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枯れていた心に蜜を注がれるような

「別れる」という言葉をおどし文句に使うのは嫌だった。

 本当に別れるつもりがないならそんな言葉を使うべきじゃない。別れる方向にかじを切ってしまうものだと思っていた。


 夫のひろしさんは、私が怒ると露骨ろこつに嫌がった。私が少し声を荒げると、背を向けてパソコンを見つめる。


 絶対に怒らないようにしなくてはならない。冷静に冷静に冷静に。でもそれが、なかなかできなかった。


 私が感情的になると相手にしなくなるさまは、私をひどく軽蔑けいべつしているように感じて許せなくなった。


 私は瑠璃と接するのが得意ではない。

 トイレは覚えているのに時々嫌がらせのようにお漏らしして困らせ、愉快そうに笑う瑠璃が腹立たしくなることがあった。

 寛さんの帰りは遅いから、延々と何時間も瑠璃と2人で過ごす。遊んだり誤魔化ごまかしたりしながら合間あいまに家事をするのがこたえる。片付けるより汚れるスピードのほうが速い。圧倒的に。

 ストレスがピークに達すると、子育てしていることを受け入れ難くなる。


「そもそもさ、ひろしさんが子どもを欲しいって言ってたから産んだんだよね?」


「それは最初から分かっていたはずだよね」


 おんせがましい言い方になってしまった。伝わらない。こんなんじゃ分かってもらえる訳がない。

 こういう時、寛さんは背を向けてパソコンの画面を見つめる。人に責任をなすりつけるような口調を寛さんはひどく嫌う。それはよくわかっている。


「そうやってさ、冷たい態度を取るのが嫌なんだよ」


「ふーん……」


 冷たい。私が感情的になると、この人は本当に冷たい。

 子どもを産むのは確かに、私が決めたことではある。でもそれを決めたのは寛さんに喜んで欲しかったからだ。

 ひろしさんがずっと子どもを欲しがっていたのを知っていたから、前妻との離婚理由もそれだったのを知っていたから、喜んでほしくて決めたことだ。私と結婚してくれて嬉しかったからだ。


 私は純粋に子どもを欲しいと思っていただろうか? そうは思えない。考えたこともなかった。子どもが“欲しいか”どうかなんて。

“子どもを産んでくれてありがとう”なんて、言ってくれないものだろう。そんなのは期待しちゃいけない。だから、本当に心の底から子どもが欲しいと思えないんなら、やっぱり産むべきじゃなかったんだ。


 そんな行ったり来たりを一人で結論して、一人で悲しんでいるのがやるせなかった。どうしても涙を止められなかった。


「そんなに嫌なら別れるしかないんじゃない?」


 こう言ってしまった時、本当に別れても構わないと思っていた気がする。



 喧嘩の後から寛さんは格段に優しくなった。

 怒鳴ることが減り、瑠璃の悪戯には辛抱強く接するようになった。

 お店で私が後ろの人の邪魔になっていても、モノを扱うような手荒さで私をどかすことは無くなった。

 本気で離婚を突きつけたから、真面目に態度を改めたんだと思う。だから家庭はうまくいっていた。


 厳しく接するとうまくいく夫。

 優しく接するとうまくいくタカオカさん。


 優しさは少しずつ慣れて足りなくなるものだから、優しさが届くのを喜んでしまうのは早計だったかもしれない。そんな気がしている。

 期待されれば期待する。それに優しさが加わるとたかぶってしまう。そんなものだと思う。


 寛さんには、マゾヒスティックな気質があったかもしれない。

 冷たく接すると喜ばれる気がしないでもない。優しく接すると逆効果になる。


 寛さんの笑顔は好きだった。時折見せる幸せそうな笑顔を見ると、この笑顔を失ったら後悔するだろうと思った。嬉しそうにしてくれる人には安心感がある。


 私のやっていることは人の道にもとる。そういう感覚は無くなっていた。

 母親なのに娘を愛せない時点で既に人の道は外れていたし、何を補充して何に注力するかの違いでしかないような気がした。

 


 れていた心にみつを注がれるような、タカオカさんとの時間を好きになった。


 タカオカさんは分かりやすくサディストだった。


 私が狼狽うろたえるのを見て喜んだし、苦しむ表情を見ると目を輝かせた。私が真正のマゾヒストであれば、相性は素晴らしかったかもしれない。


 私は少しひねくれたマゾヒストだった。

 らすような意図を感じると心地よくもあってたかぶるけれど、めた目で見ているところもあった。


 あぁ、タカオカさんは今喜んでいる。私が寂しそうな表情を見せれば見せるほど興奮している。焦らそうとしている。私が一番喜んだところで断ち切って待たせ、楽しんでいる。



 表情をじっと見て覚えて、目の前のこの人を知り尽くしたい。私はそういう欲望が強かった。

 全面的に服従するような表情を見せながらも同時に観察しているのは、まるで演技のようだけど、別に演技している訳じゃない。実際におびえるような気持ちと一緒に、もう一人の冷静な私がいつも観察している。


(タカオカさんに翻弄ほんろうされたくない)と、どこかで思っていたような気がする。


 おそらく、掛け値無しのマゾヒストは翻弄されて喜ぶんだと思う。心の底から支配されてもてあそばれることを至福として、支配を享受きょうじゅするべく全身全霊で素直にさらけ出す。


 それがマゾヒストの性質だとしたら私は違っていた。

 翻弄ほんろうされるのは楽しくて幸せだけど、私が翻弄したくもある。


 タカオカさんが真正のサディストであるのに対し、私はマゾヒストではなかったのだと思う。でもその時は気づかなかった。

 そんな自己分析で制御できるような気持ちではなかった。

 



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