航海
ボクは思う。
人間族は、マックスみたいに、きっとこうやって争うことに対して疑問を持っている人の方が多いのかもしれないと……
この海には、数多の物語が存在する。時に穏やかに、時に荒々しく、波は常に新たな命を運んでくる。
ボクの住む人魚族の村『シルワ・プリーシママーリス』……穏やかな海の森……は、何世紀にもわたり外部の世界と隔絶された場所だった。
異なる種族との接触は稀で、ほとんどの者が外の世界に興味を持たない。
だから、マックスとの出会いは、ボクにとって予想外の出来事だった。
ボクは人間族の事は良く知らないし、実際にマックスは戦火を逃れてボク達の村に流れ着いている。
マックスは穏やかに楽しく過ごして生きたいと言っていた。きっと彼の家族も同じ気持ちだった筈だ。余所の集落に攻め込んだ訳でもない。訪れた同胞は温かく迎える事だろう。
ボクの村の長老たちは、人間族の戦いについて語る時、いつも不信と警戒の色を隠さない。「彼らは自らの欲望のために、容赦なく殺戮を繰り返す種族」だと、ボク達若い人魚族に教え込む。
しかし、目の前のマックスは、その言葉とはかけ離れていた。
彼のこの海のように青い瞳には優しさと、深い悲しみが宿っている。
――なのに、どうして傷つけ合うのかな?
人魚族が人間族を怖れ忌避する理由はそこにある。
同じ人間族同士、傷つけ合い殺し合いをする。自分の為に他者を押し退け、奪い、排除しようとする。まるで凶暴な鮫のよう。
戦争の悲惨さは、海の底にまで響き渡る。
ボクは幼い頃から、戦いの恐ろしさを聞かされてきた。生命の尊さを軽んじる種族など、あってはならないと。しかし、マックスとの出会いは、そんな固定観念を揺るがし始めていた。
黙々と櫂を漕ぐマックスは、今何を思っているのだろう?
穏やかなに凪いだ海面を、小さなボートは進んでいく。ボクは船尾から船を推しながら、マックスの背中を見る。
パパと比べ圧倒的に小さな背。
――こんな身体で、大きなこの海を渡ってきたんだ……
そう思うと胸が痛む。
マックスの背中には、無数の物語が刻まれているように見えた。戦争、家族との別れ、故郷への想い。人間族という種族の複雑さと、同時に繊細さを感じずにはいられない。
その時、櫂を操るマックスの肩が震えているのに気が付いた。
疲れているのか、それとも不安なのか……?
ボクは、マックスの体力を心配していた。
彼の肩の震えや、櫂を漕ぐ手つきから、限界に近づいていることが判った。
しかし、彼は故郷への想いで必死に前に進もうとしている。
「マックス、少し休憩した方がいいよ」
ボクは声をかけた。
「大丈夫だよ。まだ行ける」
マックスは震える声で強がりを張った。
「それに……できるだけ早く家族のところへ着きたいんだ」
そう語る彼の目には、決意と疲労が入り混じっていた。一瞬、彼の瞳に走った心許なさが、ボクの胸を締め付ける。
気持ちは痛い程解かる……解るけど、ボクはそれ以上にマックスの身体の方が心配だ。
その時、水平線上にぼんやりと黒い影が見えてきた。ボクが船を推す速度を速めると、黒い影は小さな島となってボク達の視界に飛び込んできた。
「そこに小さな島がある。そこで少し休みましょう」
「でも……」
「さっきから漕ぎ方がおかしくなっているじゃない。ボクが推してるのに、マックスの櫂がブレーキになってるんだけど」
はっきり言ってやった。マックスのように強がる男の子は、人魚族の中にもいる。
だけど、気合で強がっても、身体は疲労している。こんな状態でいると、ずっと身体に無駄な力が入り過ぎて、さらに疲労が重なって、終いには動けなくなる。
お魚だってそう。
ボク達が食料して魚を捕まえる時は、群れをとにかく追い回して、素早い動きを強制させつつ狭い範囲に追い込む。これを繰り返していくと、魚もだんだん疲れてきて動きが遅くなるから、それを捕まえる。
それに、疲れるのは人魚族だって同じだ。ただ、今はボクよりマックスの方が心配だった。
「良いから、休憩するよ。ボクも、無理して疲れちゃったから」
「う、うん! 気づかなくてごめん!」
マックスは申し訳なさそうに頷いたが、ボクは彼の背中を見つめながら、人間族の複雑さを感じていた。
戦争、別離、そして家族への深い愛。彼の瞳に宿る悲しみと希望は、私の心を強く揺さぶった。
だから耳障りな事でもはっきりと伝えなければならない……そう思った。
「マックスがここでまた倒れたら、ボクはいったい何しに此処まで来たのか分からなくなるじゃない」
ボクは、彼が無理をして力尽きることを恐れていた。
戦争から逃れてきた彼が、今度は海の途中で倒れてしまったら、それこそ本当の悲劇になってしまう。
小島に近づくにつれ、マックスの漕ぎが弱々しくなっていく。彼の限界が近いことを、ボクは肌で感じて
「きっとマックスの信じている神様も、ちゃんと見守っていてくれていると思うから……」
船を推しながら、ボクはオールを動かすマックスの背中に慰めにもならない言葉を掛けた。
こんな小さな言葉では、マックスの世界は絶対に救われないって判っているけど、でも何も言えない自分でいたくなかった。
「ありがとう、ナディア。ナディアは本当にいい人だね」
マックスの弱々しい笑顔がとても哀しかった。
ボクは、マックスの心の奥底にある脆さと強さを感じていた。彼は弱さを見せまいと必死だが、同時にその必死さこそが、彼の本当の強さなのだと理解していた。
でも、その瞳に浮かぶ不安は隠しきれていない。
波が穏やかに船底を叩く音が響く。
マックスは必死に櫂を漕ぎ続けているが、その動きは次第に鈍くなっていく。ボクは彼の背中越しに、少しずつ近づいてくる小島を見つめていた。
人は誰でも、一人では生きていけない。パパはよくそう言っていた。人魚族の村でも、みんなが支え合って生きている。だから、今このようにマックスと出会えたのも、きっと偶然ではないのかもしれない。
「マックス、故郷に着いたら、何をしたいの?」
「うん……父さんの仕事を手伝って……家族と一緒に、また頑張るつもりだよ」
「ボクも、もしよかったら……その時は会いに行っても……?」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。村の掟を破るようなことを、どうして?
「来てくれるの? 本当に!?」
振り返ったマックスの顔が、少し明るくなったような気がした。その表情を見て、ボクは自分の言葉を後悔しなかった。たとえ村の掟に背くことになっても、この出会いを大切にしたいと強く思った。
でも、まだ先は長い。




