旅立ち
「あなたったら、小さい頃から何か決めたら絶対に諦めなかったわね」
ママの声が柔らかくなる。
「確かに危険な旅になるでしょう。でも、娘が正しいと信じることなら……」
「……だが、心配なんだ……俺は……」
「パパ……」
ボクはゆっくりとパパに近づいた。
パパの固い表情の奥に隠された不安。ママの柔らかな言葉の中にある、娘への愛おしさ。家族を想う気持ちは、種族を超えて普遍的なものなのだと、この瞬間、ボクは強く感じていた。
「困っている者を見捨てず、助けを求める声に耳を傾けなさいって言ったのはパパだよ」
パパの表情が揺らぐ。
ボクの心の中で、様々な感情が激しく揺れ動いていた。人魚族の伝統、家族への愛情、そして見知らぬ人間族の少年マックスへの共感。幼い頃からパパとママに教えられてきた「助けを求める者を見捨てない」という教えが、今まさに試されている。
「マックスの故郷は大変なんだよ! 兵隊がいっぱいで、空では飛行竜が炎を吐いて、街を焼き尽くしているんだって!」
ボクは必死で説明を続けた。
マックスと過ごしたこの数日のこと。彼の優しさ。そして、彼が生きてきた世界の残酷さのこと。
「ボクは、マックスを家族のもとへ送り届けたい! それだけなの!」
「でも、人間族は……」
ママが言いかける。確かに人間族と人魚族が関わることは禁じられている。でも。
マックスの目に映る悲しみと決意は、ボクの心に深く突き刺さっていた。
戦争に荒廃した故郷、引き裂かれた家族。ボクの穏やかな海の世界とは、あまりにもかけ離れた現実。それでも彼は希望を失っていない。その強さに、ボクは心を揺さぶられていた。
「それでも、見捨てられない!」
ボクの声が、再び朝靄の海に響く。
「マックスには、帰るべき場所があるの。でも今、その場所は戦火に包まれている。空が真っ赤に燃えて、飛行竜が炎を吐いて、みんなが争い合う世界なの。それでも、マックスは家族のもとへ帰らなければならないの」
涙が零れる。でも、ボクは話し続けた。
長い沈黙。波の音だけが、その場の緊張を洗い流すように響いていた。
マックスが静かに口を開いた。その声は震えていたけれど、真っ直ぐだった。
「僕は……家族を守りたいんです。どんなに危険でも、一緒にいたいんです。確かにもう会えないかもしれない。でも……それでもっ……」
その言葉が途切れた時、ママが小さな溜息を吐いた。
でもその後、耳にした声は、とても優しかった。
「本当に、親子そっくりね……」
「えっ……?」
ボクが戸惑う声を上げる。
「そう、あなたもパパも、一度決めたら、絶対に諦めない。たとえそれが、とても危険なことでも……」
ママは苦笑いを浮かべた。
パパは黙ったまま、マックスをじっと見つめていた。
「私達も、信じてみましょう。家族を想う気持ちは、私達にも分かるもの」
パパとママは、ゆっくりと近づいてきた。マックスは涙ぐんだ面持ちで、彼らを見つめている。
「坊や、家族のもとへ帰るのね」
ママがそっとマックスに語りかける。
「私達にも娘がいる。だから分かるの……」
マックスは小さく頷いた。その瞳には、感謝の涙が光っている。
「ありがとうございます……本当に……ありがとうございます」
「確かに……危険な旅になる」
パパの声は、まだ少し固かった。
「でも、家族を想う気持ちは、私達にも分かる……人間族は嫌いだが、気持ちは同じなのだろう」
「パパ……」
人間族との接触は禁じられている。
これは何世代にもわたって守られてきた掟。でも、目の前の少年の苦難を前にして、その掟は今、ボクの心の中で大きく揺らいでいる。正義とは何か。助けとは何か。小さな勇気が、大きな変化を生み出すのかもしれない。
ボクの目に、涙が溢れた。
「だけど!」
パパは厳しい表情で付け加えた。
「絶対に、無事で戻ってくるんだ。それが約束だ」
「うん! 約束する!」
ボクは力強く頷いた。ママは近づいてきて、そっとボクを抱きしめた。
「気をつけて。必ず、家族のもとへ……」
ボクはマックスの船を押しながら泳ぎだした。
朝靄の立ち込める海面を、静かに進んでいく。波の音だけが、ボク達の冒険の始まりを見守っているようだった。岸辺では、パパとママ、そしてヒルダが見送ってくれている。
「こうやって船で海を渡っていて思ったんだけど、空って本当はこんなに青くて綺麗だったんだ……」
突然、マックスが呟いた。
「みんなにも、この青い空を見せてあげたいな……」
マックスの声には、希望と決意が混ざっていた。
「なぁに? こんなに綺麗なのに、何で今まで気づかなかったの?」
思わず聞き返してしまう。
空が青いのを知らないなんて、いったい何の寝言なのだろう?
非常識にも程があるように思えた。でも、マックスの表情は真剣そのものだった。
「うん、見上げる空はいつも真っ赤と黒だったから……」
マックスの声が震えている。
思わず言葉を失ってしまう。恐ろしい光景が頭の中に浮かび上がる。平和な海の中で暮らしてきたボクには、想像もつかない世界だった。
バカなのはボクじゃない……何て酷いことを言っちゃったんだろう?
自分の無知さに対する後悔が胸を刺す。
「ごめん、マックス……」
「良いんだよ、ナディア。君達の世界は、戦争なんかないんでしょう?」
優しい声で、マックスが問いかける。
ボクは小さく頷く。確かに、人魚族の世界には戦争など存在しない。時々の諍いはあっても、すぐに解決する。
「羨ましいな。僕も家族とそんな世界で暮らしたいよ。みんな等しく『聖なるアニマ神』を信じているのに、どうして人間族は争わなくちゃいけないんだろう……でも、今は母さんと妹を助け出すことが先なんだ」
マックスがこぼした言葉がボクの胸へと突き刺さる。その言葉には、家族への強い思いと、平和な世界への切なる願いが込められていた。
ボクには『聖なるアニマ神』なる人間族の信じる神様の事は判らない。
人間族同士が争う意味とか理由とかそう言ったことも全て……でも、マックスの家族への愛情と、平和を願う気持ちだけは、確かに感じることができた。
マックスの言う『聖なるアニマ神』への信仰……それってボクには理解できない世界だ。
それでも、彼の家族への愛情だけは、はっきりと感じ取ることができた。住んでいる世界は違っても、愛する者を想う気持ちは同じなのかもしれない。
海は静かに、ボク達の船を揺らしている。新たな冒険への第一歩。不安と期待が入り混じる、この瞬間。ボクの心は、未知への旅路に向けて、小さな鼓動を刻んでいた。
朝日が昇り始め、海面が金色に輝き始めていた。新しい一日の始まりと共に、ボク達の冒険も、ようやく本当の意味で始まろうとしていた。




