哀愁の精人魚
『精人魚族』である、マリーナさんのお家は、珊瑚礁の上にあった。
人魚族の家とは思えない造りだったけど、中に入るとその印象は一変する。床には足が無いボク達が鰭で立ち歩きしても滑らない敷布が為されているし、亀の甲羅や大きな貝殻で出来た椅子などが並んでいて、ボクでもそのまま楽に腰掛けられそうだ。
――どうりで海の中を探しても見つからない筈ね……
心からそう思った。
マリーナさんは、人魚族では珍しく火を使う。やっぱり、稀有種である『精人魚族』だからだろうか? 真水を貯める甕から柄杓で水を掬い、それを『火石』と呼ばれる魔石で組んだ竈に載せて、お湯を沸かしている。
そんな光景、家では見た事が無い。
「あの……?」
ボクが恐る恐る口を開くと、マリーナさんは、穏やかに微笑んだ。
「あら、お嬢ちゃんはお茶を飲むのは初めてかしら? 人間族の風習では、家を訪ねてきた客人には、こうしてお茶を振舞うのが風習なのよ。さぁ、あなたもその椅子に腰掛けていなさい」
「は、はい……」
マリーナさんに促されるまま、大きな貝殻を加工した椅子に腰掛け、出されたお茶……マテ茶と呼ぶらしい……を口にする。
「……!?……」
口の中を今まで感じたことの無い、風味と味が喉を駆け抜けていく。確かにこんなに濃い茶色い水を鰓から取り込んだら大変な事になるだろう。しかし、此処は空気に満たされた場所で、ボクも肺呼吸をしている。
だから純粋に味覚を感じている。ひょっとしたら、誰も飲まないお酒も……と一瞬思ったけど、それはまた違うような気がするし、そもそも怖いのでやめておく。
「美味しい!」
「そう……良かったわ」
思わず口から零れ出る。このような飲み物は人魚族の集落には無い。
マリーナさんの表情も、とても優しい。
「あなた可愛いわね……お名前は?」
「ナディアです……ご覧の通り人魚族です……」
「そのようね」
マリーナさんは、優雅にマテ茶を口にする。
その姿は、とても婀娜っぽく、『海女族』であるママとは異質の女性のように見える。
「『精人魚族』がそんなに珍しいのかしら? そんなにガン見されたら、お姉さん恥ずかしくなっちゃう……」
「す、すみません!」
菫色の尾鰭をクネクネとうねらせて、マリーナさんは「冗談よ」と軽く笑う。
彼女のような大人の女性から見れば、ボクなんか本当に小娘だ。さっきから良いように遊ばれている。
「それで? 可愛らしいナディアちゃんは、こんなオバさんに何のご用だったのかしら?」
「オバさんだなんて……マリーナさん、とても綺麗で……」
「あら、ありがとう! お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃありません! ボクはこうして命を助けていただきました! やっぱり『精人魚族』って、特別な存在なんだって……」
うまく言葉にならない。
でも『海女族』や『海人族』とは異なる特別な人魚族は、話を聞くだけで別世界の存在のように思えたし、実際、ボクが溺れた海流をも切り裂く魔術を使う事は、パパやママでも無理だと思う。
そして思うのだ。『マーメイド』も修行や研鑚を積めば、いつか『精人魚族』になり、陸の上も歩けるようになるのだと……
「残念だけど、そんなに楽しいものではなくてよ」
マリーナさんは、そう言って困ったように笑っている。
どうしてそんな顔をするのだろう? ボクは訝った。何か気に障るような事を言ってしまっただろうか?
「ナディアちゃん……」
「はい!」
マリーナさんの柔らく透き通るような声が聞こえ、ボクは思わず姿勢を糺してしまう。
「あなた『精人魚族』になりたいのかしら?」
「はい! ボクは人間族にも興味があるんです。それに『精人魚族』は、変身して陸に上がる事も出来て、二本足で歩く事が出来るって……だから、ボクも将来マリーナさんみたいな立派な『精人魚族』になりたいんです!」
子供っぽい願望だと笑われたり「『精人魚族』を無礼るな」と怒られたりするかもしれない。
でも、それでも自分の気持ちは正直に伝えたい!
しかしマリーナさんは、嘲笑う事も怒る事もしなかった。「そう……」と一言答えたっきり、静かにマテ茶を口にし続けている。その沈黙の時間が怖くて、居たたまれなくなって、ボクは口を開こうとした。
「あなた……恋をした事はあるの?」
「えっ?」
突拍子もない言葉に、ボクは言葉を失ってしまう。
正直、男の子の事なんて考えた事が無かったから、どう応えていいのか判らない。
「集落には、素敵な『人魚族君』も居るでしょ? 気になる男の子とか居ないの?」
「いえ、居ませんけど……」
「そう……」
ボクの返事に頷きながらも、ガーネットの様な瞳を向けてマリーナさんは、静かに訊ねてくる。
「じゃあ、あなたのお母さんは幸せそうかしら?」
「はい。ちょっとと言うか、かなり雑な性格のパパと仲良く……」
「……笑っていられるのね?」
「はい」
脳裏に食卓を囲む我が家の様子が浮かんでくる。
行動が基本的に大雑把だけど、非常に頼り甲斐のある大黒柱のパパと、おっとりしているのだけど、細かい所に気が付いてボク達家族の面倒を見てくれるママ。
ボクはそんな家族の愛情をいっぱいに受けて育っている。
すると、優しい笑顔を浮かべていたマリーナさんの表情が一気に引き締まっていく。
「ナディアちゃん……悪い事は言わないから『精人魚族』の事はお忘れなさい……」
「どうしてですか?」
訳が判らない。『精人魚族』になる事と、恋愛や愛情を感じる事と何の関係があるのかが全く理解できない。
そんなボクに近づいてきたマリーナさんは、そっとボクの頭に乗せ、山吹色の髪を手に取って優しく撫でながら静かに笑った。寂寞感のある穏やかな笑みをボクは忘れない。
「悲しみ、寂しさ、孤独……『精人魚族』は、そんな存在よ……誰かに想いを寄せたとしても決して叶う事は無い……そんな思いをして迄なるべき存在じゃない……」
「どうしてそう言えるのでしょうか?」
言葉の真意を測りかねて、ボクが訊ねると、彼女は再び自分の席に戻って腰を下ろして、傍らの肖像画に眼差しを移した。
「それは……きっと悲しい恋をすれば判るわよ……」
「その方は……?」
「そう……私が永遠の想いを誓った人……そして、もう二度と会う事が叶わぬ人……」
一人の男性の肖像画……それを見つめる彼女の眼差しはやはり寂しく儚かった。