最初から始めますか? →はい いいえ
不安も悩みも溶けていくような暖かな日差しの中で凛香は目を開いた。
――ずっとこんな穏やかな日が続けばいいのに。
満開の桜は散り始め、風に舞う桜吹雪が川面を埋める。
野鳥の親子が花弁の絨毯に軌跡を描いた。
平日の昼間は花見客もおらず、散歩中の老人の姿がちらほら見えるだけで。
特等席を独り占めにした贅沢な気分を味わえた。
川縁の芝生に寝転がった体は春の陽気で温められて眠気を誘う。
まどろみの中でついさっきまで考えていたことが形を失い、曖昧なまま思考の海に溶けていった。
「凛香さん、凛香さん、起きてください」
突然、肩を揺すられて凛香は慌てて飛び起きた。
目の前に少しうらぶれた中年の男性の顔。
彫刻刀で削り出したような粗さが残る顔立ちにぞんざいに伸びた無精髭。
もう少し身綺麗にすれば印象も良くなるのに全体的にもったいない雰囲気だ。
そんな愚にもつかないことを考えて、ふと我に返る。
「えっと、あなたはどなたでしょうか?」
「ああ、まいったな。うーん、ご両親に頼まれてキミを探していたんですよ」
「うっ、そういえば学校に行くのを忘れてた!」
後ろめたさを隠すように凛香は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。
つられたように男も笑みを返すが、その表情にはどこか陰を感じる。
「今からじゃ授業にも間に合わないでしょう。家まで送りますよ」
「そんな、悪いですよ。まだ昼間だし、送ってもらうほど危なくないし」
「家まで結構遠いですよ。すぐそこに車を停めていますから」
家までそんなに距離があったかと考えて凛香は辺りを見渡した。
土手の向こう側に見える寂れた街並み。
折り重なるスクラップに埋もれた町工場。
塗装の剥がれた遊具が並ぶ公園。
ひび割れたコンクリートの外壁がそそり立つ団地。
帰り道を思い出そうとしても頭の中の地図はぼやけて明確な像を結ばない。
ここがどこかもわからず急に不安にかられた。
浮き立った気持ちは萎んでしまい、美しかった風景でさえ色褪せて見える。
「ここは、ここはどこです?!」
「大丈夫、落ち着いて。遠いと言っても同じ市内ですよ」
「でも、私、どうしてここに……」
海で深みにはまったように、何かを掴もうとするが手は空を切るだけで。
かろうじて頼れるのは目の前の見知らぬ男。
凛香を知っている素振りだったが、両親の知り合いだろうかと。
不安に押しつぶされそうな暗闇の中でかすかな光を探す。
怯えて萎縮した心を抑えつけて、すがりつくような目を向けた。
「ここは妻との思い出の場所なんです」
「えっ?」
「桜、綺麗でしょ? ワンドになっていて流れが緩やかだから、水面に満開の桜が映ると二倍贅沢な気分になるって教えてくれて」
「……本当に、いい場所ですね。特等席みたい」
「会社の花見でたまたま話しかけたら、そんな可愛い答えが返ってきたもんだから興味が湧いてね。思わず連絡先を聞いたらナンパかと呆れられました」
少し楽し気にそれでいてどこか寂し気な男の様子に凛香はほっと胸をなでおろした。
紳士的な態度であっても見知らぬ人だけに身構えていたが、少なくとも彼から悪意は感じられない。
印象通りの人かもしれないと考えると、息を継げたように気分が楽になった。
周りを見る余裕ができて初めて男の物悲しそうな表情に気が付く。
「もしかして奥さん、お亡くなりになったんですか?」
「いえいえ、元気にしてますよ。そう、言うなれば転生かな」
「転生?」
「新しい人生に挑んでいるってことです。さあ、帰りましょうか」
煙に巻くような言葉を返して男は芝生に座り込んでいた凛香に手を差し伸べた。
躊躇いがちに掴んだ手に感じる力強いグリップ。
と同時にぐいっと手を引かれて体が持ち上がった。
思いの外、彼の顔が近くて心臓が跳ね上がる。
「あ、ありがとうございます」
「心配いりませんよ。きちんと家までお送りしますから」
手を離した男は先導するように歩き始めた。
少し後ろを追いかけるように歩く。
視線を上げると晴れ渡った空が広がっていた。
太陽の眩しさに手でかざしてひさしを作る。
歩調は自然と速くなって彼の隣まで追いついた。
言葉を交わさないまま二人で川沿いの道を歩く。
互いの手が触れそうな距離は不思議と居心地は悪くなかった。
耳に届くのは遠くを走る車のエンジン音だけ。
早鐘のような鼓動が彼に聞こえていないか心配になった。
しばらく連れだって歩いていると、大きな犬を連れた老人が近付いて来た。
首に小さな酒樽をぶら下げていそうな犬はあくびをしそうなぐらいのんびりとしている。
どちらが散歩に連れて来ているのかわからなくなりそうだ。
「おや、四方さん、お久し振りです。こんな時間に珍しいですね」
「ご無沙汰しています。ええ、少し散歩でもと」
「ご夫婦そろって仲のよろしいことで。それではまた」
近所に住む人なのか簡単な挨拶を交わしただけ。
だけど、そんな会話の中に聞き流せない言葉があった。
――夫婦って、私たちが?!
慌てて男の顔を見上げると、ばつの悪そうな表情が返ってきた。
「私たち、夫婦って、どういうことですか?」
「凛香さん、落ち着いて。きちんと説明しますから」
「だって、私は高校生でまだ彼氏だっていたことないのに」
「……わかっています」
「いいえ、全然わかってない!」
湧き上がる思いを訴えようと男のジャケットを握りしめた。
その手を見て凛香は愕然とした。
関節に皺は目立つし、肌は瑞々しさを失っている。
とても十代の手には見えなかった。
「家に帰りましょう。そこで全てを話します」
送り届けてもらった家は記憶にあった通り郊外の住宅地に建つ一軒家。
だけど、迎えてくれた両親は記憶の中よりも老けていた。
それでも二人には面影があり、思い出話も記憶と一致する。
凛香にとっては信じ難いことだが、眠っている間に何年も経ってしまったような感覚だ。
両親が気を利かせて男と二人きりにしてくれた頃には気持ちも落ち着いていた。
「凛香さんは記憶欠落症候群に罹っています」
「記憶欠落症候群?」
「ええ、年齢を遡るように新しい記憶を失っていく病気で」
「私は……、やっぱりあなたと夫婦だったんですか?」
「職場結婚でね。随分、同僚たちにやっかまれましたよ」
凛香の知らない自分の話はふわふわとして捉えどころのない夢のようでまったく実感が湧かない。
男が楽しそうに思い出話をするほど心が冷えてくるのがわかった。
「それでこの病気はどこまで進行するんです?」
「……わかりません。けれど、どこかで症状は治まります」
「記憶が巻き戻るのが中学生か小学生かも?」
「はい、人によって違うとしか」
男の言葉は死刑宣告に近い。
今、この時、ここで生きている自分が次の日にはいなくなる。
そう告げられたも同然だった。
「あなたは何故、私の傍にいるんですか?」
「それは……」
「私はあなたのことを知らないし、明日にはここで話したことだって覚えていないかもしれないのに」
「あなたのことを忘れたくないからです!」
――キモチワルイ。
その言葉を聞いて湧き上がった感情はどす黒く淀んだ澱だった。
この人が愛していたのはここにいる凛香自身ではない。
凛香という姿に妻の幻影を重ねているだけだ。
「……それは私じゃないわ」
「あなたが妻の過去だとしたら、それは私が愛した人の一部じゃないですか」
「でも、あなたのことを何ひとつ知らない。どんな人かも、どうしてきたかも」
「わかっています。私の想いが一方的なものだということは」
男が穏やかな表情をしていることに、ふと疑問を抱いた。
彼とのこうしたやり取りは一体何度目なのだろうか。
凛香が投げつけた言葉で傷つかないほどに、何度も繰り返してきたのだろうか。
バッドエンドにしかたどり着かない道を彼はどうして進むのだろうか。
「無駄ですよ。早く私のことなんて忘れてください」
「生憎、諦めの悪い男でして」
「私はあなたのことなんて好きにならないわ」
「そうかもしれません」
「おじさんだし、カッコよくもないし」
「歯に衣着せぬ言葉ですね。これからは身だしなみにも気をつけます」
溢れてきた涙を見せないように凛香は俯いた。
伸びてきた男の手が優しく頭をなでる。
とりとめのない感情をぶつけるように男の胸に抱き着いた。
「私が、あなたのことを、思い出さなかったら、どうするの?」
「その時は最初から始めればいいんです。未来がわからないのは当たり前じゃないですか」
その落ち着いた声を聞いていると心の中の嵐が消えていくようで、なんだかとても安らかな気分になった。
このまま眠ってしまったらこの想いはどこにいくのだろうか。
また忘れてしまうのだろうか。
それでも、今はこの温かさを感じていたいと凛香は願った。