるけど」
「えぇ―――!? 焼くの?」
ボクの驚きの声が、静かな夜の海に響いた。焼くって、一体どういうことなのだろう?
パパが捕ってきた魚は、そのまま食べるものじゃないの?
「えっ? 肉も魚も焼かないと食べられないよ。『人魚族』は、火は使わないないの?」
さも当然とばかりに訊き返してくるマックスを見て、ボクは思わず鳥肌が立ってしまった。その表情には、ボクの驚きを不思議がるような驚きが浮かんでいる。
確かに人魚族も魚は口にする。
パパ達『海人族』なら、銛を持って獰猛なサメやシャチと戦って、その刺身が食卓に上るけれど、ボクのような小柄な『人魚族』はそんな事はしない。
って言うか、あのお魚達が焼かれたらどんな姿になるのかが、魚だけに想像するだけでギョっとしてしまう……意味はないけど……
その時、ボクの頭の中で、可愛い魚達が変な色に変わっていく光景が浮かんでやっぱりギョっとしてしまう……本当に意味はないけど……
「使う訳ないじゃない。火なんて水に漬かれば、すぐ消えちゃうし……」
「あっ、そうか、そうだな……」
マックスは少し照れたような表情を見せた。
きっと、自分の質問が少し的外れだったことに気付いたのだろう。でも、その素直な反応がなんだか可愛らしく感じられた。