現実はときどき理想に恋をする
「家族が欲しい」じゃなくて「あなたが欲しい」って言って欲しかった。
誰でもいいから家族を作る。家族になったら大事にする、っていう寛さんの価値観は何となくすごい気はするけど、時々つらくなった。
寛さんが勤めている日本製鋼の研究所に、家族枠で見学に行ったことがある。
社員の家族に職場を見せて、会社で取り組む事業の理解を促進したり啓蒙したりする。そんな企画みたいだった。
研究所はめちゃくちゃ綺麗だった。部屋も廊下もどこもかしこも隅から隅まで掃除されていて、トイレもピカピカ、埃一つ落ちていない。1日に何回、清掃を入れているのだろう? こんな綺麗な職場があるのか……?
製鉄所の労働環境は過酷だと聞くけれど、鉄を研究する研究所の環境はとても清潔で空調も完璧で、会社ではこんなに良い暮らしをしているのかと文句を言いたくなった。家ではエアコン節約してるのに。
研究業績の表彰が並べられる玄関ホールを通った時、結婚ってすごいなと思った。
独身の時は大手の一流企業の正門に入るなんて絶対にできなかった。
就職というかたちでは絶対に関わることのなかった企業に、社員と結婚したら正門を堂々と通って中に入れる。
何だかすごく不思議だった。
製鉄所が一つ閉鎖されると聞いた時、リストラがあるのだろうと思った。
そうではないと聞いた時は心底驚いた。
そんなことがあるのか……そんなことができるのか?
転勤や出向など、働き口は会社が探して用意するんだと言う。
大企業ってなんなんだ。なんだそのミラクルは。そんなことを当たり前のようにやるのか……?
コロナ禍の不景気をうけて日本製鋼のトップが記者会見を開き、“国の協力が必要です”なんて発言をしたこともある。
そんな発言を聞けば普通、お金がないんだと思う。誰だってそう思うはずだ。
それは違うんだと寛さんは言った。国に協力して欲しいのは鉄の作り方で、水素なんだ。SDGsの目標を達成するには水素で鉄を作らなきゃいけない。そこに国の協力が必要になるんだよ、と。
水素の協力でも結局はお金になるかもしれないけど、資金繰りみたいな、当面のお金に困っている話じゃないんだと思った。
製鉄所が一つ閉鎖しても、日本製鋼はお金に困っていなかった。
その“会社が強い感じ”がひしひしと伝わってきて、夫に何か聞いては、そのたびに驚いていた。
「鉄って、なんでそんなに売れるんですかね?」
寛さんに訊いてみたことがある。私達は夫婦のくせに、なぜかよく敬語で喋る。
「鉄はね、一定の需要があるんですよ常に。今だったら倉庫? アマゾンの倉庫とか、よく建設されるでしょ。自動車も一定のサイクルで必ず売れるしね」
「自動車ってさ、やっぱり物を運ぶのが大事なんだよね??」
「うん。物流だよ」
そういえばタカオカさんは自動車に懐疑的だった、と思い出す。
“自動車ってそんなに必要かな”
“物理的に移動することって重要と思えないんだよな”
タカオカさんはよく“人が大事”と言う。
人の心が満たされることが大事。
それぞれの人が、生き生きと面白い人生を送ることが大事。
タカオカさんと喋っていると、柔らかな安らぎと落ち着きに包まれていくみたいだった。
物を運ぶのは大事だと言う寛さんはいつも現実を見ていて、私のふわふわしたスキルはあまり認めてくれない。
寂しかったんだと思う。