恐ろしい人間族
ボクが知っている人間族に関しての話は全部パパとママが仲間達から耳にした話ばかりで、実際に見聞きした訳じゃない。
だからこそボクは、陸の上に住む人間族達の住む世界について、もっと深く知りたいと思っている。
この青く美しい海の中では理解できないことが、きっと沢山あるはず。
ごくたまにだけど、漂流している人間族の船を見かける。
でもそれはほとんどの場合、ボロボロで真っ黒に焼け焦げていたり、積み荷だった木箱や残骸の木切れ、そして死体がプカプカと浮かんで魚達の餌になっていたりしているから、人間族はみんな死んじゃって誰一人、生きてないんじゃないかなって思うけど本当のことは判らない。
ボクの胸の中には、人間族のことをもっと知りたいという気持ちが、日に日に大きくなっていく。
彼らは本当に怖い存在なの?
それとも、ただ私たちと違う世界に住んでいるだけなの?
彼らにも、イルカ達のような優しさや、仲間達が持っている思いやりの心はあるのかな?
ボクの疑問を解いてくれる者はいない。
パパだってあまり頼りにならない。此処では人界に行ったことのある人魚なんていないし、真実を知っている者なんていないもの。
ボクが唯一人間族の情報を仕入れることが出来るのは、大きな貝殻に刻まれている碑文だけだし。
でも、いつか必ず……
ボクは人間たちの本当の姿を知りたい。
この広い海の向こうにある、彼らの世界を理解したい。
そう強く思いながら、ボクはヒルダと別れて静かに泳ぎ続けた。一頻り泳いで海面から顔を出し、まだ見ぬ大きな陸のことを思った。
夕暮れの海に、ボクの山吹色の長い髪が金色に輝きながら揺れていた。
◆◆◆◆
家へ帰ると、ママが料理を食卓に並べていた。
穏やかなに流れに揺られる海藻のカーテンの向こうから、夕暮れの海の光が降り注ぎ、綺麗な模様を描いている。
ボク達は基本的に火を使わない。
海藻のサラダや群れで泳ぐお魚を何匹か捕まえて食べる。
もちろんそのまま丸飲みはしないから、切り分けられて皿に盛られている。
海底で採れる鮮やかな色の貝殻でできた食器には、深海の真珠のような光沢があった。魚の切り身は薄紅色に輝き、海藻は深い緑色で食欲をそそる。
そんな食卓を囲みながら、ボクはさっき考えていたことをママに聞いてみることにした。
今日、友達のヒルダと遊んでいた時に、海面近くまで泳いでいって、遠くに見えた陸地のことを話していたのだ。
「ねぇ、ママ。人間族のいる世界へ行ったことのある人魚は本当にいないの?」
ボクの質問に、ママは少し驚いたような表情を見せた。海底の家の中で、水の流れが少し乱れるのを感じる。
「そう言う事は私よりも、パパの方が詳しいわね? あなたは何かご存知?」
ママは首を傾げながらパパを見る。
「まぁ、いるにはいるんだが……」
パパも少し考えてから言った。長い青みがかった髪が、ゆっくりと水中で揺れている。
「だがな、ナディア……あいつは奇人変人の類だから、近づいちゃダメだ」
「どうして?」
ボクは口の中に海草サラダを頬張りながら身を乗り出す。海底で育った海藻特有の歯ごたえと塩味が広がる。
「此処に来る迄は冒険者をしていたらしい……陸の上を歩いていたと聞いている」
パパの言葉に、ボクは思わず尾鰭を大きく動かしてしまった。
それによって起きた水の流れが、テーブルの上の小さな貝殻の装飾を揺らす。
「えっ? そのヒトって、人魚族じゃないの?」
「ああ、人魚族だったさ……ただアイツは、『海女族』じゃない」
『海人族』であるパパは、思い出すようにその太い腕を組んで応える。パパの深い藍色の尾鰭が、何度も小さく揺れている。
ボク達人魚族の寿命は長く4百年ほど生きる事が出来て、百歳程で大人になる。それまでは、男の子も女の子も全部纏めて人魚族で、大人になった後は、男性は『海人族』、女性は『海女族』になる。成人の儀式では、古代から伝わる真珠の首飾りを身につけ、深海の神殿で祝福を受けるのだ。
ボクやヒルダは50歳で、まだ成人の儀式を受けていない人魚族だけど、ママは『海女族』でパパは『海人族』だ。ママの美しい真珠の首飾りは、儀式の時に受け取ったものだという。
――海女族じゃない……? どういう事?
想像の斜め上の答え方をするパパに、ボクは訳が判らなくなった。
「えっと、それって何なの?」
訳が判らなくなり、ボクはパパに訊いてみた。食卓の上の海藻がユラユラと踊っている。
「うん、まぁ……その……何だ……」
こんなに歯切れの悪いパパを見るのは生まれて初めてかもしれない。いつもは威厳があって、どっしりとした存在のパパが、今は珍しく言葉を濁している。
言い出しにくいと言うよりは、ボクには伝えたくないと言う気持ちが、さっきからとっても滲み出ているし。パパの表情には、何か重い秘密を抱えているような影が見える。
「話をするのは構わない……でも親として娘が危ないことを始めてしまうんじゃないかって心配してしまうんだ」
「じゃあ、約束する! 危ない事はしないって!」
そう言って、パパに笑顔を見せると、パパは傍らに置いていた炭酸水をクイッと呷った。泡が水中でキラキラと光りながら上昇していく。人魚族はお酒を飲まない。
だってボク達は水の中で生きているんだし、穢れた水では生きていけなくなるから。
「判った……いずれ、ナディアにも話さなければいけない事だしな」
グラスをテーブルの上に戻してパパは口を開く。その瞬間、家の中の水流が一瞬止まったように感じた。
「アイツは『精人魚族』だ。我々人魚族の中で、唯一陸に上がる事が出来る存在だ。」
「えっ?……『精人魚族』?……何それ?」
初めて聞いた存在だった。
人魚族の仲間なんだろうけど、いったいどんなものなのだろう? ボクの尾鰭が興奮で小刻みに震える。
『海女族』とも『海人族』とも違う人魚……陸に上がる事が出来る存在。そして人間族を知る存在。その存在に対する好奇心が、まるで渦巻くような強さでボクの中に広がっていく。
パパの話からボクの好奇心は当然刺激されていく。でも同時に、パパの表情には深い懸念の色が浮かんでいた。長年の経験から来る警告なのだろう。
「だが人間族の世界は碌でもない……だから人間族には、絶対関わってはいけない……いいね」
パパの言葉に、ボクは頷いて木の実を齧った。
歯の下でカリカリと音を立てる木の実の味は、いつもの味なのに、今日は少し違って感じた。これから知ることになるかもしれない新しい世界への期待と不安が、その味を変えているのかもしれない。