悪阻
家路につきながらモヤモヤと考えていた。
(タカオカさんは、私が産んでもやぶさかではない、って感じだなぁ……
堕ろしたら、みたいなことは言わないんだ。
でも、結婚しようか? とは絶対に言わない。
私が離婚してないから?
……それだけじゃない気もするけど)
もう堕ろすことは考えていなかった。産むほうに気持ちが自然と傾いた。
瑠璃は、寛さんと義両親が育ててくれる。大丈夫だ。私なんかが育てるより余程、瑠璃のためになる。
お腹にできた子どもは、こっちで産もう。タカオカさんと一緒になろうがなるまいが。
流石に寛さんと育てるのは無理だ。千葉の富津で産むのは考えにくい。
もともと、寛さんが先に富津に転居して、瑠璃と私は芦屋に一ヶ月残る計画になっている。
時間はまだある。何とかなる。
ここまで考えて家に着いたら、少し落ち着いた。
ご飯を炊いて鶏鍋の支度を簡単にして、家を少しだけ片付ける。あまり時間はない。
延長保育で預かってもらっている幼稚園に、瑠璃を迎えに行かなきゃ。
身支度を整えて家を出ようとした時、一気に吐き気が込み上げてきた。
***
振り返ってみれば「こう言えば良かったのに」と、どうしても悔いて仕方ない言葉がある。
「なんでそんなことを言うの?」
こう訊きたかった。ストレートに素直に、直球で訊けばよかった。
どうして訊けなかったんだろう。どうしていつも、一番気持ちを知りたい人に、何を考えているか分からない人に「どうして」と訊けないんだろう。
いつも私はそれができなかった。
「なんで?」と訊かれてばかりだった。どうしてそう思うの、どうしたいの。質問されて答えるばかりだった。
質問に質問で返せるような、物怖じしない人になりたかった。
でもそれができない気弱な私だから、色々な人に出会えて、関われたのかもしれない。
タカオカさんに出会えたから今こうやって小説が書けているし、ずっと苦しんでいた無力感も、馴染むように消えた。
***
私はそのままトイレに駆け込み、今日食べたものを全て吐き戻してしまった。
悪阻だ。今回も早い。もう来てしまった。
気持ち悪い…………
フラフラになって瑠璃のお迎えに遅刻してしまい、延長預かり保育の先生には頭を下げて謝った。
瑠璃の時も悪阻はしんどかったな……
まともに食べられない。ご飯のにおいが気持ち悪くて受け付けない。無理して食べるともどしてしまう。この感覚は同じだ。
瑠璃にひととおり食べさせて、リビングの床の絨毯に身体を横たえた。
「ママ、汗かいちゃってるね」
瑠璃がウェットティッシュを出して、私の足の裏を拭き始めた。
「……ありがとう」
しっとり柔らかいウェットティッシュでマッサージするように拭かれて、冷たくて気持ちよかった。
そういえば、瑠璃は外で遊んだ後に足の裏の汚れを気にすることが多くて、時々拭いてあげていた。
瑠璃が小さかった頃は寝かしつけるために足の裏をマッサージした。断続的に泣いて落ち着かない瑠璃の足の裏を揉んだら、気持ちよさそうに、すやすやと眠りについていた。
思い出した。
瑠璃とはたくさんの思い出がある。
涙が頬を伝って流れた。
もう暫くしたら、寛さんが帰ってくる。
怖い。正直、隠せるとは思えない。
夫婦の関係は無くなっていない。
寛さんに求められたら応じている。それはずっと変わらない。でも、避妊はずっと続けている。
覚悟を決めて、子どもができたと言い張って演技すれば、誤魔化せないことは無いかもしれない。避妊が失敗するのはあり得ることだから。
でも一世一代の演技を打つ、腹を括るのは怖い。
子どもは産んで終わりじゃない。子育ては産んでからが始まりだ。いつ終わるとも分からない、長い長い子育てが延々と続く。
だから始まりに嘘があるのは無理だ。そう思った。
嘘がなく産んだ瑠璃ですら、こんなに大変なのに。
育てるのはしんどいけれど、嘘がないから救いもある気もする。楽しいこともある。嘘がないから感じ取れる気がする。
それなのに私は瑠璃から離れようとしている。
寛さんとの間に子どもができたなんて作り話は難しい。怖い。どうしても覚悟が持てない。
……ガチャリ。
ドアの鍵を開けて、寛さんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり……」
(元気がないのに気づいてくれるかな?)と淡い期待をしてしまったけれど、それはなさそうだ。
「ちょっと気持ち悪いから、1人で食べてもらえる?」
「気持ち悪い? どうかした?」
私の顔を見た寛さんの表情は、疑っているようには見えなかった。
寛さんにご飯をよそいながら吐き気がこみあげてきて、トイレに駆け込んでしまう。鈍感な寛さんも、さすがに訝しんだ。
「どうしたの?」
観念した。言うしかない。
「子ども……できたかも」
「子ども?」
何と言えばいいのか全く分からなかった。これ以上の言葉が出てこない。
「……みなみは、子どもはもう欲しくないって言ってたよね」
「……うん」
「子どもができて、嬉しい?」
「……」
「みなみが嬉しいんなら、産んだらいいと思うよ」
「…………」
また気持ち悪くなり、トイレに駆け込んでもどしてしまった。もう胃液しか残っていない。
寛さんは瑠璃のお風呂と寝かしつけを引き受けてくれて、私を一人で寝かせてくれた。
寝られない。ボーッとしてくる頭で考えた。
寛さんは私の裏切りに気づいたのだろうか。はっきりとは分からなかった。
思ったより夫は落ち着いていて、状況をそのまま受け止めてくれた。
別に焦って伝える必要はないか。バレてるかもしれないけど、まぁいっか……
取り敢えずの方針を決めて安堵すると、そのまま眠りに引き摺り込まれた。




