ロストマン・レクイエム
街灯に群がる羽虫が、発疹のように影を作っています。
少女は夜道を歩いていました。
硬いローファーの底がコンクリートの床をたたくコツコツという音。
いつからかそれが二重に響いていることに、少女は軽く心臓を跳ねさせました。
周りに人はいないのに──。
少女は不安そうにあたりを見回しますが、一寸先の闇を見るばかり。
すると、声が聞こえます。
しかし、囁くようなその声に気を取られ、少女は気づくことができませんでした。
一寸先の闇。
それこそがまさしく、彼女が見るべきものであったことを。
そこに、あったのは──。
「透明人間がいたんだよー!!!」
大騒ぎする声に眠りを妨げられ、天羽 ひとはは不機嫌そうな声を漏らした。
机に突っ伏していた上体を起こし、口の端に僅かに垂れたよだれを拭うと、大騒ぎするクラスメイトの群れを鋭いまなざしで一瞥する。
「あ、ごめんね天羽さん。起こしちゃって……」
視線に気づいたクラスメイトがひとはに謝罪するが、ひとはは特に憤りを覚えていたわけではなかった。
「……透明人間?」
「もしかして、興味ある? いま町で話題の怪談なんだって。透明人間があらわれた! っていう」
人の輪の中心で話をしていた生徒の一人が、ひとはに笑いかけてくる。
京子という名前の少女で、よく生徒の輪の中心になっている子だった。
「でもさぁ、別に話が奇抜ってわけでもないし、ありきたりだし」
「山もなければ谷もないし」
「なんか拍子抜けよねー」
「なんでこんなのが流行ってるんだろ? って感じ」
「京子のことだから、からかわれたんじゃない?」
話を聞いていた生徒たちが口々に肩をすくめて感想を述べあい、あはは、と笑いが起こると京子は頬を膨らせて否定した。
「ち、違うって! これは本当に流行ってるの。私何人もから聞いちゃったんだから!」
「グルかな?」
「だろうねぇ」
「だから違うの! なんでもこれは“本当に出た”んだって!」
「怪談はみんなそういうよねえ」
「大体透明人間なら、出たってわからないでしょ。見えないんだから」
「そうそう。お話の中でも、なんで透明人間ってわかったのかとか、ぼかされちゃってるし」
「そ、それは……ううー……」
突きつけられた不都合な事実に、京子が唸る。そのことがひとはには不可解だった。
みいはあで頭もいいとは言えない京子だが、このロクに楽しみもない田舎で娯楽に植えたみんなに楽しみを提供するために日夜頑張っているのをみんな知っている。
町の本屋で最新の雑誌を買ったり、休日に一緒に遊ぶとなればしてくる中学生なりのつたないお化粧もオシャレも、彼女なりに周りを楽しませてあげたいという気概から生まれているものだ。
彼女ほどエンタメに誠実に向き合っている女子は、この学校にはいないだろう。まさか調べていないなどとはひとはには思えなかった。
多分。
「本当にわからなかった……なんて、作り話ならそんなことある?」
ちょうど、ひとはは週末町におりる予定があった。
調べてみるのも悪くない。
「ごめん、その話、もうちょっと詳しく聞かせて」
同年代の女子に比べれば少しばかり冷淡にみられるひとはではあったが、人並みの好奇心くらいはあるのだった。
人口はそれほど多くない町であったが、それでも田舎の若者にとっては楽園であった。
少しさびれたゲームセンターにしても、一つ前の流行が豊富なブティックにしても、ずいぶん割安なカラオケ店にしても、とても田舎にはなかったりする。
電車に揺られること二時間。往復の電車代も懐を直撃するので、あまり頻繁に行けるところではない。
本来の今日の目的は画材だった。
ひとはは学校でたった一人の美術部で、水彩による風景画を好んで描いていたが、需要がなければ専門店など建つわけもない。こっちに来なければ、ロクに材料もそろわないのが現実だ。
とはいえ、せっかく高い電車賃を払っているのに用事をたった一つ二つだけ済ませ、すごすご帰るというのは、いかにももったいない。
怪談話にも興味はあるが、母親にも今日は帰るのが遅くなるともちゃんと言っているし、カラオケくらいはして帰りたいところだった。
荷物が増えるので画材を買うのはぎりぎりまであとまわしにして、ひとははまずカラオケ施設に足を向けた。
「すっかり暗くなっちゃったな……でも、ちょうどいいか」
カラオケで喉を酷使し、画材で両腕を塞ぐころには周りはもう暗い。
数時間をかけて透明人間の目撃証言というものを集め──目視できないそれの目撃証言というのはいかにもおかしいが──ひとはは一つの場所にあたりを付けた。
喧騒を外れた町の外れではあったが、それでも家はちらほらと建っているし、街灯もある。
田舎の暗闇になれたひとはにしてみれば本来怖いと思うものではなかったが、怪談噺の舞台ともなれば不思議な雰囲気を感じられて、ひとはは少し身震いをした。
少し歩いただけで、ひとははもう異変に気付くことになる。
靴の音が重なったわけではない。声が聞こえたわけでもない。
いる。
何かが、間違いなくいるという感覚があった。
それが何なのかはわからない。だがひとはは気づく。
怪談噺のラスト。肝心の透明人間の登場が勢いに任せ、詳細がぼかされていた理由はこれだ。
なにかはいるという確信がある。この感覚を誰にも言語化できないが故だと。
そして、話ではそこには何もいない──筈だった。
だが、ひとはには見える。
月光の下。民家の屋根でバイオリンを弾く男。
銀色の長髪が風になびいている。
遠くてよくは見えないが、外人だ。
静寂を鋭く切り裂くその曲は、どこかで聞き覚えのある有名な曲。
「たしか、モーツァルト……でも、何か違う……アレンジ?」
ひとはがつぶやいた瞬間、すさまじい眼光と目が合う。
黒い双眸。その中に含まれた感情にひとはは足がすくんだ。
憎悪。
溢れんばかりの、殺意にも近い嫌悪感だった。
呆然としているひとはに、上から声がかけられる。
「ギフターか……貴様も」
聞こえている言語は明らかに日本語のそれとは違うものだった。
だけど、意味は伝わってくる。
そんな奇妙な事象に混乱する間すら与えてくれず、銀髪の男はため息をついた。
「だが、止められる訳もあるまいに。ロストマンどもの時を越えた妄執を。何故貴様らはいつまでたっても学習することはないのか」
ふう、とため息を吐く。
その氷のように冷たい表情もあって、ひとははまるで気温が急激に下がったかのような錯覚すら覚えた。
バイオリンを傷つけるかのように、弓を持つ手はどんどんと速くなっていく。
「そうして与えられるだけの現状を甘んじることこそが大罪と知るがいい。失うことの恐怖を知るがいい」
どんどんと膨れ上がるように増す音圧がびりびりと肌を刺す。
「あァッ……!!!」
膝を折って蹲り、耳をふさいでも、すり抜けるように脳に直接届く旋律。
次第にそれは弱まっていったが、震えは止まらない。
体からとめどなくこぼれる汗が、ひとはの体を冷やしてくる。
「はぁっ……」
大きく息を吸うと、冷たい空気が肺に入ってむせ返るようだった。
反射でこぼれた涙で視界が滲んでいる。
瞼を瞬かせると、頬を涙が伝っていく。
視界が再び鮮明さを取り戻す。
そこに佇む、一つの影。
腰に二本の刀を携えている。
髪はきちりと結われ、着物に羽織、袴。足は足袋に草履。
侍だった。
だけれど、おかしいのはその体を通して道の向こう側が見えること。
体の透けた侍が、苦悶の表情でそこに立っている──。
「えっ」
その音を喉から漏らせただけ、ひとはの反応は驚異的だったといえた。
僅かに瞬きの間。
男は腰に携えた日本の刀を抜刀し、距離を詰め、その対の白刃を振るっていたのだから。
何もなければ、ひとはの首は体と泣き別れだっただろう。
ギャイン!!
だが、それを否定する金属音がひとはの耳を劈いた。
火花が散って、一瞬周りが明るくなったかと思えば、目がくらんでいるうちにその侍は元居た場所に戻っていた。
遅れて首筋に痛みが走り、何かが伝うような感覚を覚える。
そして彼の侍とひとはの間に、気づかぬうちに一人の青年が立っている。
「ケガは、ないかな?」
かけられた凛々しい声に、ひとはは心臓を跳ねさせた。
月光を反射し闇を切り裂くそれは、刺突に特化した滑らかなフォルムをした、銀色のエストックだった。
金糸のような滑らかな長い髪が、一瞬遅れて視界で揺蕩う。
「あ、貴方は……?」
「よくぞ聞いた! 聞かれたのなら答えようとも!」
余程聞かれたかったのだろう。
ひとはのほうに顔を向けるとその金髪の外国人は、キラリと歯を煌めかせた。
「私の名はレクイエム! 亡き者たちの恩讐を祓う、純金の貴公子だ!」
キメ顔をしてそう言ったその青年は、演劇のように華麗に剣を弄ぶと侍へと向き直る。
「全てを失って喪った、ロストマン達よ! 麗しき少女を傷つけた君らの蛮行、慈悲深き天が許しても、私と愛剣【アパラ】が許しはしない!」
カッと音を立て、剣の先端が地面と接触した。
「弾け! 《アンペラール・デ・ラテール》!!」
青年が叫び、剣はまるで柔らかな粘土に突き立てたようにコンクリートに吸い込まれていく。
瞬間。おびただしい量の土を巻き上げて、地面が裏返った!





