我が子は魔王様 ~子供が静かな時ろくなことしてない~
家を空ける朝、妻の円は私に振り返ってこう言った。
「万央くんのこと、よろしくね!」
マンションのエントランスは休日だというのに賑わっている。春、つまり年度替わりで皆忙しいのだろう。
黙って腕を組んでいると、妻はカートを壁に立てかけ頬を膨らませた。
「聞いてるの?」
「もちろん」
頷く私に、妻はため息を一つ。
「いい? 万央くん、あなたと遊べるの、すっごく、すっご~~く! 楽しみにしてるんですからね」
「承知している。父親として、今日は息子に尽くす」
完璧な承認だったはずだが、妻はぴくぴくと眉を震わせた。
「……突っ込みどころがあるの」
人差し指で私のおでこを強く押してくる。
「眉間のシワ!」
「うむ」
「手に持ったスマホ!」
「仕事の連絡用だ。手放せない」
「あと、なんで休日の朝からスーツなの?」
「つい癖でな。しかし子守は大変な仕事だと言ったのは、君だろう?」
妻はよろけながら壁に手をついた。しきりに目元を揉んでいる。
「眼精疲労か?」
「違うわよ……! あなたの全身から、『早く仕事に戻りた~い!』って気分が漲ってるんですけど」
「そんなことはない。確かに、多少……いやほんの少しばかり気掛かりだが」
私はまだ三○だが、一族から複数の会社を任されている。特に海外の子会社は時差もあるせいで、油断ができない。こうしている間も市場は常に動いているのだ。
私は妻が安心して旅立てるよう、柔和な笑みに努めた。
「万央ももう五歳だ。私一人だって、平気さ」
円は思案げに腕を組む。
「まぁねぇ……。確かに、最近ほんと大人しいし……でも、隠れて何かやってそうで心配なのよね」
その時、九時を告げる時報が鳴った。ここでは忙しいビジネスパーソンのため、地下ロータリーから駅や空港へ行くバスが続々と出ている。十五分単位でベルが鳴るこのエントランスを、妻は「時計に縛られている!」と酷評していた。
合理的で私は好きだが。
「時間じゃないのかね」
「そうみたいね」
妻は迷いを振り払うように頷いた。
「じゃ、行ってきます」
「うむ」
「とにかく油断しちゃだめだよ。子供は静かな時、ろくなことしてないんだからね!」
妻は、武運を祈る、と親指を突き上げ颯爽とバス停へ歩いて行った。その後ろ姿は何らかの女傑じみた迫力があり、今回の出張でも彼女なりの成功を勝ち取ってくるだろうと私は頼もしく思った。
「さて……」
私はエレベーターを通じて家に戻る。妻が旅立ってしまうと急に家が広くなった気がして、あんなに強気に出たのに心細くなるのはなぜだろうか。
在宅勤務の妻がいかに大きな存在だったかを思い知る。
しっかりしなければ。
意を強く保て。
食材や調味料の配置は覚えたし、幼稚園のスケジュール表も頭に入っている。そうとも、子育てもまた人生における仕事なのだ。
そして私は仕事を愛している。できないはずはない。
「パパ?」
子供部屋からパジャマ姿の万央が出てくる。目をこすりながらも右手には剣のオモチャを持っていた。
口を開くと八重歯がのぞく。赤ん坊の頃は、この歯でよくものを噛む小悪魔だった。
「ママは……? もう行っちゃった?」
万央はダイニングを見やる。
「うん」
私ははっとした。
朝ご飯の準備がまだではないか! 息子の起床時間を見誤った。いきなりの納期遅延。
「今、朝ご飯を作る。待ってなさい」
「パパが?」
不安そうな息子に私は笑みを見せてやった。
「ママと同じの作ってあげよう」
我等が岡田家でこう言った場合、チーズ入りのオムレツを指す。
万央の顔が輝いた。
「すごい……! パパのご飯、始めてだ!」
私は家を空けることが多い。確かに休日も朝から家にいるのは久しぶりで、朝食を作ってやるなど初めてではなかろうか。
万央の機嫌が直ってきた。
「今日はずっといっしょだね!」
「ああ」
家族といると温かい気持ちになる。
さて、料理だ。
スーツのジャケットを脱ぎエプロンをつける。
まずは卵と生クリームと塩を混ぜる。フライパンにオリーブオイルをしく。焼きながら細かいチーズを入れていく。
仕事と違い決まりきった工程だから楽なものだ。ただし残念ながら、オムレツは妻のようにきれいな形にならなかった。
「さぁできたぞ!」
オムレツをなんとか盛り付けしたところで振り向いたが、そこでポケットのスマホが鳴った。
「パパ?」
私は皿をテーブルに置き、電話に出た。近寄ってくる万央を手で制する。
「ねぇ、パパ……?」
「はい。その節は……いえ、こちらも前向きに検討しております」
用件は重要な取引に対するものだった。電話に出ている間、視界の端にちらりと万央の不満げな顔が見えた気がした。
「待たせたな」
電話を切った時、ダイニングにはもう誰もいない。
オムレツはとっくに冷めていた。
ソファに万央が持っていた剣が無造作に放り出されている。よく見ると持ち手のところがなにやら発光していた。
「……うん?」
手に持ってみる。
『魔王様ァ!』
凄まじいボリュームが私の耳を刺した。
『大変ですじゃ! 勇者どもが、城に攻めて来ましたのじゃぁ!』
おじいさんみたいな声の次は、女性の声だ。
『いったいどうするつもりですか? また飽きちゃったんですかぁ? つまんないからって、あなたがいないと困るんですけどぉ!』
なんなんだ。口が勝手に動いた。
「あの……どちらにおかけですか?」
しばらく間があった。
『…………あ、やばっ』
ぷつっと音がして声が途切れる。
なんだろう。悪い予感がした。非科学的だが、私の予感はよく当たる。
「万央?」
オモチャの剣はもう何も言わない。家はしんと静まり返っている。
息子はどこだ?
「万央くぅ~ん?」
そういえば、私はこんな剣のオモチャを買ってやっただろうか。非常に軽いが、プラスチックの割りには質感や輝きがいやに本物じみている。どこの製品だろう。表面加工の技術はカネになりそうだが。
おそるおそる子供部屋のドアを開けると光が私を包み込んだ。
思わず目を閉じる。
光が落ち着き視界が戻ってくると、私は途方もなく広い空間にいることに気がついた。明らかに子供部屋ではない。
講堂とか、空港のエントランスとか、桁外れに広い空間だ。
「最新のVR……? ゴーグルの要らない空間投影型が開発中という噂だが……」
後を振り返ったが入ってきたはずのドアはすでにない。VRにしても、微かな臭いや気温まで変わっているのはどうしたことだろうか。
「パパ!」
呼ばれた方へ振り向くと、そこには我が子がいた。見知らぬ男女に囲まれている。
「万央!」
駆け寄る私に四方八方から槍だの剣だのが突きつけられた。
「無礼!」
「不遜!」
目をぱちくりさせてしまう。
よくよく見れば万央の恰好がおかしい。見覚えのあるパジャマには、なぜかとげとげのアクセサリーが無数にあしらわれ、マントが付属している。頭には王冠が輝いていた。
息子の背後から少女が歩いてくる。小学生くらいの身長だが、なぜかスーツを着ていた。背中では小さな羽がちょこちょこと動いている。
少女は私を指した。
「魔王ではないわ! 魔王、サマ、よ!」
私は身を屈め少女と視線を合わせた。
「な、なによ」
「ほう……実にすごいVRだ。どこのメーカーのサンプルだ?」
「はぁ? あんた何言ってるの?」
ふむ。よくできているが会話はこんなものか。
万央を見やると、目が赤く輝いた。
「パパ、きてくれたね」
どこか嬉しそうである。
「今日はボクと遊んでね」
「あ、ああ、もちろんだが……」
なんだろう。息子が――怖い。
「ボク、ママが喜ぶように、ずっといい子にしていたよ?」
私は頷いた。
「偉いぞ」
「パパのお仕事は、そんなに大変なの?」
「なに」
「だって、ボクといても楽しそうじゃないよ」
私は答えに窮した。
顔をなでてみる。眉間の皺は、取れたのだろうか。
平日は仕事。そして子育ても仕事だ。休みでさえも次の仕事のための休息、つまり、せねばならないことである。私達は学校を出て、働き、結婚、その後は金融資産を貯めるのだ。
人生はやるべきことだらけ。
真に余暇というものは、原理的に存在しない。
「そうだ、パパ!」
息子の赤い目が輝きを増していく。にっかりと笑った口は、まるで夜空に浮かぶ三日月だ。
「パパ、この城に勇者が来てるんだ。でも最近弱くて、つまんないの。だからパパが手伝ってあげてくれないかな?」
「万央、一体何を」
「楽しいよ。きっと、きっとね!」
再び、まばゆい光が私を包み込んだ。
目を開けると狭い部屋だ。私はここがVRなどではないことを薄々感じ始めた。
部屋の奥に、見覚えのあるぬいぐるみが置かれている。はるか昔に買ってあげた、熊のキャラクターのものだ。
どういう原理か、頭に息子の声が響く。
――魔界造!
人形は風船に空気が入るようにむくむくとでかくなった。目が光り、爪が伸び、咆哮をあげる。
冷や汗が出て喉が震えた。
「息子が、魔王……?」
妻の言葉を思い出していた。
子供は静かな時、ろくなことしてない。