【短編】「蟲使い」はキモいと婚約破棄されて王都追放された辺境伯令嬢、虫と一緒に辺境の英雄となる~不作すぎて戻ってこいと言われてももう遅い、虫がいない国をお望みでしたもんね?~
モルビド王国の王立貴族学園において、この日は特別な日だ。
最終学年を迎えた学生が旅立つ卒業式の日であると同時に、神から職業を授かる日でもある。
「職業〈剣士〉か。剣術の授業が効いたかな」
「いやお前の家、騎士ばっかりだろ。やっぱり家系じゃない? 俺は親父と同じ〈魔法使い:土〉だし」
「二人とも将来は安泰だな。〈農家〉の俺……」
「ま、まあ元気出せよ。農業のことを理解できれば領地運営もラクになるって!」
職業。
生まれ持った性質や学んできたこと、趣味嗜好などにより「神が判断して」与えられるとされるものである。
稀少で強大な職業ともなれば、山を砕き、海を割ることさえ可能になる。
ゆえに、モルビド王国王立貴族学園では、「貴族学園」という名前ながら礼儀作法よりも実践的な授業が行われていた。
すべては役に立つ・希望する職業取得のために。
学園の最終日、卒業式の前に行われた「職業授与の儀」を受けて、卒業生は悲喜こもごもだ。
狙い通りの職業を取得できた者、想像以上の職業で歓喜に湧く者、夢破れて肩を落とす者。
先の少年たちが語ったように、貴族ともなればどのような職業であれ、役立つ場所はあるものだが……。
まだ15歳の学生たちにとって、職業のイメージで反応が左右されるのは当然だろう。
華やかな卒業パーティにもかかわらず、会場の中央で一人ぽつんとたたずむ少女のように。
少女は辺境伯令嬢で、モルビド王国では高位貴族にあたる。しかもその美しさと気さくな人柄から在学中はファンクラブができるほど人気だったのに、少女に話しかける者はいない。
少女の友人たちは彼女が授かった職業を知って、なんと声をかければいいのかわからないようだった。
辺境伯令嬢、マリア・バグース。
艶やかな黒髪と紫の瞳を持つ少女は、困ったような顔でわずかに苦笑している。
深いグリーンのドレスは金糸で彩られ、動くたびにきらめくさまは、森の木漏れ日を反射しているかのようだ。
もし彼女が有能な職業を授かっていれば、あるいはありふれた職業であっても、彼女のまわりにはいままでと変わらず人だかりができていたことだろう。
卒業パーティを終えれば、学生たちは寮を出てそれぞれの家に帰っていく。辺境伯令嬢と親しく話せるのは、今日が最後なのだから。
「……ほんとに、気にしてないんだけどな」
マリアがぽつりと呟いても、反応する人はいない。
「私の職業が〈獣使い〉と同じような感じなら、きっと——」
わずかに唇の端が持ち上がる。
決意を新たに顔を上げる。
と、一人の少年がマリアに近づいてくる姿が見えた。
少年が身に纏うのは闇夜よりも深い黒。
言うなればK100ではなくリッチブラック。
その色を使えるのは王家に属する者のみの、ロイヤルカラーであった。
とうぜん、マリアと王子の間にいた学生たちは何を言われるまでもなく道を開ける。
コツコツと足音を響かせてきた少年は、マリアの前で立ち止まった。
少年は、卒業パーティのはじまりを告げるファーストダンスに誘うため、婚約者であるマリアに手を伸ばす——のではなく、指を突きつけた。
「マリア・バグース辺境伯令嬢! お前との婚約を破棄する!」
音楽が止まる。
周囲のざわめきも止まる。
マリアは驚きで目を丸くする。
「聞こえなかったのか? なんとか言ったらどうだ?」
ビシッと指を突きつけて、モルビド王国の第一王子ヴィトーリオ・モルディビアがマリアに迫る。
静まり返った会場で、王子はコツコツと小気味よく足音を鳴らす。
「なぜでしょう、ヴィト王子?」
「なぜだと? そんなの決まっている! 職業が〈蟲使い〉など気持ち悪すぎるだろう!」
職業〈蟲使い〉。
それが、昼に行われた「職業授与の儀」でマリアが授かった職業であり、人気者であったはずのマリアの周囲に人がいない理由である。
前例のない職業であり、いいか悪いかもわからない。「蟲」のイメージの悪さから、友人たちは声をかけることなく遠巻きにするだけだった。
「本気で、言っているのですか? 神より授かった職業を、気持ち悪いなどと」
「当然だ! なぜ職業〈王子〉である私が〈蟲使い〉などと結婚せねばならぬのだ! 卒業生には〈聖女〉も〈魔法使い:光〉もいるというのに!」
顔を赤くしたヴィトーリオ王子がまくしたてる。
この場で最も位の高い第一王子の怒気に、まわりはかすかに眉をひそめる。
対面するマリアは、怯えるでもなく王子を見つめていた。
「本当に、『職業を理由にヴィト王子より婚約を破棄する』ということでよろしいのですね?」
「くどい! ああ、それだけでは済まぬか。疾く王都から出ていくように。できるものなら汚らわしい虫どもを連れてな!」
「…………はい?」
「この美しい〈白亜の都〉に害虫が存在するのはお前のせいなのではないか? まったく、おぞましい」
「…………はあ?」
貴族の令嬢が出してはいけない声がマリアの口から漏れた気がするが、気にしてはいけない。
なにしろ王子のあまりの言いように、まわりはあからさまに顔をしかめている。
隠した扇の裏でぎりっと奥歯を噛みしめたのち、深呼吸すること二度。
周囲が固唾を呑んで見守る中、辺境伯令嬢マリア・バグースはニコリと微笑んだ。
「王子の命令とあらば、私はこれで失礼いたします。疾く立ち去りますので、婚約破棄の手続きは父とお願いいたします」
「うむうむ、わかったらこの〈王子〉の前より去れ」
うっとうしそうに手を振る王子に、マリアは背を向けた。
「今日の佳き日にお騒がせして申し訳ありません。みなさまはお気になさらず、ごゆるりとお楽しみください」
優雅に微笑んで、周囲に向けて一礼する。
背筋を伸ばして微笑んだまま、マリア・バグース辺境伯令嬢は卒業パーティ会場をあとにした。
残されたのは目の上の瘤がいなくなってご機嫌なワガママ王子と、マリアへの申し訳なさと国の行く末を案じて苦い顔をする卒業生ばかりである。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
卒業パーティ会場を出たマリアは、足早に馬車に乗り込んだ。
「よろしいのですか、お嬢様?」
「いいのいいの、これで堅苦しいのから解放されると思ったら、ね」
「かしこまりました。では屋敷へ戻ります」
「ううん、このまま領地へ戻るわ」
「……かしこまりました。着替えは隠しの中に」
「ありがとう」
馬車で待っていた侍女兼御者に声をかけると、マリアはすぐに箱馬車の床下から荷物を取り出す。
動きやすい服、愛用していた細剣、革鎧を並べる。
すぐに、マリアはドレスを脱ぎ捨てて着替え出した。
「『備えよ常に』の家訓をこんなにありがたいと思ったのは初めてかも」
箱馬車は高い位置に小さな窓しかなく、外から中を見ることはできない。
とはいえ、馬車の中で着替えるなどはしたなく、王子の婚約者だった頃にはたとえバレなくとも避けてきた所業だ。
もっとも、恥じらうことなく着替えるあたり、マリアの本質は「堅苦しいことは嫌い」で「マナーより実利を取る」方だったのだろうが。
いつもの——領地で過ごす時の——装備に戻ると、マリアは椅子に腰を下ろした。
御者席につながる小窓から、侍女兼御者と門衛らしき者が会話しているのが聞こえてくる。
「夜間の開門は禁じられています」
「火急の用にある辺境伯家の者を止めるというのですか?」
「うっ。それでも、門は開けられません」
「門衛さん、では通用口でけっこうです。通してください」
押し問答を続ける侍女と門衛に、マリアが割って入った。
巨大な門を開けずとも、脇の通用口さえ通らせて貰えばいい。
こっそり出ていくなど貴族としては褒められた行為ではないが、マリアとしてはいまさら知ったこっちゃない。
「そちらであれば……しかし……」
「困りましたね。王子から『疾く王都より出ていくように』と言われているのですが……」
「お、王子がですか!?」
「ええ。ゆえに取るものも取らずこうして外に出ようとしているのです。辺境伯家令嬢の私を疑うのであれば、王宮にお問い合わせください」
「い、いえ。では……」
先ほど王子に言われた言葉をそのまま伝えれば、門衛は顔を引きつらせながらも通用口を開けた。
「疾く王都より出ていくように」。
王子の言葉は明確である。
夜間の通門が禁じられているのは一般的な規則であり、王家の命令より優先されるものではない。
王子に婚約破棄を告げられてから一時間弱、卒業パーティはまだ行われているだろう。盛り上がっているかどうかは別として。
こうして、わずかな時間でマリアは王都を脱出した。
誰に止められることなく、事情を知ったほかの王族に手を打たれる前に。
そして。
「これで自由ね!……でもちょっとイラッとするのは確かなのよねえ」
王都の門からしばらく離れたのち、マリアは馬車を止めさせた。
丘から王都を望んで一人呟く。
「せっかくだし……お望み通りにしてあげるわ」
地面に膝をついて手を組み、魔力を高める。
モルビド王立貴族学園卒業生イチの、歴代でもトップクラスと評された魔力を全開で練っていく。
使い方は自然と理解できた。
それこそ、職業がもたらすものゆえに。
マリア・バグース辺境伯令嬢は、初めて職業〈蟲使い〉の能力を発揮する。
「〈蟲使い〉マリア・バグースが命じる。みんな、この辺から出ていって!」
周囲に変化はない。
〈魔法使い〉のように魔法が発現するわけでもなければ、〈剣聖〉のように空が斬れるわけでもない。
「ふうー、すっきりした! どれだけ効果があるかわからないけど、手応えあったしまあいいでしょう。これで満足ですかねヴィト王子?」
手をぱんぱんとはたいて立ち上がる。
ここにはいないヴィト王子に問いかける。
「すっきりした」の言葉通り、いい笑顔を浮かべて、マリアはふたたび馬車に乗り込んだ。
今度は止まることなく馬車を走らせる。
王都よりはるか遠く、バグース辺境伯領に向けて。
この時は誰も知らなかった。
〈獣使い〉は1〜5頭を使役するのがせいぜいであり、〈蟲使い〉もその程度だろうと思われていた。
張本人たるマリアさえも。
だが、獣と違って虫の知能は低い。自我が薄く本能に忠実で、集団として上位者の命令を聞くのも虫の特徴だ。
さらに、マリアの魔力量は200年続く王立貴族学園でも歴代トップクラスだった。当然、一般的な〈獣使い〉よりはるかに魔力は多い。
ゆえに。
〈蟲使い〉マリア・バグースの最初の命令は、想像以上の効果をもたらした。
マリア本人が考えるよりも。
ヴィトーリオ・モルディビア第一王子が望んだよりも。
いまはまだ、誰もその事実を知らない。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
「それで姫様は王都を出てきたってか」
「もう、『姫様』はやめてよ『ギルド長』」
「おたがいさまだな。……『マリア嬢』でいいか?」
「ここではイチ冒険者として過ごすつもりなの。だから『マリア』でお願いね、ギルド長」
「そいつはまた……」
婚約破棄と王都追放宣言から一ヶ月。
マリアはいま、辺境伯の領地の中でも外れにいた。
「『最前線じゃ、使えるものはなんでも使え』でしょ? 魔獣に対抗するには細かいことは言ってらんねえって」
「まあそれがここの冒険者ギルドのモットーだけどよ」
「それに、あんなのでも〈王子〉ですもの。領都で優雅に過ごして、また目をつけられたら大変でしょう?」
「辺境伯はそんなこと気にしねえと思うけどな。むしろ怒り心頭じゃねえか?」
「なだめるのはホント大変だったわ……『属したのは失敗だったな。再独立だ!』とか言い出しちゃって」
「おいおいおい、公国の復活か? 準備しねえと」
「大丈夫、私が『いまの方が自由でいい』って言ったから、復縁はないし独立もしないわ。…………たぶん」
「だといいけどねえ。んで、姫様はほとぼりが冷めるまでイチ冒険者としてここで過ごすと。遠慮なく使わせてもらうぞ?」
「望むところよ。もっとも、私も〈蟲使い〉に何ができるかわからないけどね」
バグス辺境伯領の外れは、モンスターがはびこる魔境と接した最前線だ。
都市は石造りの外壁で囲まれ、領地、ひいては王国の安全を守るために騎士や兵士が駐屯している。
また、この地では冒険者も戦力として数えられている。
騎士と兵士は大人数で防衛にあたり、冒険者たちは少数で魔境に潜入し、魔獣を倒す、稀少な素材を収集する、と役割分担されている。
騎士や兵士と冒険者は、たがいにいがみ合うことなく協力体制を築いていた。
そうしなければ魔獣に飲み込まれるので。
辺境でも外れのこの都市は、『使えるものは何でも使う』気概がなければ立ちいかないのだ。
たとえばそれが、どんな職業であっても。
「〈蟲使い〉か。〈獣使い〉と同じ、使役系の職業だと思うんだがなあ。なにぶん、冒険者ギルドにも記録がねえ」
「いろいろ試してみるわ。職業取り立ての、新人冒険者としてね!」
「ギルドも協力しよう。ただ身分を隠すってんなら不届き者が出てくる可能性も……」
「お嬢様に害なす敵は私が殺します」
「侍女に何ができ……待て、その顔、その声、その気配。お前『宵闇のエッダ』か?」
「ご無沙汰しております。街の名物冒険者がギルド長になられたようで」
「暗殺者が侍女ってどうなってんだ……あー、んじゃ不届き者は心配いらねえか。エッダ、もし襲われてもできるだけ殺すなよ」
「あら。平和ボケしましたか?」
「違えよ。『死んでもいい犯罪者』ってのも使い道があるからな」
「こわっ。ギルド長こわっ」
「『使えるものはなんでも使え』ってな。こんな街だけどよ、歓迎するぜ、新人冒険者さん」
「はい、よろしくお願いします」
ニイッと笑うギルド長に、マリアと背後に控える侍女はぺこっと頭を下げた。
こうして、辺境伯令嬢マリア・バグースは身分を隠して冒険者となる。
神から授かった職業〈蟲使い〉を、領地の役に立てるために。
ひょっとしたら、そこには王子への反発もあったのかもしれない。
『気持ち悪い』と言われた職業は、こんなに力があるのだと。
とにかく。
のちに国内に、いや、近隣諸国に轟く冒険者『魔境の支配者』マリアの活躍はここからはじまった。
同時に、モルビド王国の凋落もまた、ここからはじまった。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
「わあ! 見て見てエッダ! かっこいい虫!」
「カブトムシに興奮するなど少年ですかお嬢様」
「黒光りする硬そうな殻、ビッと尖ったツノ……テイムできないかしら」
「よろしいのですか、お嬢様? 魔境には手のひらサイズのカブトムシよりも強い虫系魔獣がいると思いますが」
「うーん、魔力は感じるし、成長に期待ってことで!」
マリアが辺境の街の冒険者ギルドで、新人冒険者として登録した翌日。
マリアと侍女兼御者兼護衛のエッダは、国境を越えた先にある「魔境」に来ていた。
新人F級冒険者として受けた依頼「薬草採取」のためである。
あと職業〈蟲使い〉に何ができるか、調べるために。
「じゃあさっそく……テイム!」
「いかがですか?」
「うん、魔力のパスがつながったわ。〈獣使い〉みたいに、虫を使役できるみたい」
「なるほど……」
木に止まっていたカブトムシは、マリアの手を経て胸元に止まる。
革鎧につけたブローチのように。
「食事は木の蜜か、魔力だけでいいみたい。あとはどれぐらい言うこと聞いてくれるかね」
「何ができるかも疑問ですが……」
「その辺も試していきましょう! さーて、じゃあ薬草を探しながら昆虫採集ね!」
「少年ですかお嬢様……けど王都にいる時より活き活きしてて尊い……」
上機嫌ではしゃぐマリアを見て、エッダはちょっと涙ぐんでいる。
仕える主の本質はこちらなので。
ともあれ、こうして新人冒険者マリアは初めて配下を得た。
〈蟲使い〉としての成長は順調である。
「ヴィトーリオ王子」
「ファビオか。して、どうだった?」
「このところ王宮で油虫や害虫を見ることはなくなったとのことです」
「ふははははっ、そうかそうか! やはりあの女が虫を操っていたのだな!」
マリアが去った王都。
王宮で過ごすヴィト王子もまた、側近の報告を受けて上機嫌だった。
傅く側近の渋い顔は目に入らない。
「王宮以外の都市内ではどうなのだ?」
「通いの者に聞くに、王都全体でも減っているようだと」
「この『白亜の都』に虫はふさわしくない。あの女を追放した私の目に間違いはなかったな、うむうむ」
王宮も、それどころか王都全体でも虫を見なくなった。
側近からそんな報告を受けて、王子はニマニマと笑みを浮かべていた。
それが何を意味するかも知らずに。
「ビート、鶏冠木を探してくれるかしら? マダムは月樹花をお願いね」
マリアの頼みを受けて、配下の二匹が飛んでいく。
手のひら程度の大きさだったカブトムシは、マリアから離れると人間ほどのサイズに巨大化し、バキバキと邪魔な枝を折りながら飛び去る。
腕に止まっていた蝶もまた、人の上半身を隠せるほどのサイズになってひらひらと飛んで行った。
「すっかり虫を使いこなしてますね、お嬢様」
「どうかな、〈蟲使い〉はもっといろいろできそうな気がする。あの子たちのおかげで助かってるのは確かだけど」
「植物素材を見つけるのはお手の物ですからね」
「うん。おかげで半年でCランクまでアップしたし」
「もう立派な中堅冒険者かと思います。周囲からも一目置かれていてさすがお嬢様」
「中堅って言うには経験が足りないかな。それに……せっかくここにいるんだし、バグース領をもっと安全にしたいと思ってるんだ」
「素晴らしい志です、お嬢様」
「ついてきてくれてありがとう、エッダ」
「もったいないお言葉です……おや?」
「あれは、兵隊蟻かな?」
「お気をつけください。コイツらは『一匹いたら千匹はいると思え』と言われる群れなす魔獣です。一匹あたりは弱いのですが、数の暴力は恐ろしいもので」
「へえ……質より量。しかも『蟻』ね」
「お嬢様?…………まさか」
いいことを思いついた、とばかりにマリアが目を輝かせる。
わずか半年の冒険者生活だが、マリアは『使えるものはなんでも使え』という当地の冒険者ギルドの考えにすっかり染まったようだ。
なにしろ地元なので。
「おい、蜂蜜がないではないか。パンケーキにはグロウ産の蜂蜜だと言っているだろう?」
「申し訳ありません、王子。ただいま厨房に確認してまいります」
「まったく使えぬヤツめ。ん? どうしたファビオ?」
「恐れながら、ヴィトーリオ王子。厨房にもグロウ産の蜂蜜はないかと思います」
「は? チッ、では仕方ない、どこか別の蜂蜜を持て」
「それも難しいかと」
「どういうことだ? 俺をバカにしているのか?」
「いえ……およそ半年と少し前から、王都と周囲の領では蜂蜜が取れなくなっているのです」
「は? グロウ男爵領では飼い慣らしているのだろう? 森でも採れると聞いたぞ?」
「それが、まったく取れなくなったのです。蜂がいなくなったと」
「いなくなった、だと……?」
ヴィト王子が顔をしかめる。
小さく頭を振って、なんとなく思い当たった「いなくなった理由」を振り払う。
「ふん、気が変わった。今日はメイプルにしよう。すぐに持て」
「はっ」
蜂がいなくなった理由について、ヴィト王子は考えるのをやめた。
代用品はある。ならば蜂蜜が取れなくなったところで何の問題もない。
だから自分のせいではないし、知ったことではない。
そう己に言い聞かせて。
「下がれ、姫様。手伝ってくれんのはありがてえけど、さすがに怪我させるわけにはいかねえ」
「いいえ、ギルド長。『使えるものはなんでも使う』のでしょう? ならば、いまこそ〈蟲使い〉が働く時です」
王都よりはるか遠く、バグース辺境領。
領地の中でも外れ、魔境に接する街の先に、騎士や兵士、冒険者が集まっていた。
「魔獣大暴走から領地を守るのは貴族の務めですもの」
バグース辺境伯領と魔境を隔てるものは何もない。
平野にポツポツと木立が生えて、やがて森になる。
その森から先を「モンスターはびこる魔境」と呼んでいるだけで、明確な境界はない。
「それに……〈蟲使い〉は、集団戦でこそ活きる職業のようです」
「集団戦でこそ、だと? 一年でAクラス、上級冒険者に上り詰めた姫様がなに言ってやがる」
「いまからその能力をお見せしますわ。クイーン、壁を」
地面に向けてマリアが言うと、ぼこっと小さな穴が空いた。
ギチギチと顎を鳴らして一匹の蟻が顔を出す。
蟻はコクンと頷くと、人には聞こえない音を発した。
騎士や兵士、冒険者たちの目の前で、平野の一部が盛り上がる。
ボコボコと土が隆起してつながり一本の線となる。
あっという間に、土の壁が完成した。
「兵隊蟻、か?……女王は初めて見たぜ」
「兵士や冒険者のみなさんはここから遠距離攻撃をお願いします」
「ああ、そりゃかまわねえけどよ。姫様は? まさか打って出るつもりなんじゃ」
「いえ、私もここから見守ります。兵隊蟻の補助はマダムが」
「使役してるっていう幻惑蝶々か。敵は獣系に小鬼、オーガあたりって話だ。抜群に効くだろうよ」
「そして……打って出るのは、ビート、お願いね」
「突撃甲虫、なのか? そんな迫力ある個体見たことねえぞ」
「ふふ、ビートは特別だもの」
腕から飛び立った蝶が、胸から離れたカブトムシが巨大化する。
マリアはにっこりと、黒光りするカブトムシの硬い殻を撫でた。
カブトムシは応えるようにツノを振る。
「数には兵隊蟻で対抗して、マダムが混乱させて、ビートが突っ込む。〈蟲使い〉の本領発揮ね!」
「虫系の魔獣が味方だとこんな心強いかね。……姫様がここにいてくれてよかったぜ」
即席の土壁の向こうに兵隊蟻が並ぶ。
魔獣大暴走の兆しか、森からはちらほらとモンスターが出てきた。
「さあみんな、戦るわよ! 虫のすごさを見せてあげましょう!」
〈蟲使い〉マリアが声をかけると、虫たちは一斉に動き出した。
安全な壁の内側に、騎士と兵士と冒険者を置き去りにして。
「陛下が倒れただと? いつもの発作だろう? 薬を飲ませれば落ち着くのではないか?」
「それが……薬草院に薬がないと……」
「はあっ!? 薬師どもは何をしているのだ!?」
「強心草が一切実をつけなかったそうで……いま遠方より取り寄せているのですが、陛下の容体は悪く……」
「すぐに見舞う。戻り次第、陛下の執務を俺にまわせ」
「はっ。かしこまりました」
「草の管理ひとつできんとは、無能な薬師どもめ!」
言い捨てて、ヴィト王子は苛立たしげに靴音を鳴らして部屋を出た。
強心草は花を咲かせたのになぜ実をつけなかったのか、考えることもせずに。
結局、国王は一命を取り留めたものの、すぐ執務に復帰することはできなかった。
モルビド王国には暗雲が立ち込めていた。誰も——少なくとも第一王子は——気づかぬうちに。
「姫様のおかげで誰一人犠牲になることなく魔獣大暴走を撃退できた。冒険者ギルド長として感謝を」
「バグース家の者として当然のことをしたまでです。私はこの街の冒険者でもあるのですし」
「姫様がいてくれたことで本当に救われたんだ。……おかげで、報酬どうするか頭が痛くなるほどな」
「まあ」
「Sランクは間違いねえんだけどよ、名誉だけってわけにはいかねえからなあ」
「では、リクエストを聞いてくれるかしら?」
「おう、なんだ?」
「魔境の一部に、冒険者立ち入り禁止のエリアが欲しいの」
「この辺の土地をくれってわけじゃなく、魔境にわざわざ? どういうことだ?」
「魔境に、住処を作ろうと思うの。迷い込むならともかく、冒険者に討伐に来られるとちょっと困るなーって」
「あー、なるほど。虫たちの。姫様がそれでいいってんだったらそれぐらい認めさせるけどよ……」
「ありがとう、ギルド長!」
「まあ魔境は誰の土地でもねえからな、冒険者に立ち入らねえよう言い聞かせるだけだ。決まったら場所を教えてくれ」
「はーい!」
よほど嬉しかったのか、マリアは満面の笑みで子供に戻ったかのような返事をする。
背後では侍女兼御者兼護衛のエッダが鼻血を抑えている。
こうして、バグース辺境領の危機はあっさり過ぎ去った。
一人の女性——職業〈蟲使い〉の辺境伯令嬢マリア・バグースがいたおかげで。
「はあ!? 不作だと!? どこの領地だ!」
「それが……王都周辺の王領、それに王都に近い有力貴族ほど不作だと……」
「どういうことだ? 今年は長雨も日照りもなかったろう? 魔獣の被害も聞かぬぞ?」
「成ったはずの実がカラなのです。原因は不明でして……その、一部の者が言うには『呪い』ではないかと……」
「何を言い淀む、すべて話せ」
「では……『王位にないのに王のごとく振る舞う第一王子に、神がお怒りになられている』と市井の者が……」
「なんだと!? 陛下は持病で倒れられただけだ! 俺だって好き好んで執務しているわけではないッ!」
「お、落ち着いてくださいヴィド王子。みなわかっております」
「くそっ、くそッ! どいつだそんな話をしてるヤツは!」
「いまはそれより不作への打ち手を考えましょう。根も葉もない噂を流した者への処罰はそれが収まってからで——」
「当然だッ! これほどの規模の不作となれば……辺境の貴族たちから供出させるしかあるまい」
「しかし、それでは不満が」
「では飢えろというのか?! あるところから取るしかなかろう!」
「はっ」
ヴィド王子の怒気を前に、側近が頭を下げる。
安直な打ち手だが、必ずしも間違っているわけではない。
だが、これをきっかけに、辺境貴族たちは第一王子の政治に大いに不満を抱くのだった。当然である。
モルビド王国の暗雲はますます色濃くなっていく。
舵取りを間違えた第一王子のおかげで。
「小さいけど綺麗な水質の池もある。うん、いいんじゃないかな!」
「よいのですかお嬢様? 魔境でもだいぶ深く、拠点とするとなれば物資の運搬に手間がかかるかと思いますが」
「大丈夫よ、エッダ。私に考えがあります!」
「……なんでしょう、すごく不安なのですが」
「ビートは飛べるし、本来の姿は大きいし力も強いでしょう?」
「はあ。…………まさか」
「専用のカゴでもあれば、人でも物でも運べると思うんだ!」
「正気ですか、お嬢様? 空にも魔獣はいますよ?」
「そこはほら、ビートが戦ってもいいし、マダムも飛べるわけだし」
「なるほど。無謀というわけでもないのですね」
「ということで! ここに! 私たちの拠点を作ります!」
「…………かしこまりました」
バグース辺境伯領を出て魔境に分け入ること三日。
山のふもと、湧き水の小さな池のほとりに、マリアと侍女のエッダの姿があった。
もちろんマリアの胸にはブローチのようにカブトムシが、マントにはアクセサリーのように蝶が止まっている。
マリアが足を踏み鳴らすと、地面からは一匹の蟻が顔を出した。
モルビド王国の国外となる魔境。
マリアは、ここを自分とエッダ、それに配下の虫たちの拠点にすることに決めたようだ。
さすがに、街中では魔獣である虫を本来の大きさにするのは憚られたので。
それに。
「さーて、この辺にはどんな虫がいるかなー」
「お嬢様、また増やすおつもりですか?」
「せっかく拠点を作るんだもの、維持管理できるようにしないとね!」
「はあ……」
〈蟲使い〉としてテイムできる限界は、いまだ訪れていないので。
「ヴィトーリオ王子、また陳情の方がいらっしゃいました」
「ええい、待たせておけ!」
「しかし、今度は北方の貴族が連れ立って……」
「くそッ、国の現状も理解せず税への苦情ばかり! 陛下はどうした、まだ対応できるほど回復してないのか?」
「はっ。いまだ伏せっておられます」
「くそっ、くそ! 何もかもうまくいかん!」
執務机に座ったヴィド王子が頭をかきむしる。
不作は王都周辺でなお続き、遠方領地にのみかけた税に対して領主から突き上げを喰らい、国王はいまだ病に伏せったまま。
蜂蜜や果物といった一部の作物は収穫できず、ただでさえ荒れた王宮内の薬草院は薬師を何人も首にしたため機能していない。
王子の悩みは増すばかりである。
「なんだ、何が悪かった。まさか……きっかけは、あの女、か?」
「ヴィトーリオ王子?」
「あれから運に見放された。ならばあの女を……そうだ、婚約者に戻してやる見返りに、辺境伯から金も食糧も供出させればいい。なんだ、手はあるじゃないか」
「王子……? 王子!」
「ファビオ、俺はしばらく出る。早馬を用意しろ。護衛の騎士もな」
「……はい? どちらへ?」
「バグース辺境伯領に決まっているだろう! 察しろ、無能め!」
返事を待つことなく王子は立ち上がる。
マントを翻して、諸問題はこれで解決できる!と思い込んで颯爽と歩いていく。
なぜこうなったか原因を探ることなく、思いついた短絡的な解決法を信じて、かつての婚約者の元へ。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
「お嬢様、よろしければお茶を」
「ありがとう、エッダ」
小さな池と平屋のログハウスの間に設けられた芝生の広場。
猫足のテーブルとイスが置かれたそこで、マリア・バグースがくつろいでいた。
マリアが魔獣大暴走を撃退し、魔境に拠点を構えてから一年ほど。
新たな配下のテイムや獣系魔獣の襲撃、予想以上に難航した飛行計画と物資の運搬、けっきょく職人を連れてきてなんとかした家の建築を経て、生活はようやく落ち着いてきた。
侍女兼御者兼護衛であるエッダが、侍女に集中できるほどに。
「どうですか、お嬢様」
「あいかわらず美味しいわ。さすがね、エッダ」
「いえそちらではなく」
「そうね、そろそろかな」
うららかな午後の昼下がり。
優雅にお茶を楽しむマリアは、カップを置いてチラッと森を見た。
「ようやく、ようやく見つけたぞマリア・バグース!」
獣道を遮る枝をかきわけて、現れたのはモルビド王国の第一王子ヴィトーリオ・モルディビアであった。
苦労してきたのか、ロイヤルブラックのマントはほつれ、ところどころに植物が絡んでいる。
王子のあとに護衛らしい騎士が五人、側近が一人続く。
いずれも疲れた表情である。
「あら、おひさしぶりですヴィト王子。ずいぶんくたびれてらっしゃるようで」
「そうだ! なんだこの森は、なぜこんなところにいるのだ! おおかた、俺から隠れるつもりであったのだろう!」
「そんなことはありませんけど……それで、第一王子がはるばるこのようなところに何用でしょうか?」
「何用だと? ふん、決まっている。お前を俺の婚約者に戻してやろう」
「……は?」
「婚約者に戻してやる。そのかわりに、バグース辺境伯に食料と資金を供出してもらおう」
「…………は?」
「光栄に思うがいい。〈蟲使い〉などという気持ち悪い職業の女を婚約者にしてやるのだから」
「ヴィト王子、正気ですか?」
「ああそうだ、王都に虫を戻すことは許さん。それぐらいできるだろう?」
「なに言ってんだコイツ」
話を聞かず一方的に語るヴィト王子に、マリアは呆れた表情だ。
会話にならずに王子の背後を見る。
と、騎士も側近もしかめっ面をしていた。
マリア同様「なに言ってんだコイツ」とばかりに。
「さあ行くぞ。まったく、なんで俺が魔境なんぞにわざわざ来ねばならんのか。そうだ、帰りにバグース辺境伯に旅費をもらうとしよう。慰謝料として」
ブツブツ言いながら王子が踵を返す。
その背は「マリアがついてくる」ことを疑いもしない。
だが。
「いまさら戻るわけないじゃないですか。追放したのは貴方ですよ?」
「……は? いまなんと言った?」
「いまさら戻るわけないじゃないですか。『王族は口にした言葉を呑み込めない』って教わりませんでしたか?」
「それは」
「みんなの前であんなにはっきり言ったんです。いまさら『間違いでしたー』なんて通じるわけありません。そんなことしたら、ヴィト王子の言葉を信用する者はいなくなりますよ?」
「ええい、うるさい! お前は口答えせず戻ってくればいいんだ!」
「はあ……学生時代はもうちょっとマトモな人だと思ったんだけどなあ……」
「どうしても戻らんというのか! ならば——」
王子がマリアを睨みつける。
そして、ビッと指を突きつけた。
あの婚約破棄の時と同じように。
「捕えろ! 無理やりでも連れ戻すのだ!」
「し、しかし、王子…………」
「この〈王子〉の言うことが聞けないのか!? ええい、早く捕えろ! 逆らえばどうなるかわかっているだろうな!?」
ためらう騎士に命じると、五人の騎士は嫌そうな顔をしながら王子の前に出た。
感情はどうあれ、上位者の命令は聞かねばならない。なにしろ命令したのは王族なので。
「マリア・バグース辺境伯令嬢。申し訳ありませんが……」
言いながら、騎士はマリアを半包囲する。
じりじりと近づいてくる騎士を前に、マリアはため息を吐いた。
「はあ……仕方ありません」
「お嬢様? 戻られるのですか?」
「まさか。みんな、お願い」
「ふん、何を言っているのだ。ここにいるのはお前と侍女の二人だけと聞いて——」
マリアが合図をすると、騎士の姿が消えた。
唐突に。
王子の護衛を務めるほどの実力者たち五人が、全員。
「うっ、うわああああ!」
「なんだこれは!? 落とし穴!?」
「嘘だ、罠は確かに存在しなかった! 〈狩人〉の目はごまかせないはずで!」
落とし穴である。
いや、「罠としての落とし穴」ではない。
「ア、アリ? 群れで? 構えろ! 兵隊蟻だ!」
かつて辺境の街を守る際、兵隊蟻は瞬時に土壁を造り上げた。
今回はその逆、掘り下げたのだ。
「——は?」
一瞬にして騎士が無力化された王子は、ぽかんと口を開けて何があったか理解していない。
「ありがとう、クイーン。けど戦うのはマズいかな、騎士さんたちは強いし傷つけたくないから」
「ではお嬢様、僭越ながら私が」
「ううん。お願い、マダム」
落とし穴の上空、騎士たちの上を蝶が舞う。
キラキラと光る鱗粉を振り撒きながら。
「なっ、これは」
「幻惑蝶々!?」
「馬鹿な、我らの耐性を抜くなど」
「あっ、おかーさまー。ぼくがんばってるんです、おばかなおうじのしたはたいへんだけどー」
「おいっ、目を覚ませ! くっ、ダメだ…………」
抵抗むなしく、騎士たちはバタバタと倒れていった。
瞬殺である。
いや、殺してはいない。眠っているだけだ。
「そ、そんな、近衛騎士でも精鋭を連れてきたのだぞ!? それがこうもあっさりと!」
「お嬢様はいまやSランク冒険者ですから」
「さあ、大人しくお引き取りください、ヴィト王子。彼らはあとで街に届けておきます」
「ええい、認められるか! 俺は職業〈王子〉なのだぞ!」
血走った目で、ヴィト王子が剣を抜く。
うおー!と叫びながらマリアに襲いかかって。
ガキンッ!と硬質な音で、弾かれた。
職業〈蟲使い〉マリア・バグースの最初の配下。
突撃甲虫が、マリアの前に立ちはだかったのだ。
攻撃を受けて、巨大なカブトムシがヴィト王子に顔を向ける。つまりツノを向ける。
無機質な黒眼で王子を見る。
足をわしゃわしゃ動かして方向を変える。
「ヒッ!? む、むし!? ここここんなおっきな!?」
「…………王子?」
「ひえっ、いやだくるなくるな虫は嫌いだやめてくれ虫はダメなんだやだやだやだ、ひっ」
白目を剥いて、王子がぱたん、と倒れた。
蝶の鱗粉でもカブトムシの特殊攻撃でもない。
「ヴィト王子、虫が嫌いだったんだ。こんなにかっこよくて綺麗なのに」
「お嬢様。もう慣れましたが、このサイズは私もちょっと最初アレでした」
「えー? みんなよく言うことを聞くいい子だよ?」
「そう理解したので恐れはなくなりましたが……」
王子を受け止めようとしたのだろう、側近は王子の下敷きになって失神している。
王子、騎士が五人、側近一人。
倒れる七人を前に、マリアは頭を抱える。
「ところでお嬢様。コレはどうなさいますか? 魔境に放り出しますか?」
「そうはいかないって、王子だもの。はあ、やっちゃったなあ……お父様に迷惑がかからないといいんだけど……王子だしなあ…………」
「ソレはこちらで引き取りましょう」
「誰!?」
「お下がりくださいお嬢様!」
「そんな、みんなの警戒網にもエッダの索敵にも引っかからないなんて!」
「擬態が得意なのは虫だけではないのです。……おひさしぶりです、マリア嬢」
「ガウくん……?」
「そう呼ばれるのもひさしぶりです。この度は……いいえ、あの『職業授与の儀』以降、兄が申し訳ありませんでした」
マリアの前に現れた男が深々と頭を下げる。
その身には、闇夜よりも深い黒のマントをまとっていた。
王族のみが身に付けることを許されるロイヤルブラック。
モルビド王国の第二王子ガウディーノ・モルディビアである。
「許してくれとは言えません。ですがどうか、兄の身柄はお譲りください。こちらで処罰しますので」
「う、うん、それはかまわないけど……」
「もちろんマリア嬢にも、バグース家にも罪はありません。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「迷惑……今日のはアレだったけど、いま思えば婚約破棄も追放もよかったかな」
「よかった、ですか?」
「うん。あのまま結婚して、王宮に入ったらこんな生活できなかったもの。みんなとも出会えなかっただろうし」
そう言って、マリアは胸にブローチのようにカブトムシを、腕に蝶を止める。
もちろん、〈蟲使い〉の能力でどちらも小型化している。
「職業を使いこなしているようで何よりです」
「あっ! 一つ下だったからガウくんも職業を授かったんだよね? なんだった?」
「僕は〈植物学者〉でした」
「へえー」
「なるほど。木を隠すなら森のなか。植物を利用して気配を隠していたのですね」
「マリア嬢、兄がコレですから、今後は王都に戻ることもできます。もちろん戻らなくてもかまいません。虫も戻りつつありますしね」
「うーん。今後は行くかもしれないけど、いまはいいかなあ。ここの暮らしが楽しくって」
「そうですか」
「あっ、ガウくん一人でこの人たちを王都まで連れて帰るの?」
「最寄りの街までは一人ですね。まあ、騎士を起こして命じればなんとかなるでしょう」
「だったらビートに送らせようか? うん、それがいいよ! ビート!」
「え?…………え?」
マリアの合図で胸元のカブトムシが飛び立つ。
空中で巨大化する。
だが、ガウディーノ王子が驚いたのはカブトムシが大きくなったせいではない。先ほど突撃甲虫の真の姿を目にしている。
ガウディーノ王子が驚いて顔を引きつらせたのは、巨大カブトムシが馬車の荷台を抱えて飛んできたからだった。
「どうする、街までにする? ガウくんなら門衛に説明できるだろうから、王都まで飛んでもいいけど」
「あの、マリア嬢。まさかとは思いますが、これに乗って……? 空を…………?」
「地上を行くより揺れなくて快適だよ。あ、外が見えないのが嫌だった? なら屋根なしの荷台もあるけど」
「いやいやいや! そういうことではなく!」
モルビド王国に空を飛ぶ交通手段はない。
どこぞの国にはワイバーンに騎乗する〈竜騎士〉が存在するそうだが、モルビド王国にはいない。
〈獣使い〉が使役獣に乗って馬より早く移動するのがせいぜいだ。
「近くの街なら一時間ぐらいで、王都なら陽が出てるうちに着くんじゃないかなあ」
「そんなに早いのですか……? なら……そうですガウ、ここは覚悟を決めるべきです。もし落ちてもクッションになる植物を用意すれば、いや、幌で速度を落とせば……綿毛で飛ぶ植物の種だってあるんです、ならば人間とて……」
ガウディーノ王子がブツブツと考え込んでいる間に、カブトムシは荷台を地面に置いた。
侍女のエッダが騎士と側近をぽいぽい放り込んでいく。
「わかりました。マリア嬢を信じて、空を行きましょう。貴重な機会をありがとうございます」
「どういたしまして!」
ガウディーノ王子は覚悟を決めたようだ。
マリアは王子の悲壮な表情に気づかない。エッダは理解したようだが、静かに頷くだけで止めなかった。
「準備はいい?」
「はい。……マリア嬢」
「なに、ガウくん?」
「兄があんなことしておきながら厚かましいのは重々承知ですが……また、ここに来てもいいですか?」
「もちろん! いつかみたいにお茶しよう。ヴィト王子は同席してほしくないし、王宮の庭園とはまるで違うけど!」
「充分です。いえ。植物も虫も生き生きしている。王宮の庭園より美しい場所だと思います」
「そう? ありがとう。それじゃあビート、よろしくね! マダムも護衛をお願い!」
マリアが指示を出すと、カブトムシは羽を広げて飛び立った。
腕に馬車の荷台を抱えて、軽々と。護衛役の蝶を馬車の横に止めたまま。
小窓の向こうで、地面を見下ろすガウディーノ王子の顔色は青い。
「また来ます。あの時は兄の婚約者だからと遠慮しましたが……いまなら…………」
池のほとりで手を振るマリアには、婚約者の小さな弟だった「ガウくん」の呟きは届かなかった。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
第一王子ヴィトーリオ・モルディビアと第二王子ガウディーノ・モルディビアが魔境を——マリアの拠点を——訪れて半年後。
モルビド王国の次の王位を継ぐ王太子が決まった。
貴族や官僚の評判を落とした〈王子〉のヴィトーリオ王子ではなく、〈植物学者〉として不作に対処し現国王の病を癒やす薬草を確保した第二王子のガウディーノ王子に。
また、王位争いに敗れた第一王子は、王家の籍を抜けて国内の貴族に婿入りすることが決まった。
不作のため重税を課した辺境の侯爵家に、「王家の血筋という権威づけを与える」慰謝料がわりである。
王家ではなくなってもヴィト王子の職業〈王子〉は変わることはなかったという。
もっとも、過酷な地で揉まれてヴィト王子の性根は叩き直されたとか。田舎では虫はつきものだし。
そして。
Sランク冒険者マリア・バグースは、職業〈蟲使い〉の能力を活かして魔境の開拓を続け、モルビド王国の国土を広げる原動力となった。
本人は「増え続ける配下にあわせて奥に奥に進んだだけなんだけど……」と自覚なしである。
モンスターがはびこる魔境はまだまだ広く、冒険者の仕事は尽きない。
ただ、マリアとその配下たちが築いた防衛線により、魔境内にも「リスクの少ない仕事」が増えたようだ。
噂では、マリア配下の虫たちの勢力圏はバグース辺境領の広さを越えているのだという。
迷い込んでもいつの間にか眠らされて外に出されるため、許可なく立ち入る——立ち入れる——冒険者はおらず、マリアと虫たちは自由な楽園生活を謳歌しているとか。
ただし。
辺境の街では、時おり空を飛ぶカブトムシと植物に覆われた荷台が目撃されていた。
王子とある貴族令嬢の婚約破棄をきっかけにはじまったモルビド王国の凋落は止まった。
それどころか、いまでは魔境産の魔獣素材や植物の発見によって国力は拡大の兆しを見せている。
ちなみに、〈植物学者〉で王太子のガウディーノ・モルディビアは国内・国外から持ち込まれた無数の縁談を断っており、いまだ婚約者がいない。
名前も素性も不明な、王太子の「自由に生きている想い人」の存在は、吟遊詩人の格好の題材であった。
巷では王太子が想い人を射止められるかどうか賭けも行われているという。
それを知った王宮も咎めることはなかった。国が平和になった証である。
なお、賭けの結果は誰も知らない。
何年経っても、何十年経っても。
ただ、時おりふらっといなくなる王太子——のちの国王——は、帰ってくるたびに幸せな表情をしていたとか。