世界で一番カッコいい告白
慌ただしく行われた結婚披露宴も終わり、僕はタキシードから二次会用のカジュアルな服に着替えていた。
今朝の早い内に二人で区役所に婚姻届を提出し、晴れて夫婦となった僕と妻の杏香。
杏香も二次会に向け、鏡の前で色直しをしているようだった。
僕は何ともなしに壁掛け時計を眺めていたが、ふと液晶に表示された日付に懐かしさを覚えた。
「そういえば今日だったね」
何が?──そう言いたげな杏香と鏡越しに目が合う。
少々の気恥ずかしさから僕は鏡から視線を逸らし、口篭りながらも続ける。
「ほら、覚えてる?僕が杏香に告白した日。そういえばその日も8月の13日だったよなって」
2020年8月13日。
大安で縁起が良いからというそれだけの理由で選んだ結婚式の日付だったが、数年前の同日──僕は杏香に告白し、交際が始まった。
今思えば大胆で、キザで、恥ずかし過ぎて今じゃ絶対出来ない──そんな告白だったけど。
「……忘れるわけない」
杏香は呟く様に言う。
僕は杏香のその返事が意外で、反射的に杏香の顔へと視線を向ける。
そしてハッと息を呑んだ。
涙に潤んだ瞳に、熱を帯びた朱色の頬。
しかしその顔からは羞恥と怒りでは隠しきれない歓喜の情が溢れていた。
「忘れるわけない。あんな告白」
「……へ?」
僕はどうして杏香がそんな表情をしているのか分からず、間抜けな声を漏らす。
杏香は焦ったそうに続ける。
「あんな……世界で一番カッコいい告白。忘れるわけない!」
僕が通っていた成翔高校は、バスケの強豪校だった。
僕は中学ではバスケ部──それもそこそこ強い中学でスタメンを張っていた。
その為スポーツ推薦で高校に進学する事を希望していたのだが、どこの高校からもスカウトされず、それでも何とか推薦入試で成翔高校を受験し合格した。
バスケ部のレベルは当然だが高かった。
県ベスト16の中学のスタメン──そんな肩書きと自信が根っこから吹き飛ぶ程に部員皆が上手く、僕の実力は下から数えた方が圧倒的に早かった。
僕は必死に練習した。
中学時代の思い出が練習で全て上塗りされる程、必死に練習を重ねた。
しかし高校一年の間は結局スタメンどころかベンチメンバーにも選ばれなかった。
杏香との仲が進展したのは、高校二年生に上がった頃だった。
杏香は成翔高校バスケ部のマネージャーの一人だった。
基本部員とは喋らず黙々と裏方作業をこなすタイプで、数いるマネージャーの中でも影が薄かった。
ただ、杏香は一人でも部員が残っていれば最後まで残り、体育館の鍵を閉める役割も顧問から杏香に一任されていた。
本人曰く帰ってもやる事がないから残ってるとの事で、その事を褒められる度、善意でやっている訳ではないと冷淡な口調で否定した。
成翔高校はバスケの強豪校という事もあり、本来大会前しか認められていない最終下校時刻の延長がいつでも認められている。
その為部活終了後、自主的に練習をしたい生徒は申請書を書き、校長室に届ける事で最大二時間練習を延長する事ができる。
僕は他の部員より体格も技術も劣っていた為、せめて練習量だけはと毎回延長を申請し、遅くまで練習していた。
そして杏香はいつだって僕が練習するすぐ側に居た。
高校二年生になった僕は、長距離のシュート練習を重点的に行う様になった。
それはNBAで3Pシュートの試投数が急増しているからでもあり、僕の体格ではドライブで前に切り込んでも当たり負けするからでもあった。
ただ、最も大きな理由は僕自身が何かを変えなければ一生ベンチにも入れないという確信めいた予感があったからだった。
僕と杏香以外誰も居ない、最低限の灯りだけが付いた体育館。
杏香は時にスマホを弄り、時に参考書を読み、時に僕がシュート練習をしているのをジッと見つめていた。
部活後の二人だけの空間──互いに言葉を交わす事は殆ど無かったが、それは僕にとって心地の良い物だった。
だからこそ、校長が変わり下校時刻の延長が出来なくなった時は、練習場所の心配よりも先に杏香の顔が浮かんだ。
相変わらず互いの間に会話が生まれる事は稀だったが、僕と杏香は途中まで一緒に帰る程に仲が深まっていた。
「私の家の近くに、錆びてるしコートは砂だけど、一応バスケットゴールあるよ」
少し早めの帰り道──T字路で互いの家の方向に分かれようとした僕だったが、杏香のその言葉に足を止めた。
僕と杏香の間に生まれた数少ない会話──その発端は大体僕で、杏香は常に答える側だった。
杏香が僕に話しかけ、その上提案した事が僕にはとても意外だった。
「……試しにどんなとこか案内してくれない?」
その答えにコクリと頷いた杏香は、先導する様に前を歩き出した。僕は慌ててその後を追った。
それから長い日が過ぎ、インターハイ予選が始まった。
僕は一つ自分と約束をしていた。
それはスタメンに入れなければ部活を夏で辞めるという事だった。
自分を追い込むつもりで決めた事であり、杏香が夏でマネージャーを辞めると顧問から聞かされたのもその決断を後押しした。
結論から言うと、僕はベンチメンバーの一人に選ばれた。
結局スタメンにはなれなかった。
ただ、成翔高校は順調に勝ち上がり予選突破、無事インターハイ出場を決めた。
そして勢いそのままインターハイも決勝まで勝ち進んだ。
忘れもしない容赦なく夏の日差しが照りつける8月13日の事だった。
インターハイ決勝、残り時間1秒未満。
点差は2点ビハインド──そんな場面で僕はフリースローラインに立っていた。
相手のスリーポイントのシューティングファールで、フリースローは全部で3回。
3回全てのフリースローを決めれば逆転で成翔高校の優勝が決まる。
しかし一度でも外せば延長戦もしくは負け、そんな場面だった。
かつてない程の期待が僕へと向けられていた。
そしてそれを自覚した瞬間、体が鉛の様に重くなり視界がジワジワと黒に侵され始めた。
手の震えが止まらず、悲観的な未来ばかりが脳裏を過ぎる。
僕は重度の息苦しさに、半ば助けを求めるように無意識のうちで周りを見渡した。
そしてそこで初めて観客席に座っていた杏香と目が合った。
杏香は相変わらず何の表情も浮かべていなかった。
期待も心配も、二人の間に生まれた心地良さを除いて、そこには何一つありはしなかった。
次の瞬間、風が吹いた。
部活終わりで上気した体に清々しい夜風が、近くの家から食卓の匂いを運んでくる。
ネットを揺らす快音に少し遅れて落下し砂に埋もれたバスケットボールを拾い、遠くから再びシュートする何千、何万と繰り返された動き。
審判が右手を上げ、次の瞬間ボールが渡される。
もう躊躇いは無かった。
バスケットボールが放物線を描いて飛んでいく。
チームメイトの親が経営している小料理屋で打ち上げを終えると、時刻は21時を過ぎていた。
僕は杏香と一緒に帰る途中、いつものように錆びたバスケットゴール前まで来た。
僕と杏香は今日をもってバスケ部を退部した。
明日からは受験に向けて勉強の日々が始まる。
僕は足元にスポーツバッグを置くと、おもむろにバスケットボールを取り出す。
これから先に待つ受験勉強の日々、忙しくなる事は覚悟の上で僕はどうしても杏香に言いたい事があった。
「ねえ、杏香」
僕の呼びかけに杏香は振り向いた。
気付けば気軽に下の名で呼べる程、僕達の仲は深まっていた。
僕はボールを片手で抱えながら続ける。
「もしシュートを決めたら僕と付き合ってくれないか」
早口で小声ながら、一息で僕はそう言った。
バカらしい告白方法だ──言った瞬間僕は瞬時にそう思い、後悔した。
ただ、ヘタレな僕が告白する勇気を出すにはバスケの力を借りるしかないのも確かだとそう思い直した。
杏香が何か答える前に僕はバスケットゴールへと向き直る。
結局の所シュートが入ろうが、好きでもない相手の告白を受け入れる可能性は上がらない。
逆に言えばこのバカらしい告白方法を相手が受け入れた場合、その時点で相手は僕に好意を持っている訳である。
杏香の返事を聞いてしまえば、それがどんな返事であれ僕はシュートを決められる自信が無かった。
だから僕は杏香の返事を待たずにシュートを打った。
フリースローラインの更に外、スリーポイントからのシュート。
何千、何万と繰り返された動き。
外れるかもしれないという不安は不思議と全く無かった。
ボールは綺麗な放物線を描いてゴールへ向かって飛んでいく──
──はずだった。
だが、現実は非情。
焦ってシュートを決めようとした結果、ボールは明後日の方向へと飛んでいった。
僕は固まった。
外れるなんて夢にも思っていなかった。
「ごめん、よく聞こえなかった。さっき何て言ったの?」
杏香の声が遠くから聞こえる。
僕は何も言わずにスポーツバッグを肩に掛け、バスケットボールを抱えると、全速力でその場を立ち去った。
「え?」
後ろから杏香の困惑の声が聞こえる。
僕は決して振り返らずにひた走る。
目には大粒の涙が浮かび始めていた。
僕は思った──次こそは、次こそは完璧な告白を決めてやると。
僕が世界で一番カッコいい告白を決める、丁度一年前の出来事であった。