はる
孝志とこれまで一緒に詠んできた歌をまとめたメモ帳を読み返すと、写真やそれににたものがなかったとしても、行ったところの風景やその時のこころの動きがありありと、胸の内に完全な実感をもって浮かんでくる。句がその艶やかさ、あるいはかがやきが足りないような表現の時は体調の悪かった時、という、写真なんかでは残せないことも思い出すことができる。俳も諧も短い中に情景や心情を織り込むものだからこそのたのしみだとおもう。褥を共にしたときのものは、読み返してもゾクゾクする。直截的でない遠回しの言葉遣いがむしろ、情欲をその肉の棺に閉じ込めた人間という生き物らしささえも表しているみたいで。性と生は不可分なのかもしれない。
そういうこともあってか、これはなかなかやめられない趣味だ。こんなめんどう趣味に付き合ってくれている孝志がもうこころからいとおしくてしょうがない。
そうもしていると、もう時間なんだと思うこともある。今日も二人でお出かけだ。準備はすでにすませてある。今日もきっと楽しいことがたくさんある。そう思うとこころは自然に、春の彩おりなす花々のようにほころんでゆく。いまのこころの花はきっと薄紅を浮かべたの梅の花。凛と香ることだろう。
待ち合わせのところに先について、そこで時のうつろいをまにまに感じるのが好き。いつからそうかは忘れたけれど、これはきっと年をどれだけ重ねたとしても変わらないと思ってる。広くもない、桜並木と小川だけの公園は地元の少年たちがボール蹴りをして遊んでいる。また鬼の子が負けた。こういう何でもない光景が好きだ。小さいころからあまり変わらないようで、それでいて時代に合わせてゆっくりと変わっている。そういうものの観察が好き。時の流れを感じられるから。
そんな公園を流れる小川に浮かぶはかない泡沫の、結んだり消えたりするのを見て、春の日差しのうららかな平静を感じ、ときに泡沫のはかなさを自分にかさねて。若者ならではの傲慢な世間知らず、と言われてたことがあるけど、それでも人の命のはかなさを思うとそうなってしまう。
時の移ろいは春のまどろみに似て優しく、それでいて冷酷だ。そしてそれに思いがゆくと、いつも急に句がうかぶ。
花の散る
小川の泡沫
水に影
こいもどじょうも
光を泳ぐ
その俳句に即座につけられた諧句の癖にも声にも覚えがある。
すぐに振り返ると、孝志がいた。
「いつからいたの。一言声をかけてくれてもいいじゃん」
「今だよ、今。それに声をかけたじゃんか」
「違うんだよ。これは違うんだよ。まったく」
少し語気を荒げていてもダメだ、孝志の前ではどうしても心が浮ついちゃう。心はころころ笑うように転がるように。きっといま、すごくゆるんだ表情になってる。きっと何でもないこういうところに幸せというものが詰まっているんだ。それがうれしくておかしくて。そういう時はあたりも輝いて見えるな。
「まったく。これは礼儀の問題なんだよ、きみ。まあ、いいや。今日は、どうするんだい?」
さわのみず
さらさらゆくや
岸に花
浮いて浮かれて
踊るにも似た
店に行くまでのなんともない道のりもこういった歌になれば、ずっと楽しい気持ちや小さいおどろき、おもしろい発見もとどめておけるから。だからどんどん思うままに俳を詠んで諧をつけてもらう。いつも孝志にも俳を詠んでもらいたいと思うのに、それだけはいつもそっとかわされちゃう。きっと楽しいのに。俳も諧もひとえの紙の裏表、背中合わせの夫婦みたいのものだから。そして私たちは不可分の夫婦になれるはずだから。
落ち着いた雰囲気の喫茶店で、二人で無為に過ごすのもここちいい。目的はここに必要でなくて、しいて言うなら『とき』を溶かすのが目的。こういう『とき』は、紅茶にひたしたスコーンのようにふやけて、そしてやさしい。ふわりと香るような『とき』というのは、いっそにおい袋に似たものだと思う。
茶のかおる
ときもみなもも
花うかべ
あいてわかれて
ゆくゆく花びら
孝志との楽しいときはせつせつと流れる速水のようで、つかみようもなく止めることさえできずに流れて行ってしまう。なんで楽しいときはこれだけ早く過ぎるのだろう。もしときが水であれば凍らせて取っておくことができるのに。あるいはミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる『時の花』のようなものがあればいいのに。でも、もしも『時の花』が手元にあったとしても何も変わらない気もする。変えてはいけない気がする。きっと時はイキモノだから。
帰り道の夕暮れに、春の安定しない風の吹く。おもってもないその寒さに孝志の手を取りたくて、振り返った時にザラっと巻き荒れるような風。花びら舞散る風は、夕日をはらんで輝いて見える。
夕暮れや
花散る風に
君の髪
最初は何が言われたかわからなかったけれど、わかったら途端に喜びがあふれた。気の利いた返しが浮かばないくらいうれしい。いまは、何を言っても陳腐な気がする。でも、何か返したい。なんとしてでも返したい。その思いが爆発したかと思うと、自分でも思いもしない方向に、勝手に句が紡がれる。景色と心を織り折りなしてふわりとかたちづくられる、絹布の折り鶴が空を流れて舞い上がっているような不思議な感覚。どうしても言葉にしがたいその感覚が、いま胸の底から奔流となって出てゆく。
千々にわかれて
ふたたびおうて
これほど陳腐で直接的な句はないかもしれないけれど、それでいい。いまはそれがいいの。いまはもうこれのほかはうかばない。うかんだとしても、きっとそれがいまじゃないなら必要じゃないの。
思う間もなく、孝志に抱きついている自分がいる。きっといまはほかの何にあった時よりも緩んだ顔をしているから、これをほかの人に見られたくない。孝志にだって見られたくない。それで、孝志の胸に顔をうずめて、ぐりぐりしている。顔が熱い。いまは例えるなら、熱々のコーヒーをかけられたバニラのアイスクリームのようなこころもち。きっといまのこころはどんな砂糖菓子よりも甘い蜜でできてるんだ。とろけてやわらかに、しなやかに、そしてわずかにかたい芯があるように。
家で一人、今日の句をノートに書き写してゆくときの穏やかな感じは、何にもかえられない楽しさがある。写真の整理にも似て、こころの整理をしているからか、それともこころに付箋を貼るようにつなぎとめているからだろうか。わからない。わからないけれどとても好きな瞬間だ。私はいつまでもそのときを愛し続けるんだろうという確信にもにた心情がある。
花の散る
小川の泡沫
水に影
こいもどじょうも
光を泳ぐ
さわのみず
さらさらゆくや
岸に花
浮いて浮かれて
踊るにも似た
茶のかおる
ときもみなもも
花うかべ
あいてわかれて
ゆくゆく花びら
夕暮れや
花散る風に
君の髪
千々にわかれて
ふたたびおうて
最後の、今日の最後の句を書きとって、息をついた。その句の出たあの時を思いだして悶えてしまう。孝志が俳を詠んでくれただけでもうれしいのに、その句の描いた情景が美しいことも、その読み込まれたモノが私なのも、それぞれが重なって金魚のように、浮草のように、ふわふわと浮ついた気持になる。地に足のつかないような、そのくせ夢ではない重みのあるこころもち。こころもちもちお餅のようにふくらんで、そのままどこかへ浮いて流れて行ってしまいそう。
こうしてたまってゆく句は、そろそろノート一冊になりそう。二人でいったいどこまで詠めるだろうか。二人百首、いや、千や万でも二人ならやって行けるはず。
来週のデートも楽しみだ。今度は遠出して、金沢の街に行くみたい。金沢の街といえば空襲を受けなかっただけあって、古い建物とかがいっぱい残ってて雰囲気がいいとか、最近お城も整備されてきているとか、独自のスイーツがあるとか、前情報だけでも楽しいことがいっぱいありそう。きっとどこをめぐっても楽しいはず。孝志と一緒ならなおさらだ。私も果報者だなあ。