私たちの持つ「ゆめ」
何となく思うところのエッセイ。
もし、あなたが小説家になりたいと考えたとき。
その理由は? と聞かれたならばどう答えるのか。
人の心に響く物語を描きたい。
自分の持つ感性をあまねく表現したい。
自分の承認欲求を満たしたい。
他にも色々な理由があるだろうが、そのいずれの願望も「欲望」という言葉の内に入るだろう。
何も小説家だけではなく、プロ野球選手やサッカー選手、芸能人や映画俳優、政治家や優れた経営者、アーティストやコーディネーターなどになりたいとしても、理由は異なるとしても、そこにある願望に大きな違いは無い。
願いとは欲求でもあるからだ。
「欲望」は決して悪いものでは無い。
人間は「欲望」があるからこそ、それを満たす為に行動する。
その過程で苦悩し、迷い、挫折や後悔を経験する。
だがそれが、人間の成長への糧となりうる。
人間は「欲望」があるからこそ進化・発展してきた。
世界のあらゆる偉人たちは「欲望」を捨てきれなかった。
イエスもブッダも「愛」や「真理」を世にもたらすという「欲望」を捨てきれなかった。
だが、「欲望」は全てにおいて正当化されるものでも無い。
その「欲望」は人々を幸せにすると同時に、争いを引き起こす原因にもなった。
先の偉人たちの「欲望」は、後の時代に続く人物の「欲望」を満たすために利用されることもある。
戦国時代に日本にやって来た宣教師が、布教の為だけに来たわけではない事は広く知られている。
口では「愛」を語りながら、心は「支配欲」で満たされていた。
それは、当時のアジア諸国を見れば理解できるだろう。
だが、そのような彼らを一方的に非難する事は出来ない。
何故なら、そんな彼らの「欲望」は私たち自身の内にも少なからず存在するからだ。
食欲、色欲、睡眠欲
三大欲求と称される欲以上に、私たち人間は「欲望」にまみれている。
金欲、名誉欲、独占欲、etc
自分だけ儲かれば良い
(私だけなぜ貧乏なのだろう)
自分だけ幸せなら良い
(私だけなぜ不幸なのだろう)
自分だけ、自分だけ……
(私だけ、私だけ……)
人間は「欲望」と共にある存在なのかも知れない。
そんな私たちも、最初から「欲望」にまみれていた訳ではない。
自我も持っていない幼少の頃、あったのは食欲と睡眠欲ぐらいのものだっただろう。
その欲の多くは、母の愛をもって満たされていた。
だが、成長とともに自立する過程で、別の大きな「欲」へと変貌していく。
人間は成長とともに欲深くなるものだ。
それは「知恵の実」。
私たちは成長の過程で「知恵」を取り込み、心の内に「欲望」を育む。
「知恵の実」の種から発芽したその「欲望」は自身を覆い、時に視界を狭め周囲を見渡すことを阻害し、惑わせる。
それでも「欲望」は簡単に手放せはしない。
楽園から遠ざかる事になろうとも。
「欲望」を心の内に秘めたことによって、挫折し、苦悩し、嘲られ、そして羞恥する。
私たち人間は、そのような存在かも知れない。
少なくとも、いま私たちは楽園にはいない。
混沌の世界の中で、自分の存在を昇華しようとする「欲望」を秘めた存在だけでしかない。
その「欲望」を満たす手段は、誰もがなんとなく知っているだろう。
そして誰もが、手になかなか掴めないものでもある。
私たちの持つ「欲望」とはそのようなものだろう。
自分が幼稚であることは自覚している。
ただ、自分の言葉で定義を示しておこうと思った。