私と世界と一匹のアリ
私は、一匹のアリだ。
アリ。そう、あの黒くてちっちゃな存在さ。そもそも、アリという名前は君たち人間の受け売りなんだけど、なんとなく気に入ったので、そのまま使ってたりする。なんと言っても、その響きがいいじゃないか。アリ……アリ……アリ……うん。素晴らしい。それに私は、これから君という人間に向けて話そうと思ってるわけだし、それならその名前の方が分かりやすいだろう? 私からのささやかな気遣いさ。アリがたく受け取ってくれたまえ。
さあ、本題に入ろう。今日のテーマは……え? いったいどうしてアリなのに日本語を喋れるのかって? くだらないことを聞くもんだね。そんなの、勉強したからに決まってるじゃないか。もしかして、学校があるのはメダカだけだと思ってたりする? ダメだよ、そんな狭い視野じゃ。なら言わせてもらうけどさ、私なんて、君よりよっぽど多くの言語を喋れると思うよ。日本語、英語、フランス語、ヘブライ語、アシュクン語、カータ語、ケレス語…… わかったかい? アリだからと言って、私を舐めないでもらいたい。
……こほん、ということで今日のテーマなんだけど……って、何さ? まだ聞きたいことがあるの? まったく、アリの話を聞こうとしないんだから! で、何を聞きたいの? その口でどうやって人間の言葉を発しているのかって? ぐむむ……君は難しいことを聞くね。正直なところ、それは私にも分からないんだ。私は全てを知っているアリス——ああ、キミたち風に言うとゼウスか——ではないんだから。だからまあ、そこに関してはご愛嬌ってことで。いつか理由が分かったら、君に真っ先に伝えようと思うからさ。今日のとこは見逃してよ。うん、アリがとう。
よし、それじゃあ三度目の正直ってことで、もう邪魔はしないでくれ。それで、今日私が話すテーマはずばり、世界のはじまりについてだ。
君はさ、どうやって世界が始まったんだと思う? うん、うん……ああ、ビックバンね。やっぱりそう言うと思った。人間たちの間では、それが常識なんだもんね。まあ、アリたちの中でもそれが定説になってるんだけど。でもね、私はそれに異論を唱えたい。
ビックバンが本当に起きたのだとして、だったらその前には何があったんだろう? こう考えてみると、おかしい点が出てくるんだ。まず、ビックバンの前の状態には二つの可能性があるね。そう、何も無いのか、何かが有ったのか——その二択だ。
まずは、何も存在しなかった可能性の方から考えよう。普通に考えて、これはアリ得ないと思うんだ。だってさ、ゼロからイチが生み出されるなんて、君にも想像できないだろう? 私たちがその数を増やすことができているのは、その根元にイチがあったからだ。イチはニになれるし、二はヨンになれる。ヨンはハチに、ハチはジュウロクに。でも、ゼロがイチになるのは、それこそ世界のはじまりに至っても無理だと思うんだ。だから、この説はボツになる。
次に、何かが有ったという可能性について考えよう。その何か、ってのは分子かもしれないし、一つの点かもしれない。もしかしたら、たった一匹のアリなのかもしれない。まあそれに関しては一旦置いといて、これは一見、正しいように思えるだろう? たった今私が言ったように、何かがアリさえすればそこから世界は無限に広がっていけるんだから。ふうむ。反応を見るに、どうやら君もしっくりきちゃってるみたいだね。けれども、この考えにも覆すことのできない欠点があるんだ。それはそう——だったら、その”はじまりの存在”自身はどのようにして作られたのか、ってことだ。どうだい? 唯一無二にして、最強の欠点だと思わないかい?
ほうほう、それを作ったのは神様なのではないか、と。ははは、君ってば、本当に思慮が浅いのかおっちょこちょいなのかバカなのか。それに、信仰の薄いことで評判な日本人の口から、神様というワードが聞けるとは思ってもいなかったよ……人をあまり馬鹿にするなって? いやいや。馬鹿にしたくもなるさ。だって君の意見はさ、問題を一つ増やしただけで何も解決していないじゃないか。例えば君の言うとおり、原初の存在を作ったのが神様だとして。それじゃあ、その神様は誰が作ったんだい? それも神様? だったら、神様を作った神様を作った神様は? 神様を作った神様を作った神様を作った神様は? これでもう分かったろう。世界が始まる前に何かが存在したという考えも、間違っているんだ。
つまり、世界の始まる前には何も無かったわけでもなければ、何かが有ったわけでもないんだ。
それなら、どうやって世界は始まったのかって? まあまあ落ち着きなって、それをこれから話すんだよ。
ここはもう、結論から先に言おう。驚いて腰を抜かすんじゃないよ。それじゃあ、言うね。
———この世界に、はじまりなんて無かったのさ。
どうよ。これが私の考えた最強の説だ。はじまったことが説明できないというのであれば、そもそもはじまってすらいないんだよ。至極単純だろう? でもね、この世の真理ってのはいつも驚くほどに単純なのさ。
それじゃあ、私の説を具体的に話していこうと思う。この世界——そう、今私と君とがこうして話している世界のことさ——はね、誰かの頭の中にあるんだ。その誰かってのは、私たち世界の住人には知ることはできない。世界にとって、私たちはあまりにも小さすぎるからね。私たちの住む世界は、人間の頭の中にあるのかもしれないし、神様の掌の中にあるのかもしれない。どうだい? ついてこれてる? あまりにもスケールの大きい話だからね。すぐに飲み込めなくても仕方ない。うん、まだ大丈夫そうだね。話を続けよう。
そしたらさ、その「私たちの世界を保有している存在」の住む世界もきっと存在するんだ。どこにって? 決まってる。誰かの頭の中さ。こうやって、世界はどんどん連鎖していくんだ。夢の中で見る夢の中で見る夢の中で見る夢、のようにね。
でも、私の説はここで終わりじゃない。だって、このままだと何処かにはじまりが存在することになってしまう。それだと意味がない。
だから、私は考えたんだ。世界の連鎖は、メビウスの輪状になっているんじゃないかって。それだと辻褄が合うんだ。メビウスの輪には、はじまりも終わりもないからね。そして、その輪の何処かの部分には、世界の大小が逆転するところがあるんだ。ある一つの存在に内包されているはずの世界が、内包している存在そのものを内包する、という場所が。ちょっと難しいかな? 例えるなら……そうだね……君たちの文明にはマトリョーシカという物が存在するだろう? そう、あの段々ちっちゃくなっていく玩具さ。あれを想像したらいい。私が話している世界の構図にそっくりだ。世界の中に小さな世界があって。その小さな世界の中にさらに小さい世界があって……ただ、もちろんあの通りの構造をしているわけじゃない。何度も言うように、それだとはじまりが存在してしまうからね。メビウスの輪状になっているということは、一番小さなマトリョーシカが、大元の一番大きなマトリョーシカを内包しているということだ。そこが、世界の結節点になる。
小さいものが大きいものを内包できるわけがない、とでも言いたげな顔をしているね。はは、まあ気持ちは分からなくもないよ。でもね、世界というのは掴めそうで掴めない、幽霊みたいな存在だ。幽霊であるならば、大きさに関係なく包み込むことができそうだとは思わないかい?
……まあ、今のは半分冗談だよ。正直なところ、その結節点がどうやって存在しているのかは、私にもわからないんだ。それで、ここから先は私の推測に過ぎないのだけれど、そこでは二つの世界が重なって存在するのかもしれない。もっとも大きな世界ともっとも小さな世界が重なり合って、一つの世界として存在している。正確にいうと、存在しているように感じられる。もしくは、二つの世界が重なったり重なっていなかったりをふらふらと繰り返している。これなら、アリそうな気がしてこないかい?
——もしかすると、その結節点に当たっているのは、他ならぬこの世界なのかもしれない。そして、さらにもしかしてしまうと、その世界に存在するであろう二体の世界の保有者は、私と君なのかもしれない。君の世界は私の頭の中にあって、私の世界は君の頭の中にある。どうだい、こう考えるとなんだかワクワクしてこないかい? 私たちの頭の中には、限りなく広い世界が広がっているかもしれない。さらに、私と君とは、無限に続くメビウスの中でたった二体しか存在しない、結節点にあたる世界の持ち主なのかもしれない——まったく、最高だよね。
……おっと、そろそろ私は行かなくちゃいけないみたいだ。アリも人間と同じで忙しくてね。巣を掘ったり、餌を運んだり……こほん、とにかく、今日は話を聞いてくれてどうもアリがとう。久しぶりにとても楽しい時間を過ごせたよ。それじゃあ、ここいらで失礼するよ。またいつか、こうして会えるといいね。名前も知らないただの君。私という一匹のアリの中に存在するかもしれない、とても愛しい人間さん。
そう言い残すと、アリは忙しげに去っていった。
それからもう数十年になるが、彼との再開は果たせていない。そもそも彼以降、日本語を話せるアリにすら会ったことがない。目に映るアリは皆、黙ってせっせと働くだけだ。
それでも私は、彼がどこかにいるような気がしてならない。
——本当に、この世界は一匹の考えるアリなのかもしれない。
そう思うと、なんだか笑えた。明日、このことを誰かに話してみようか。あの名も知らぬアリのように、得意げな口調で。