蒼鷺と群青
悪い夢でも見ていると思いたい。小野山零は、眼前で生き生きと悪事に手を染める老人たちを呆然と見つめていた。少し落ち着こうとポケットからピーチ味のキャンディーを取り出し、それを口の中に放り込んだ。しかし甘いはずの味がしない。交代で挨拶だけした日勤の岩下さんという若い女性に貰った物だが、脳が状況について行けず、味覚は放棄されたようだ。ここは老人ホームのはずではないのか。
淡い木目調の壁に、陽気な気分を誘うサーモンピンクのクッションフロア、やや高めの天井と色を揃えたような白いテーブルが並べられている広い食堂ホール。その真ん中に集う彼らは、すぐ手の届く場所にありながらまるで舞台上の芝居を観ているかのように遠く見える。
テーブルの上の無機質な薄グレーの電話機が異様な存在感を放っていて、横にはその張り詰めたおぞましい空気にそぐわない菓子がいくつも開封されている。固焼き煎餅に甘納豆、クッキー、キャンディー、チョコレート……。見ているだけで胃がもたれそうな量のそれらが、お喋りに花を咲かす老婦人2人の口にあれよと言う早さで吸いこまれていく。
「野崎さん、中庭もカーテン閉めたほうがよくない?」
「あら大変。そうよね。せっかくの景色だけど、これじゃあ外から丸見えだものね。伊藤さん、さすがだわ」
「それにしても蔵夫さんの演技、真に迫っていたなぁ。ありゃ間違いなく本物の『犯人に脅されて要件を伝える被害者』だったよねぇ、うん」
「そうだろそうだろ。なあゼロ坊、次はお前さんの番だぜ。元俳優なんだってなあ。名演技、期待してるぜ」
ゼロ坊、と言ってニヤリと笑った大男は前田蔵夫。豊かな白銀の髪と口髭を蓄えた、彫りの深い顔。ポロシャツにスラックスというラフさでも、体の大きさと顔立ちのせいか妙な大物感がある。確か入居者データでは93歳だったはずだが、とてもそうは見えない若々しさでピンピンしている。彼がこの計画の首謀者らしい。その隣に所長の江原が座り、血色の悪い顔で愉快そうに笑っている。年齢は前田よりうんと若いが、どちらが要介護者かわからないくらいに痩せこけている。
「犯人なんて嫌ですよ。前田さん、お願いですから止しましょうよ、こんなこと」
「何言ってんだ、ゼロ坊。賽は投げられた、だぜ。運命と思って腹ぁ括れよ」
「運命って……。所長は初めからこのつもりだったんですね」
「ああ、君には本当に申し訳ないと思っているよ。なんだか騙すみたいでねぇ」
「みたい、じゃなくて完全に僕を騙しましたよね……」
田舎の広い敷地を存分に使った中庭は、春の陽気と爽やかな草花の香りで満ち溢れていた。 池で舛花色の豊かな羽毛を繕っていたアオサギが、窓に向かった二人に驚いて飛び立った。陽が西に傾いて、施設を隠すように広がる杉林に隠れようとしている。その憩いの広場が、無情にも若葉色をした遮光1級の重たいカーテンによって隠された。
カーテンを閉めた二人が振り向いて『ご愁傷様』とでもいうような目で零に軽く頭を下げ、まだ開いている箇所がないか入念に確かめながら廊下を奥へと歩いて行った。今日からの軟禁生活で痩せたらラッキーだわなどと、緊張感のない会話が廊下に響く。一体どの口が言うのか。
「だけど幹夫さんは思い切ったことを考えたよなぁ。立てこもりの人質になって金をとるなんて」
「江原っちゃんよ、あんたはよくやってくれたのさ。時間がないからちっと手荒だけどな、後のことは俺達に任せなよ」
「ちょっと手荒って、犯罪ですよ。ちょっとじゃないですよ」
そう、犯罪。つまり所長と入居者がグルになって狂言を企て、身寄りも友人もいない元役者の零が犯人役に大抜擢された、そういうことだった。何度聞いてもあり得なさで頭がぼうっとなる。耳の奥が膨張するような感覚が酷く不快で、零はじっとりと汗ばむ掌をジーンズに擦りつけ、深呼吸を繰り返していた。
突如、ホールの大きな仕掛け時計から大音量で音楽が流れだした。毎時ちょうどの時刻にそれぞれ違う音楽が鳴る。1時間前にも鳴って野崎さんからその話を聞いたばかりなのに、零は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。ここへ来てから、かれこれ2時間程が経過している。
流れてきたのは聞き覚えのあるクラシックの曲だった。曲名が思い出せずに、自身がチョイ役で出演した薬のコマーシャルで使われた替え歌が零の頭に浮かんだ。バカバカしい思い出だった。顆粒を模した粒を節分の豆のようにカプセル役から投げつけられ逃げ回る菌の役。それより前には刑事ドラマの犯人役で出演したこともあったが、そういう役名のある仕事は年々減って、終わりの頃は顔すら出ない着ぐるみ枠でさえやっとという有様だった。それでも本物の犯人をやるくらいなら、着ぐるみ枠のほうが何百倍もマシだ。
零がこの『幸花ホーム』に足を踏み入れたのは、ほんの2時間前。晴れて正社員となる日を迎え、心を躍らせていた。心機一転、売れない俳優業を諦めての就職だった。特技も資格もない35歳という、買い手から見てまるで魅力を感じない履歴故か、なかなか縁に恵まれなかった。微々たる蓄えに底が見え、このままではアパートの更新料どころか家賃の支払いも危ぶまれるという頃。住み込みの仕事を探し始め数社のお祈りの後、この職場の面接で「君のような人を待っていたのですよ!」と即採用に至った。介護はキツイ仕事だという噂だ。しかし必要とされることに飢えていた零にとって、これ以上ない就職先だった。ところが。
『小野山さん。これから君に大切な仕事をお願いします。これからここで起こる、立てこもり身代金要求事件の犯人になっていただきたい』
事務室で少し業務の説明を受け、入居者への挨拶を兼ねて施設内を回り終わろうかという頃、所長からおもむろに言われた言葉だった。あまりの衝撃に零は返す言葉もなく、続く説明を空虚の中で聴いていた。
内容など殆ど頭に入ってこない。それでもなんとか聞き取れたことは、所長が末期がんでそう長くないということ、それによってこの施設がもうすぐ副所長である彼の長男に経営が渡ること、長男の経営改革によって施設の介護範囲や利用料が大幅に変わること、そのため殆どの入居者は現状と同等の別施設へ行ってしまったこと、そして残っている入居者はそれに反対していること、そんなところだった。
青天の霹靂とはこのことか。零はいまだに現状を受け入れられないままだった。にも拘らず、計画は既に進行してしまっている。今日の昼食を摂った頃は、こんなことになるなど毛ほども考えてなどいなかった。
『初日から夜勤なんて、やっぱりブラックなのかな……。止めとくか? いや……』
ふと頭によぎったあの感覚に従っていれば良かったのに。零は深いため息を漏らした。
「なあに。ゼロ坊はなるべく早く自由にしてやるからよ。頃合い見てネタバラシ匂わせてやるから」
「え……? あ、いや、それは僕にとってはいいですけど、それじゃ皆さんが捕まってしまうんじゃ?」
俯いた頭の向こうから前田の声がして不可解なことを言うので、零は驚いて顔を上げた。それなら、そもそも零が居なくてもいいのではないか。
「病気で明日をも知れない人間とか歳くって生い先短いジジババにはな、あんまり強引な取り調べが出来ねえんだよ。警察ってやつはよ」
「はあ……そういうものなんですか」
「だからよ、身代金使って目標が済んだら、バトンタッチよ」
「でもやっぱり捕まってしまったら……」
「はっはは! そん時ゃそれよ。悪い事したんだから、罰を受けるのもしゃーなしさ」
前田がカラリと笑った。
「でも」
「ゼロ坊は知らねえか。贅沢言わなきゃ刑務所は最高の老人ホームだってことをよ」
「あ……」
考えていることがどうにも理解できない零に、前田が口髭を撫でながら返す。そこで零もようやく腑に落ちたような表情に変わった。
刑務所に高齢の受刑者が多くいるのは今に始まったことではないが、昔は閉鎖された空間と介護という概念の不足などで高齢受刑者も楽ではなかったと聞く。しかし今は介護段階の多様性に合わせて、食事の工夫に始まり仕事量や運動量の軽減、休息の多さなど数多くの配慮がなされるようになっている。他に行く当てもなく、居心地の良さから軽犯罪を繰り返し何度も戻って来る者も少なくない。刑務所とは、いうなれば最も安心安全な無料の優良介護施設なのである。
「なんとなくわかりましたが、10億円というのはやっぱり……」
「俺達みたいなジジババが暮らしてくにはそれくらい必要なんだよ」
「残ってる入居者さん7人と江原所長、ですか」
「そういうこった。あとはもうひとり、日勤の桃ちゃん。ああ、ゼロ坊にも1億な」
「いちお、え……? ってか、そういう問題じゃありませんよ!」
日勤の桃ちゃんといえば、帰りがけにキャンディーをくれた岩下さんのことだ。明るい茶髪のギャルで、介護施設で働く女性のイメージとかけ離れていて面食らったのを覚えている。美人だった。
『一緒に頑張ろうね!』
キャンディーを渡された際に掛けられたあの言葉は、そういう意味だったのか……。岩下桃の言葉を思い出し、零の口から鼻へと、甘いピーチの香りが広がった。