葛藤
タカオカさんと会う前に、産婦人科に行った。
瑠璃を産んだ時の病院を受診した。大きな総合病院じゃなくて、産婦人科だけの個人病院。
結婚してから住んでいる芦屋の近辺には、個人病院の産婦人科が多い。
隣の市、西宮にあるお城みたいな外観の産婦人科は、出産時の痛みを和らげる「和痛分娩」を実施していて、診療方針に母親に寄り添う目線を感じたので選んだ。
産科医の数も多くて麻酔科医もいる、個人病院ではあるけれど中規模で、近隣の総合病院との連携もあって、安心感があった。
当時、里帰り出産は全く考えなかった。親元で産むのは精神的に落ち着かないと思った。それで良かったと今でも思う。
夫の転勤先、千葉県の南部にある富津市の産婦人科もググって調べてみたが、どうも産婦人科は市内に無さそうで、近隣の病院にも魅力を感じない。医療の充実には大きな差があると予感した。
西宮の産婦人科をこっそり受診して、お腹をエコーで診てもらった。
「ご懐妊ですね……おめでとうございます」
瑠璃がまだお腹の中にいた時、何度もエコーで診てもらった、院長先生が穏やかに祝ってくれた。
先生はエコー画面を指して説明を続けている。
「このピコピコ動いているのが心臓ですよ。覚えてらっしゃいますかね」
ピコピコ動いているのが、赤ちゃんの心臓。
頭の中で繰り返した。
知っている。覚えている。
あの時はただただ、自分が誇らしかった。
今回は誇らしいというより、嬉しかった。
子どもがお腹にできるというのは、不安だけれど嬉しい。
一度産んで知っているだけに、不安は正直強い。きっと知らない方が怖くなかったと思う。知っているから、怖さが纏わりついてくる。
でもやっぱり嬉しかった。
病院から帰るバスの中で、ボーッと考えこんでしまった。
伸子伯母さんの声が聞こえてきたような気がした。
「後悔がないように生きないとあかんね」
伸子さんにタカオカさんの話を聞いてもらった、あの時が頭に浮かんできた。
好きになった人の子どもを産むことができなかった伸子さんは、どんな思いで私の話を聞いていたのだろうか。どんな思いで応援してくれたのだろう……
孕った子どもを堕した時、伸子さんはどれほどつらかっただろうか……?
子どもを欲しいか、産みたいかと考え始めると、決めることができない。
タカオカさんはそれほど喜んではくれないだろう。それならいったい、誰のために産むのか。
お腹の中にいる子どものために産むんじゃないのか?
そうすれば誰かの思いを引き継げるんじゃないだろうか? 瑠璃のきょうだいにしてあげるのは、無理かもしれないけど……
(そうだ、タカオカさんに会う予定だ)
私は自宅の最寄りになる芦屋川で降りず、そのまま三宮駅前までバスに乗った。
タカオカさんとは三宮のホテルでよく会っていた。
神戸三宮の街はごちゃごちゃしていて、子どもの頃によく遊んだ横浜や横須賀を思い出す。こんな街だった。安いカラオケBOXが大好きだった。
今住んでいる芦屋はお洒落だけど、少し気取って高飛車な街に思える。お洒落なパン屋さんが多く、建物はグレイッシュで統一感があり、大ぶりな街路樹も華があって、景観が美しい街。
私はそれより、こういう猥雑な街が好きだ。
コロナ禍も落ち着いてきて人出が戻ったように見える。知らない人が沢山歩いていて、ティッシュを配って声掛けに勤しむお兄さん達がいて、ホテルやスナックや風俗案内所が立ち並ぶ街。
こういう街が懐かしい。独身の頃に働いたコールセンターは新宿だったし、猥雑な街には郷愁を覚えてしまう。
お腹の子どものことはあまり考えたくないけど、今日はちゃんと話さないとな。
いい反応はあんまり期待できないけど、一応言わないとな……
「あの、私ね……子どもができたんです」
言えた。やっと言えた。
「……は?」
タカオカさんは少し顔を固くした。
タカオカさんの表情は二つに分かれる。一つは固めで、少し膜を張ったような人を寄せ付けない表情。もう一つは自信が宿った表情で、その時は何故か上背も高く見える。別人みたいに見えて、不思議なほど違う。
その時のタカオカさんは、固くて膜を張ったような、距離を感じる表情だった。
(喜んでくれないんだ)
一瞬、時が止まったような気がした。
タカオカさんがそういう人なのは、元から分かっていたんだから。
心を落ち着けて訊いてみる。
「どう思いますか?」
「産んだらいいんじゃない? ……産みたいんなら」
そうかぁ、そうなんだなぁ……
産みたければ産めば? ってことか…………
そうだよね、そういう人だもんね。
そういう、ゾッとするような冷たいところに惹かれたんだから。
でも、何にしたってこれは言っておかないと。
「それと、夫の転勤が決まったんです」
「え?」
タカオカさんの顔が曇った。
「転勤で引っ越しするんです。千葉県に」
「旦那さんについて行くの?」
「……まだ決めてないです」
「なんで?」
なんで? なんでって、どういうこと?
理由? 決められない理由って何だろう?
「うーん、子どもを産むんだったら多分、ついて行くのは無理だと思います」
「こっちで産みたいんだ?」
「……そうですね」
「旦那さんのところじゃ育てられない?」
「そ、そうですね……」
「親御さんのところは?」
「親は……ちょっと、できれば、嫌かな……」
「そう」
たたみかけるように訊かれて、しどろもどろになって答えた。
訊き終えたタカオカさんは水を飲んで、視線を落とした。
考えごとをしているんだろう。
なんでだろう。不安が少し、軽くなった気がする。
何も状況は変わっていないのに、タカオカさんに話したら安心してしまった。
何だか今さら、現実逃避みたいだけど。
私は、産みたいんだろうか?
産まないとしたら、どうしてだろう?




