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理緒が生まれて

(今でも私はひろしさんと夫婦なんだ)


 出生届しゅっせいとどけを書きながら、ふと思った。

 理緒りおはタカオカさんの血をひいているけれど、戸籍では寛さんとの子どもになる。

 何だか頭がくらくらする。


 寛さんは今でも月に一度、生活費を振り込んでくれている。いつまでも当てにはできないと自分に言い聞かせつつも、やっぱりありがたかった。結婚を続けていることを、毎月知らされているような気がした。




 生まれて間もない理緒に授乳して、吐き戻したら着替えさせて、おむつを替えて、時々ミルクをあげる生活。たまにスマホで写真や動画を撮っておく。

 2時間置きくらいにお世話をして、合間に自分が寝たり適当に食べたり、洗濯乾燥機と食洗機をかけてネット通販で買い物する。

 まとめて寝られない暮らしを続けているうちに、頭がボーッとしてくる。

 世話に追われてだんだんイライラしてくる。哺乳瓶の消毒が面倒に感じる。一人でやるのは結構しんどい。分かってはいたけれど。




 何となく、母に電話をかけた。心細くなっていたのかもしれない。

 母と話すと喧嘩けんかになるかもしれない。でも今となっては、一番気楽に話せる人のような気がした。今の生活にはあまり関係していない、でもよく知り合っている母。


 母はすぐ電話に出てくれた。とりとめもなく今の状況を話す。誰かに話すのは初めてだった。誰にも話してはいけないと思ってきた。



「…………そんなことになってたなんて……あんた、それ一人でできるの?」


 母が驚いて、悲しんでいるのが分かった。心配されている。

 少し泣きそうになった。でも何とかこらえて止めた。


 私はそんなに悲しくはないのだけど、初めて聞いたら悲しくなるだろう。私はこの状況にだんだん慣れたし、ゆっくり受け止めてきたんだと思った。



(ちょっと、里帰りしようかな)


 理緒が泣いて電話を切り、ミルクを作りながら思った。理緒がまだ一晩中寝ることができない、今の時期だけでも。少しだけ。


 時々、理緒が泣いていても無視したいほど、眠い時がある。やっぱり産後すぐの時期を一人で頑張るのは無理かもしれない。

 

 そして生後一ヶ月検診を何とか終えた。


 少し肌寒くなってきた10月のある日、横浜市のはずれの金沢八景かなざわはっけいの実家に、私と理緒の二人で里帰りした。

 思い返せば、結婚して家を出てから実家に一度も帰っていなかった。距離も離れていたし、帰りたい気持ちにならなかった。


 瑠璃を連れて帰省したことはないのに、理緒と2人で帰省しているのを不思議に感じた。

 でも考えてみれば、瑠璃は寛さんと一緒に育てたから実家に頼ろうとしなかっただけだ、と思い直した。


 伊丹いたみ空港から飛行機に乗り、羽田空港から京和けいわ線に乗り換えて金沢八景駅に降りた。

 連携れんけいが待望されていた京和線とシーサイドラインは、相変わらず遠く離れて連携しておらず、連携を反対していると噂される駅前のパン屋も相変わらず営業していた。

 渋谷しぶや駅前なんかはここ数年で随分ずいぶん様変さまがわりしたのに、こっちは変わらないなぁ。良くもならないけどすたれてもいかないんだなぁ、などと思った。




 実家のマンションで私を迎えた母は、素直に喜べないと言いたげな複雑な表情に見えた。

「おかえり」と言って、抱っこひもで寝ている理緒りおに目を向け、「かわいいねぇ、理緒ちゃんね?」と顔をほころばせた。



 汚かった実家は、以前に比べると綺麗になっていた。

 私が暮らしていた頃は片付けが進まなかったんだろう。成人しても自立せず、手のかかっていた私が結婚して家を出たから片付ける余裕ができたのかもしれない。


 母は白髪が増えていて、老けこんで見えた。父はそこまで老けていないと思った。



 ミルクの授乳とおむつ替えの世話を両親に時々代わってもらい、母が用意してくれた適当じゃない夕食を食べて、夜間のお世話を頼んでまとめて眠ると、頭と身体が軽くなった気がした。ずっとモヤのかかっていたような頭の中が、少しすっきりした。




 父は毎日、近くのイオンに散歩に行くらしい。昼食は外でいつも一人で食べると言う。


 外の空気を吸おう、と思った。理緒を連れて父の散歩に同行した。


 フードコートでランチを食べて、他愛もない話をした。父が最近YouTubeを見るのにハマっている話を聞いたり。私の事情は何も訊いてこなかった。

 おそらく母から大体は聞いていると思うけど。自分が訊いても喧嘩けんかになるだけと思っているのかもしれない。


 食べ終わってランチを片付けて、理緒にミルクを作って飲ませた。

 ふと思い立ったように、父が「2階にラッセンの絵があるから、見に行きませんかね」と提案してきた。


 イルカ達がいきいきと海の中で泳いでいる、よく知られたラッセンの絵画。その複製画が、イオンの2階で販売されていた。



「ラッセン、好きなんよ。あざやかで、いいやん?」


 理緒も泣いていないので、ラッセンの絵を父と見てまわった。


 絵。絵画。……記憶のどこかに引っかかる。タカオカさんが何か、言ってたっけかな?


「ラッセンの絵、複製やからけど、安いんよねえ」


 …………安い。値段……価格?





“絵画は、言い値で高く売れるんです。この価格で欲しいと言う人がいれば売れます。絵画がその人のために何かするわけでもないのに”


“おそらく、この絵画は自分の家にあるべき、なくてはいけないしあるのが自然だと思って、高額であってもお金持ちは買うんだと思うんですよ”





 そうだ。タカオカさんはこう言っていた。オンラインサロンにいた頃だった。何となく違和感が残って、納得がいかなかった言葉。


「ねぇあのさぁ、絵ってどうして高いんだろうね?」


「ん?」


「いやさぁ、こういう複製のは高くないけど、絵画って結構高いものじゃない? 有名な絵っていうのは高いじゃん? あれって何なのかな」


「あぁ……」


「絵にさぁ、なんでそんな大金たいきんを払うんだろ? 音楽とか文学とか、他にもアートはあるのにさ、どうして絵だけはすごく高い値段で、売れることがあるんだろう?」


「そやねぇ……」


 父は少し言いよどんで、考えた。


「……海外の金持ちが、自分のカネを守りたいんやろ」


「え?」


「金持ちは国に取られたくないんよ、自分の資産を。日本と違って、いつ何があるか分からんやろ?」


「……そうだよね」


「現物資産やろ……絵画だったら土地とも違って持ち運べるし、価値も安定しとるんやろ。海外の金持ちは、いつでも国を出られる準備をしとるもんやからなぁ……」


「そうかぁ……」


 父の言った、富裕層が資産をのがす話は、納得がいくような気がした。でも…………

 

「……でもさぁ。海外のお金持ちは、面白いアートに着想とか、新鮮な刺激とか、求めてるんじゃないの? パーティで見てみんなで語るとか」


「そりゃまぁ、それもあるんやない?」


「……だよね」



 絵画ならではの価値も、きっとあるんだと思う。

 でも、言い値で高く売れるのはきっと「欲しいから」っていう理由だけじゃないんだろう。


 オンラインサロンでタカオカさんが何気なくしゃべった、アートが高く売れる話はずっと脳裏に引っかかっていた。

 その頃タカオカさんに強く感じていた、謎めくような不可思議ふかしぎな魅力は少しずつ失せていく。


 それでも当時に感じていた甘酸っぱいときめきは、その時のままに思い出すことができた。そして今、理緒を抱いている。



 理緒を父に抱っこしてもらい、スマホの写真フォルダをぼうっと眺めた。瑠璃るりの写真をざぁっとスクロールして飛ばす。

 タカオカさんを知った頃、気になるツイートをスクショして残していたのが目に留まった。

 今になって当時のツイートを読み返したくなる。



“あいまいな繋がり

でも、確かにあるやりとり

笑顔

宙に消えてしまうかもしれない。

でもなぜか、光のようで

新しい自分につなげてくれる

そんな存在”



 きっとこれは私のことだったと思う。深夜にタカオカさんがツイートして、ドキドキしながらスクショしたのを思い出していた。

 知り合って間もない頃で、私も全く同じ気持ちだった。


 好きでがれるような気持ちは今でもやっぱり、心の中にくすぶり続けている。


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