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舐める

作者: るるる

舐める


 世の中には三つのタイプの人がいると思う。


一 不満があったらはっきり言える人

ニ 不満などなくって人間が出来ていて寛容で、だからはっきり言うことなんかない人

三 不満があるんだけど言えない人


 私はニに見られることがあるみたいだけど、本当はそんなこと全然なくって実は三なの。

 それで、だから時々、誤解されてしまうことがある。


 今日こそは、あれを実行に移そう。

 そう思いつつ、鞄を右手から胸のとこに持ってきてぎゅっと強く抱いて、それが中にあることを再確認する。ほんの少しだけ、心臓がどきどきする。まるで犯罪者気分。

 私、千川愛里は友人の巴理香子のアパートに向かうところだ。彼女は美術の専門学校のクラスメイト。年齢は共に二十三歳。

 週明けの今日、バイト先で休んだ人がいたので、私は残業になってしまった。やや歩を早める。日はとうに暮れてしまい闇が辺りに立ち込めている。

 三軒茶屋駅は、どことなくおしゃれで自分と同じような若い人が多いように思う。私の住んでいる豊島区とはムードがどことなく違う。こんなところに越したい気もするけれど。

 ちょっと高そうな。高いだろうな。

 一階の一○一号室が彼女の部屋。簡単な作りの白くて四角いブザーを押す。まもなく、理香子がドアを開けてくれる。

「いらっしゃい。遅かったね」

「うん。今日、ちょっとバイト先で人が足りなかったから。休んだ人がいてね」

 彼女の部屋はいつもながらシンプルで、六畳の部屋にテーブルと座布団が無造作に並んでいる。テレビがあるけどどことなく埃っぽい。そう、理香子はテレビなどほとんど見ない。

 その代わり、家具が最低限しかないその部屋はその埋め合わせでもあるかのように、本がところ狭しと並んでいる。部屋の三面に本棚。

 それでも足りないのかあふれる本、本、本。

 その辺の床にも積み重ねているのが目に入る。

 おトイレの中にも本のスペースが床のところに設けられてて、びっしり二十冊はある。

 そう、彼女はかつて勉強好きで賢かったのだ。

「愛里、聞いて。昨日さあ、急にうちへ知らない男の人から電話かかってきたの」

  理香子は、私のためにウーロン茶を紙パックから透明なグラスに注ぎながら言う。その手元が微かに震えている。

「うん、あ、ありがとう」

 その震えを見て見ないふりをして、目の前に置かれたお茶を私は飲む。

「それで、『あなたの足の裏を舐めにこれから行ってもいいですか』って言うの」

「えっ。そ、それで?」

 理香子は個性的だ。また来たか。この手のパターン。

「一瞬、考えたけど『いいですよ』って言ってやったの」

「うんうん、で、どうなったの」

「ほんとにうち来て、あたしの足の裏舐めて、それだけで帰ってった」

「怖くなかった?」

「ぜーんぜん。フツーの男だったよ。要は足フェチの人、だったんだよね」

「でもどうやって理香子の電話番号知ったんだろう」

「適当にダイヤル何件も回して、たまたま若い女が出た時だけ、すかさず言ってたらしいよ」

「ふーん」

 こんな話が聞けるのは、友人の中でも理香子ぐらいだ。もしここに他の人がいたなら私は最初の方で、もう口をつぐんでしまっただろう。

 ちなみに彼女とは学校での最初の授業の時に、席が隣りでそれがきっかけで話すようになった。そして友達になった。それで、お互いの家を行き来するようになった。二人共地方出身者で、一人暮らしだからそういう点で気楽だった。

「ねえ、どんな人だったか詳しく聞きたくない?」

「えっ、…いいの? ほんとは…聞きたい!」

「いいよ。誰かひとりくらい、ちゃんと話しておきたいなって心境なんだ」

「わーい」

 あっ、そう言えばと私は思い出して、袋を理香子に差し出した。

「これ、お土産」

「え、そんないいのに…。ありがと」

「と言っても、バイトの給料日前で駄菓子なの」

 私は彼女に渡そうと思い、鞄を覗きこむようにしながら口を開けた。中には二つの紙袋が入っている。大きな方を注意深く見つめながら、小さな方を取り出した。

 そして、中から二つのまたまた小さな物を取り出した。それはヨーグルというヨーグルトとは似て非なる白いクリームが詰まった、蓋に象のイラストが描いてあるお菓子。しかも、特大と書かれている大きいサイズの物。直径四センチくらいある。

「…かわいいね」

 一瞬、沈黙が流れて理香子が無表情で言った。

 しまった。外してしまったらしい。ごめん、許して。私は心の中だけでつぶやく。

「ね、ねえ、じゃあ、単刀直入に聞いていい」

 外してしまったお土産のことなど置いといて、私は子供のように聞いたかもしれない。目をきらきらさせて。

「どうぞ」

 一見、余裕のポーズの理香子。どっからでもいらっしゃいってふう。

「その感触ってどんな感じ?」

「うーん」

 ここで、理香子は眉間にしわを寄せた。真剣に思いだそうとしているらしい。

「…足の早いなめくじが、ぞわぞわ這ってくって感じかな」

「足ってないじゃない。なめくじって」

「それはそうだけど」

 しーん。

 ここで、二人して無言でドリンクを同時に飲んだ。

 私の咽喉が薄鼈甲カラーの液体で潤されて、それが内臓へと流れ落ちていくさまを思い浮かべながら。

 理香子は、インスタントのブラックコーヒーを飲む。シンプルな薄手の青いカップとソーサーで。それはこないだ来た時にはなかったものだ。買い足したんだ。あの時のせいで。

「じゃあ、最初は足のどの部分からスタートしたわけ、つまさき、それともかかと?」

「それが…」

「それが?」

「どっちでもないの。…いきなり土踏まずのとこからだった」

「えっ、大胆?」

「さあ」

「で」

「それで、確か、だったと思うけどその人の舌の先端があたしの左足の土踏まずに着地すると、次にその柔らかいものがさらに面積を広げて全面的にこう、べたあって広げてきた」

 ここで少しぞっとしてしまった。

「…ちょっとすごい話だね、それって」

 余裕(?)でうなづく理香子。

「それからまたゆっくり広げたものを、元に戻すように半分まで起こしたような」

 ぞぞ。

「…。見えたの? 顔とか、舌つきで」

「ううん、感覚。だってあたしは仰向けに寝っ転がってたんだもん。で、次のその舌を、最初に上の方に。…足の指の方にもってったような気がする」

「…それで、その、次は指へ行ったわけ?」

「そう思うでしょ? ところが違うんだな。指の付け根までいったら、ぴたりと止まったの。静止」

「…」

 ここで、理香子は遠い目をし始めた。

「そしてそっから今度はユーターンするかのように、…なんていうかなあ、スケートで思いっきりジャンプする人みたいに、バレリーナの跳躍みたいに、いったん舌をあたしの足からパーンって離した、…うん。確かに離した。

 それで、その舌をまた土踏まずのど真ん中まで飛ばしてきて、ってまあ移動したって意味だけど。で、さあ、一気に通って、一直線にかかとまで目指していったの。ダーッて」

「だーって。早そう」

「ううん、だからなめくじって言ったじゃん。のろのろリズムでダーッだよ。だからのろダーッ、のろろダーっ、のろろろろダッダッって」

 一瞬、想像する私。なんかわかんないけど、ここでさあっと冷めてきた。

 しーん。

 間がもたない気がしてもう一度、ウーロン茶を飲む。続くかのように、理香子も無造作にカップをつかんで黒い液体を飲む。

「あの、さあ。聞いてもいい?」

「もちろん」

 相変わらず余裕の理香子。姿勢もやや胸をそらして、偉そうな人みたい。自信ある発言だからなの?

「くすぐったくなかった?」

「…あんまり。きっとたぶん、緊張してたんだと思う」

「ふーん、それでも緊張感あったんだ」

「一応ね、推測だけど。自己分析、それもたった今」

「それで、かかとまでいってどうなったの。そこから表の方へ、行かないんだよね」

「そうそう。行きそうに思うのにいかないんだな。なぜか」

「なんでだろうね」

「…わかんない」

 ここで、理香子は本当に悩ましい顔をした。きっと、真面目に考えたんだろう。もしくは自分に聞かれても困る、わかるわけないじゃないと思ったのかも。

「…それで、またかかとでぴたりと止まって、方向転換。キュキュッて感じ。それで今度は真横に這わせるの」

「這わせるって表現、なんか…」

「なんか?」

「這う、とか這っていくっていうよりも、なんか、あれ、ちょっとうまく言えない」

「なに言ってんの。ま、いいけど。とにかくそれでその人、あたしの足の裏をもう、なんていうの、こう、さあ」

 ここから、理香子はにわかに興奮し始めたみたいだった。

 カタカタカタ…。

 彼女のソーサーの上でのカップを持つ手の音が、だんだん高くなってくる。

「舌這わせてくの、縦でしょう、横でしょう、で、斜めに行き、さらに交差させて逆斜め、さらにさらにそこから山型にジグザグさせたうえ、あ、このジグザグッてとこは、まるでスカートの裏側をまつり縫いするようなライン、ね。で、最後はもうもう、言っていいかなあ。絶対少しの面も逃さないってふうで、意地すら感じられるような勢いで、あ、もちろん、なめくじの勢いだけどさあ、あたしの足の裏全体、もう、くまなく舌を這わせていったんだ。…皮膚呼吸してる全体を覆いたかったのかなあ。しかも裏だけを!…やだ、なんか寒気してきた」

 こっちだって、ますますぞわぞわ。もしかして、顔もやや青ざめてたかも。でもここまできたらつきあわなきゃ。もう戻れない。

 あ、そう言えばヨーグル!でももうあんなぬるるを連想させるもの、もう食べらんない。

 ちらと象のイラストのとこ見て、すぐにふいと見なかったかのように顔を戻す私。

 理香子の視界には、そんなものなどもうないみたい。ああ、かわいそうなヨーグル。

「疲れなかった? もしくは気持ち悪くなったとか」

 瞬時に気を取り直して、なおもクエスチョンを続ける。理香子のために。

「…どんどん足の裏濡れてったよね」

「それは、…そうでしょう」

 なぜか瞬きする私。もうグラスの中の液体は飲み干されてなくなっていて、間をもつものがない。だからそのまま続ける。

「でも、ね、愛里。水で濡らしたわけじゃないから、濡れたと言っても」

「べたべた」

「そう、べたべた、っていう気がした。それであんまり舐めるから、滴になって畳に落ちたらどうしよう。やだなって思って」

「思って?」

「思ってたんだけど、言えなかった。やっぱ」

「…言えないよね」

「うん…。そしたらその人の舌がちょうどあたしの足の小指のつけねのところを這うとこだったんだけど」

「うん」

「そこが一番好きなポイントだったんじゃないかなあ」

「なんでそう思ったの?」

「その部分、やけに念いりだったの。ところがなんだかうまく彼の思うように、細部までくまなく舐められなかったみたい」

「小指って小さいとこだから?」

「そうかも? 正確に言うと、小指の第二関節のとこ。そこって、二等辺三角形の形になってんの。知ってた?」

「知らない、そんなの」

 やや、不機嫌な顔になる理香子。

「…つきあい悪いね。ま、いいけど。で、ね」

「うん」

「必死になって顔をやや斜め上にして、彼がこだわる舌の箇所で舐めろうとしてたみたいな、の!」

 ここで理香子は「な」の次に来た「の」をことさら強めて発音した。私の頭の中で一瞬、それが連呼する。

の、の、の、の、の。

 そんなことに気づかずお構いなしで続ける。

 理香子が持っているコーヒーカップが、なおも揺れてる。手の震えが止まらないらしい。でも自分の視界には、そんなの入ってないってポーズを私は続ける。

「こだわる箇所って、舌の先端? それにどうしてそこの箇所舐める時だけ、こだわってるってわかったの?」

「先端じゃなくて、舌の片方の横の端っこっぽかったけど。それで、なんでそこだけこだわってるかわかったかって言うと、なんか独特の集中してるムードを感じたの。なんとも言えない変な、まさに変態の緊張モード」

 もうこの話、やめない? ってここで言いたくなった。だんだん不気味なんだもん。

 私はホラーみたいな、たとえばゾンビとか、そういう類は嫌いなの。でも今さら言えない。

 だって理香子は加速度ついてきたみたいなんだもの。

 彼女は少し陶酔めいているのか軽く目を閉じて続ける。

「…でも、もうちょっと。あとも少しだったんだろうなあ、なかなか出来なかったみたいなの」

「うん」

「それでそれで、聞いてよ」

「聞いてるってば」

 実はいやいや。

「うん、ごめん、つい。ここ重要な箇所だからさ、で、聞いてる彼の口の端から透明な液体が、つつつうーって流れてきて畳に落ちたの。ぽたりっていうよりも、ぽたたって感じで。

 見えなくてもわかった。唾液音」

「…気色悪いね」

 私は思わず腕を交差させて、ニの腕をさすった。鳥肌が立った気がしたので。

「そう、そう思うでしょ! 最悪でしょ!」

 理香子の目に、激しいものが露わになった。

 一瞬、びくっとなる私。

 でもその高ぶる気を抑えようとするのか、そこでしばし彼女は黙る。

 でも、またわなわなしてきたみたい。口が開かれる。

「だって畳にその変態のよだれが糸引いてさあ、流れ落ちてって、そのまま染み込まれていったんだよ! あたしんちのこの畳に! そんなシーンって考えられる?」

「考えたくもない」

「でしょ!」

「あ、そう言えば、結局そしたら畳の上で、だったんだ。ベッドの上じゃなくて」

 このセリフで、彼女の顔が少しトーンダウンの表情になる。良かった。

「えっ、ベッドって…。ベッドで、その気になられたら困るじゃない。いくら変態とはいえ」

「…そうだよね。今回、違うものね」

「でも実を言うと最初、その人が来るまで迷ったんだ。畳の上か、ベッドの上かって」

「うん、なんとなくわかる」

「だって、畳だとここ、狭いからその最中にちょっとズレてこのミニテーブルにがんって、自分の頭とか腕ぶつけたらさまにならないかなあって」

「うん」

 さまになるもなにも。

「かと言ってベッドだと、途中でその気になられても怖いし」

「顔とか、外見って好みだった?」

「だからフツーだって。特に好きでも嫌いでもなかった。最初に電話で足舐めるっていうから、もうそういう視点で見てるの。色眼鏡的。まともに見られない。足舐める生き物ってふう」

「でもよく最後まで我慢したよね」

「…実はさあ」

 うんうんと、とにかくうなづく私。

「ほんと言うとね、その人があたしの足の裏を舐め初めてからまもなく『自分はなんで、見ず知らずの人を部屋入れて、こんな異常なことさせてるんだろう』って急に思い始めたの」

「気づくの遅いね」

 私は、苦笑してしまった。この気持ちの悪い話に慣れて、余裕が出てきたのかも。

 そんな反応もおかまいなしに理香子は続ける。

「そもそもなんでオーケーしたかって言うと、その電話掛かってきた時に、確かにおかしな欲求だと思ったんだけど『自分ってそういうことに興味あるんだろうか』ってひらめいたの」

「そうなんだ」

「自分のことってもっと知りたいと思わない」

「そう言われれば」

 でも、普通の人はそんなことしません。断ります。私は心の中でつぶやく。

「でも、あたしってつきあう男なんかも、キスするまではよくわかんないんだよね。つきあうほどに好きなのかどうか、キスまでわかんない。自分でも困っちゃう」

「触れるまでわかんないんだ」

「そう」

「じゃあ、さ。これまでつきあうのオーケーって言ったくせに、最初のキスで『やっぱりやめた』ってこと、あったわけ」

「あった。一回だけだけどね。ねね、話がそれてるんだけど」

「あ、ごめん。どうぞ続けて下さい」

 うなずく理香子。この話を最後まで話すことで、何かの自信にしたいのかな。

「で、その異常な状況を急に自覚してきてどうしたの?」

「最初は小さな違和感だったんだけど、それがその場の空気を押しのけてだんだん広がっていったんだよね」

「違和感」

「そう。違和感、違和感、違和感!異常な人がやってきて異常な行為をしているんだ、って。これをたまたま受け入れている私は異常じゃないのに、極めて正常な、ものすごく正常なこのあたしがこんなことしてていいんだろうかって!」

「いいわけないよね」

「いいわけないよ!」

 理香子は声を荒げた。興奮に、

加速がついてきたらしい。

「それでそこにあの一滴でしょ! 最悪だよ!!!」

 ガッチャーン!

 それはコーヒーカップが彼女の力で思いっきり玄関の土間に叩きつけられた音だった。割れて散るかけら。あーあ。とうとうやったか。それにしても危ない。破片がこちらに飛んできたらどうするの。

「大丈夫?」

 理香子はやや呼吸が乱れてて、でも緊張のピークを越えて安堵しているようにも見えた。

「…あ、…後でかたすから、気ぃつけて。…ごめん」

「いいよ、そんな」

 でも本当の私の気持ちは『甘えないで欲しいな』っていうものだった。とっても口に出来ないけど。私って冷たい?

「結局、あたしってダメなんだ。あそこからずっとダメなんだ」

 理香子が目を潤ませてつぶやく。

「…」

 無言の私。

 理香子の言うあそこというのは、十七歳の高校三年の時のこと。なんでも彼女は県で一番の進学校に通ってて成績も常に上位だったとか。

 ところが勉強のし過ぎでノイローゼになってしまったそう。そのせいで途中から休みがちになり成績はがた落ち。学校の配慮からなんとか卒業だけは出来たけどかなりダメージが大きくて、そこから立ち直れないらしい。

 その後は官僚の父親ということもあり、余裕があったのか、家にだらだらいたのだけれど、四年経ったところで弟が国立大に受かり、親はさすがに長女に見切りをつけ、なんでもいいから自立しなさい、多少の資金は出してやるからと言われ、東京に出てきたとか。

 彼女の家に本がたくさんあるのは、親が毎月それなりの額を送金してくれてるからだ。

 恵まれた部屋にいられるのも親のお陰。

 余談になるけれど高三の時の隣りの席のクラスメイトの男の子はその後、ストレートで東大に受かったそう。その時の事を話す理香子のセリフ。

「一番最初の中間試験の時は、あたしの方が彼より順位、一番だけ上だったのに」

 何度、聞かされたか。

 私はそんなに勉強熱心だったことはないので、理香子の心境はわかるようでわからない。

 もしくはわかるようでいて、ややわかりにくそう。

 でも、と私はなおも思う。自分だってそれなりにストレスはいろいろある。実家に帰れば四つ上の姉が威圧的な態度でいつもいて常に低姿勢でいなきゃいけないし、その姉の機嫌の悪い時なんか当てられたりして、それでもケンカしても勝ち目なんかないってわかっているから(姉はすごく気が強くて頭の回転が速くて口が達者)、そんな時は媚びへつらったりして後からそんな自分に辟易してる。

 それに母親は普通に優しいけれど、父親はこと細かく私にうるさく干渉してくる。姉にはそんなことないくせに。それでもって、成績の良い姉は両親の自慢の種。

ああ、思い返しただけで私だっていらいらしてくる、この自分の状況にね。

 さらに言うなら今日のバイトだって、急に休んだ子のせいで私が倍働かなきゃいけなくって、それで一生懸命やったのに、お客から遅い! って怒鳴られたんだから。

 さらにさらに理香子と違ってバイトして自活している私(それは親に逆らって上京してきたので援助を期待出来ないからなんだけど)からすると、毎月金銭的に余裕なんかなくってほんとうにそういう意味で大変なんだから。

 誰だってそう、みんなそれなりにきっと大変なんだから。

 もう、甘えないでよね!

 そもそもカップを他人の前で投げつけて割るなんて、危ないことこのうえない。

 これで本人は気が済んだかもしれないけれど、親しい友人だからいいかなと思ってそうしてるかもしれないけど、こんなところで気を許さないで欲しい。

―― でも私はそんな言いにくいことは、口に出来ない性格なの ――

 本当は「甘えないでよ、その投げつけるの、やめてくれない。危ないでしょ」って言ってやりたい。でもそれでもし彼女が後から気に病んで、また症状が悪くなったらどうしようって思う。

 それでなくても最近、しょっちゅう、手は痙攣してるし。学校ではわからないようにしているみたいだけど。高校の時の話も、私にしかしてないっていうし。

 とにかくあまり強い刺激は与えられないよね、うん。でも自分だってこういうのはもう嫌。かといって友達やめるから、なんていうこともとても言えないし。

 同じクラスで気まずくなるなんて嫌だもの。

 そう思って、私は今日、考えたすえにあれを持ってきたんだ。でもその前に変態の件を終わらせないと。

 ふと時計を見ると、午後九時を回っていた。

 もう少しで帰らないと。明日だって、早朝バイトが入っているし。学校の課題をやる時間だってみないといけないし。私なりに今、危機的状況だよね。

「ね、ね、理香子。とにかく落ち着きなよ」

「うん」

 彼女はもう既に充分、落ち着いている。

 こないだもこのパターンだった。

「ねえ、その、さあ、足を舐める人の話に戻るけど、かなりヘビーで、貴重極まる体験だったんだろうけど、もう終わっただからいいじゃない。パーッと忘れちゃえば」

「…」

 ダメみたい。うーん。

「違うの、違うんだってば、愛里」

 理香子が真剣な目で、こっちを見てる。

「違うの、それで終わったと思ってるでしょ! 違うの、あたし的には全然終わってないの」

「どうして?」

「そこ、見てよ」

 理香子が指差した先にあったのは畳の部分だったのだけど、普通と違うと思わせた。

 それはなぜかと言うと、ピンク地に白い花柄のご飯茶碗が逆さまにしてかぶせてあったから。

 さらにそのお茶碗は、透明なセロハンテープでぺたぺたと端を固定されていた。

 それを見て、私はピンときた。

 それはあれ、あの現場に違いないと。

「もしかして」

「そう、そのもしかしてよ。あそこ、あいつが唾液、染み込ませていったとこなんだ。困っちゃう」

「…やだよねえ」

「めちゃくちゃ、やっ!」

「かと言って、そんな簡単に引っ越すわけにもいかないしねえ」

「そんな気、ぜんっぜんない! ここ気にいってるんだもん。わーん、どうしよう、愛里。あたし、あのお茶碗部分、なんとかしないと生きてけない」

「オーバーだね」

「だって。ねえねえ、なんかいいアイディアない? 最近、絵より占いに凝ってるって言っていたじゃない。なんか、いいおまじないとかジンクスとか、魔術とかなんでもいいから知らない?」

「知らない、そんなの」

「あ、そ」

  ここで彼女は冷ややかな目を、私に向けてきた。

「占いに興味あるっていうと、その関係なんでも知ってるかと思っているんでしょう。そんなことないって。占いの本の専門店に行くと、似た分類なのか魔術本ってよく見かけるけど常にスルーしてるもん。だって怖いもん。私は基本的に平和主義なんだから」

「でもさ、ね、なんか知らない? このよだれが染み込んだとこって、妖気感じるんだよね。不気味な波動。なんとかしないと、あたし、不幸が起こりそうな気するんだ」

「で、とりあえずお椀かぶせてるんだ」

 本人は必死だろうけど滑稽な感じ。でも、ここは友人としてなにか協力してあげないと。

 この点においてはね。でもなにか出来るんだろうか。

「で、どうしたいの?」

「ふーいん」

「えっ」

「もう。だからさあ、封印したいの」

「ああ、封印ね」

「ね、なんかいいアイディアない?」

「うーん、そう言われても」

 私は、友人のために考えてみた。でもなんにも出てこなかった。

一体、なにがあるっていうんだろう。

「ねえ、友達でしょう? なんかないの?」

 理香子は、それでも黙っている私を見て、友達甲斐がないなあって顔してた。

 ああ、そんな。

 そんな顔されても、私の中にはなんにもないの。

「そう、なんにもないんだね」

 理香子は、うつむいて黙った。私のことを冷たいなって思ったかもしれない。

 あ、そんな顔されると弱い。これはなんかなんか言ってあげなきゃ。

「あの、理香子」

「なに?」

 彼女は、私がなにを言うかときらりとした目を向けてきた。眼鏡の中の一重の目を。

「その、さ、なにか封印にふさわしい、合ってる品を置けばいいんだと思う」

「それってたとえば?」

 理香子の顔に希望が宿る。ぽうっと暗闇に火が灯ったみたいに。

「そう急に言われても困るんだけど、そ、そうね、たとえば」

「たとえば?」

 私はこの時、頭の中で結構、真剣に考えてた。でもなんにもひらめきは訪れなかった。それでもって、それでもなにかを理香子のために口にしなければというプレッシャーを自分に強くかけていた。

 なにか言ってあげないと言ってあげないと言ってあげないとイッテアゲナイトイッテアゲナイトイッテアゲナイトイッテアゲナイトイッテアゲナイトイッテアゲナイトイッテ…。

 私は蛇に睨まれた小さな蛇の心境で呪文のように、結構必死に頭の中で何回も何回もそう唱えてた。

 そうしたらきっと名案の泉のようなとこにコンタクトして、ましなアイディアが訪れると思ったから。

 でも、なんにも訪れなかった。

「ごめん。理香子」

「えっ」

 彼女の顔に翳りが宿った。

「わあ、待って。あ、あった。ひらめいた。今、急に! なんか降りて来たって感じ」

「なに?」

 理香子の顔が、嬉しそうになる。

 大きめのしっかりした口元の両端が、上を向き始める。

「そこには不浄な、いわゆる不潔なものが存在しているわけでしょう」

「うん、まあ」

「だから逆のものを置けばいいんじゃないかな、たとえば不潔の逆だから清潔なもの」

「それって、たとえば?」

「清潔って言ったら…石鹸、かなあ」

 ああ、なんて想像力貧困なんだろう。ここで石鹸しか出てこないなんて。貧相もはなはだしい。

 私は自分でこの発言をしながら、同時進行で情けなく思った。友達なのに、こんなことしか言ってあげられないなんて。

「…いいんじゃない、それって」

「えっ」

「なんかよくわかんないけど、いい気するよ。愛里、冴えてるじゃん。ありがとう」

「そ、そうかな。…そんなこともないけど」

 私は褒められて照れたのと、行き当たりばったりでこんな大したことない発言してって自己嫌悪とが一緒に自分の中で渦巻いてて、ややうつむいて赤くなった気がした。

 さらにこんなチープなアイディアを気に入ってくれた理香子のことを、いい人だなと思った。

「じゃあ、早速買いに行こう!」

 理香子が明るい声で、そう言った。

「えっ、今すぐ?」

「あったり前じゃない。善は急げっていうし。あ、何なら愛里、ここで待っててもいいよ。あたし、ひとりでコンビニへ行ってくるから」

「え、封印前にここにひとりでいるのって、ちょっとやだ」

 実はかなり嫌だった。

 理香子の話を聞いたら、私にもその箇所には禍々しいものが漂ってる気がしてきたので。

 そんな空間に、ひとりでいるなんて。

「私も行く!」

「そう、いいけど」

 そうして私達は、ふたりでバタバタと徒歩五分のコンビニへ駆けつけた。でもそこには、安い石鹸の『植物物語』しか置いてなかった。

「これも確かに石鹸で、植物性だから悪くはないんだけど、こう、もっと強力に効きそうなのにしたいな」

 そんなこと理香子が言うものだから、私達はそれからさらに徒歩三分のドラッグストアへ駆け込んだ。

 そして理香子は、そこでオリーブオイル百パーセントのギリシャ製の石鹸を見つけた。

「うん、これにしよ。いいよね、効きそう」

「それって勘」

「もちろん勘」

 二人して理香子のマンションに戻ると、早速封印に取り掛かる。最初に理香子が、恐る恐るテープを剥がしてお茶碗を持ち上げた。

 一瞬、目をぎゅっと閉じる。一瞬、息も止めた。彼女もそうしていたような。

 そしてそこに間を入れず、バンッと理香子がオリーブオイル石鹸を置いた。さらに用意していたセロハンテープで、またもや理香子がぺたぺたと石鹸と畳をつなぐべく張り始めた。

 でもお茶碗の時より、石鹸だと張りつきにくいみたい。

「まどろっこしいなあ、もう。いいや、これで」

 そう言って理香子は畳から石鹸の上を一直線に覆い、もう片方の端までテープをビィーッと伸ばした。

 最初は縦ライン、次は横ライン、そして今度は斜め、逆斜め。

あれっ、これってどこかで…。

「はあ、やった」

 何本ものセロテープで固定された緑色の石鹸は、決して神聖なものには見えなかったけれど、理香子は満足したようだった。

 それを見て、私はこの件は無事終えたと悟った。

 さあ、遂に私の番。

「ねえ、理香子。いい? 今度は私のお願いなんだけど」

「えっ、なに?」

 理香子は想像つかないって顔で、私の顔を見た。

 そうだろうなあ。

 私は自分の鞄から残っていた包みを取り出して、それを開けた。中に入っていたのは、一対のコーヒーカップとソーサーだった。

「私、理香子がカップ投げつけるの見てて、一度自分もやってみたくなったの。いい?」

 理香子の顔が、瞬時に強張った。

「え、…い、いいよ」

 そうでしょう、そうこなくては。

 それで私は主の許可の元、思いっきり土間に向かってそれを投げつけた。

 ガッチャーン!

 その時の理香子の顔は見なかったけど(二人して土間の方を向いていたので)、困惑しているのが皮膚感覚でわかった。

 それから私達は、一生懸命掃除するはめになった。まずは、拾えるかけらを注意深く拾う。不器用な私は、手を切るんじゃないかとはらはらした。

 大雑把ながらも慣れているのか、理香子はテキパキとスムーズに作業を進める。

 次は掃除機。理香子が強力な吸引力を持っていそうな銀に光るそれを持ち、ガーガーとやり始めた。

 もちろん封印箇所は、慎重に避けてね。

 作業を終えたら、私達は二人して見つめ合った。

 そのシチュエーションは、一見恋人同士に見えたかも。理香子の顔は「もうこんな大変で危ないことしないよ」って言ってた。

 私は、さよならと理香子のマンションを出る。

 怖がりな私に夜道はちょっとだけどぎまぎさせられたけど、変態の余韻も解決したし私達の友情は保たれたし。

 ナカナカ イイヒ ダッタジャナイ。

 歌でも口ずさみたい気分で、私は帰路についたのだった。

                               (了)






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