逃げたかった
のめり込む対象を必要としていたんだと思う。
私はどうしようもなく惚れっぽいけど、それは恋をすることでドーピングみたいに疲れた脳を奮い立たせたいからなんだと思う。
自分ではちゃんと分かってるつもりだ。分かっていてもやっぱり繰り返すんだけど。
子育てはあまり好きになれなかった。
産んですぐ娘の瑠璃を見た時も、あまり心が動かなかった。
私は母性がないんだと思った。
子育ては子どもに恋するような気持ちがないと、結構しんどいと思う。笑顔を見ると全部どうでもよくなるみたいな。
そういう気持ちになれたことはない。
今でも、やっぱりない。
逃げたかったんだと思う。
逃げたかったのは私だけじゃなくて、夫の寛さんも同じみたいだった。
私と夫はどちらも、子どもにのめりこめないことが一致してしまった。
私があなたに夢中になったのは、現実逃避でもあったと思う。
あなたが私のブログの記事に感想を書いてくれて、一瞬で心を奪われたのは瑠璃が3歳の頃。
子どもの「イヤイヤ期」としてよく知られているのは2歳。「魔の2歳」とも言われている。
でも2歳で終わらないこともある。続きがある。そういう子育てもある。
魔の2歳の次は、悪魔の3歳。
この2年間は親としてかなりきつい。子どもに恋をしている人なら、かわいい時期なのかもしれない。冷静な親としては(そんな人はごく少数だろうけど)苦しい日々が続き、出口の見えないトンネルに迷い込んだようだった。
瑠璃は言葉の覚えが遅くて、けれど自己主張は強くて、言い出したら決してひかない意地の強さがあった。声のボリュームは大きいし、格闘技のように体当たりしてきて手加減しない。顔や目を狙われたり髪を引っ張られることもあった。
悪魔の3歳は親をわざと困らせる。困らせるのに成功するとニヤッと笑う。人は生まれながらにして悪意を備えていると思った。これから社会の荒波に揉まれて、悪意を飼い慣らしていくんだと。
Twitterは子育てに疲れた私を優しく迎え入れてくれる、天国のような場所だった。
思ったことをつぶやけば「いいね」を押してもらえる。時々フォローもしてもらえる。なんて素敵なところだろうと思った。
みんなすごく優しい。我が子みたいに暴力を振るってきたりしない。
優しくしてくれる居場所が欲しかったんだと思う。
寛さんの愛には意思があると思った。
結婚を継続する強い意志がある。そんな気がした。
私と一緒にいること、出かけること、旅行することを望んで、生活の質を上げるためにお金や時間に手間ひまをかけて、瑠璃の寝かしつけも担当してくれた。
「素晴らしい夫」だった。寛さんはいつも素晴らしい夫であろうとしていたし、実際にそうだったんだと思う。
その一方で、時々感情を爆発させて翌日にはコロッと忘れている。そういう素晴らしくないところもあった。
別に酔っているわけでもないのに、酔っぱらって荒れるみたいに深夜に怒鳴り散らすことがあった。
瑠璃が夜遅くに寝ない時や、私が夜更かしをしている時に怒鳴ることが多かった。
「どいつもこいつも勝手にしやがって、もういいよ……俺も好きにするよ!」
捨て台詞を聞きながら、私は心を無にするように何も感じないようにしていた。
周りから見れば素晴らしい夫だろうし、実際に素晴らしい夫なのだと思う。
日本屈指の鉄鋼メーカー、日本製鋼株式会社に勤務して年に1000万稼ぎ、家事と子育てを分担する。出かける私を車で送り迎えしてくれて、休日に瑠璃の面倒を見て私に昼寝させてくれる。
周りから見れば完璧で、優しい夫だったと思う。
それでも夜中に怒鳴り散らされるのは堪えた。時々頭に血がのぼってしまうストレートな激情家ならまだしも、冷酷な態度で弱みを突くところもあって、結婚生活が長くなるにつれて気を遣うようになっていた。
弱みを握られないようにした方がいいのではないか。何となく油断ならないと思ってしまう。気にしすぎかもしれないと思いつつも、警戒するクセがついてしまっていた。
ある日言い争いになり、「出て行くから」と口走ってしまったことがあった。
「ふうん。どこに行くの?」と寛さんは言った。冷たく見下すような表情だった。
どこにも行くあてはなかった。
「とりあえず漫画喫茶に行って、ウィークリーマンション探したりとかするよ」
顔色ひとつ変えずに聞いている寛さんに話す言葉は、散らかったリビングに虚しく響いた。言葉が上滑りしていく感じが苦しくて恥ずかしくて、ここにいるのがつらいと思った。
私は友達を作るのが苦手で、寛さんの転勤でやってきて住んでいる芦屋に友達は1人もいない。時々話す機会があっても、それとなく育ちや出自を確認されるような会話がどうしても好きになれない。
実家は横浜で、夜中に喧嘩して思い立って行けるような距離ではない。新幹線の距離だ。
私には近所の友達がいないことを、寛さんはよく知っている。日頃からよく話しているから。
1人で生きていく勇気なんてないことも、きっとよく分かっている。私の価値観を知っているから。
「ふうん。どこに行くの?」
この言葉は分かっていてあえて弱みを突くような、そんな口ぶりに聞こえた。
この冷たい響きを、品定めするかのような冷酷な表情を、今でも忘れていない。
私は1人で外に出て、街の光を目指して歩いた。落ち着いた住宅街じゃなくて、お店の灯りが見たいと思った。そういう温もりを感じたかった。夜も明るく賑わっているような。
ひとしきり歩き回って街のにおいを少しだけ嗅いだ。そしてそのまま帰宅した。短い家出ならぬ散歩をして、気持ちは収まらぬままに帰ってきた。
寛さんは、私が少しでも「引いた時」に、絶対と言っていいほど追いかけてくれなかった。
「出て行く」と言ったら「出て行かないで欲しい」と言って欲しい。
でも絶対に寛さんはそう言わない。そんな甘えは許さないし、興味を示すこともない。
そういう人なんだと思うようになった。反対されることを期待した発言はしないように、言葉に充分に気を付けようと自分に言い聞かせていた。
それでも時々、喧嘩すると言ってしまう。
「私のこと好きじゃないよね?? 好きだったらあんな冷たい態度をとるわけないよね?」
「それもあるけど、それだけじゃない。好きなところもあると思うんだよね。だからこうやってみなみのために頑張ってる」
こんな「部分否定」の返事を聞くたび、身体から力が抜けていくみたいだった。
どうして全否定してくれないのか。こんな時くらい、全否定してくれたっていいじゃないか。
「私のこと好きじゃないよね?」
こんな訴えを、部分的にでも肯定しないでくれよ。好きなところ「も」あるなんて、そんな正直に言わないでくれよ。そんな正確に、部分否定しないでくれよ……!!
「そんなことないよ」って言ってくれれば、それだけでいいのに。
「本当は否定して欲しい嘘」を口に出してしまっては、その度に激しく後悔していた。
寛さんには離婚歴がある。私と出会う前に一度結婚して、離婚している。
前妻とは大学院で出会って付き合い、3年の同棲を経て結婚に至ったと聞いた。
共通の友人も多くいて学生時代からの信頼を重ねて、傍から見れば羨ましい程だけど、結婚生活は3年で終わったという。
寛さんは子どもを欲しいと思っていた。前妻は子どもがどうしても欲しくなかった。
それが離婚理由らしい。
前妻は実家の両親が離婚しており、もとから「家族」というものが好きじゃなかった。
そして後に結婚する私もやっぱり両親と確執が深くて、そこは前妻と似ている。
「ちょっと変わった人が好きなのかもしれないね」
寛さんが言っていたことだ。
「離婚したことがなかったら、みなみは目に入らなかったかもしれないね。もっと“上”を目指したかもしれない」
なかなかひどい言い草だと思うけど、確かにそうだろうと思った。離婚は寛さんにとって唯一の挫折だ。それ以外は全て努力で克服した人だった。
寛さんの両親はともに高卒で、あまり教育熱心ではなかった。
寛さんは「大学に行かせてください」と両親に頭を下げて頼み込み、東京工業大学に現役合格して大学院を修了、時代は就職氷河期だったが日本製鋼に研究職で新卒入社した。国内最大の鉄鋼メーカーだ。
「“鉄は国家なり”だから、鉄鋼会社にしたんだよ」
ドイツでこの言葉が演説されたのは100年以上前のことだ。
鉄は国力の証でもあったし、多くの雇用を創出してきた。“中産階級”を大量に産み出して経済を支えた歴史もある。
寛さんは、修士で学んだ材料研究を活かせる仕事に就いた。努力で掴み取った人生だと思う。
前妻と離婚しなければ寛さんの人生は順風満帆だった。
離婚して婚活してうまくいかなくて、心が折れていたから私に惹かれたんだ。そう思った。