ダメOLから始まる、男子大学生のおねーさん攻略記
二月、駅前、25時。
これだけの条件が揃えば、人通りが少なく気温が低い事は容易に想像できる。実際、さほど大都市圏でもなく、地下鉄も通っていない私鉄の駅だ。急行列車は止まるが特急列車は止まらない。その程度の駅。
その駅前、駅舎の柱にもたれかかるように、ぐんにゃりと座り込む一人の女性がいる。周囲半径3メートルに酒気を漂わせ、その傍らには投げ出された荷物。脱ぎ捨てられたパンプスが転がっている。コートは前が開き、その下にはだらしなく崩れたスーツが見えていた。
駅員も、困り顔だった。最終電車はとっくにない。駅に帰ってきたのか、それともどこかへいくはずだったのか。それすらも分からないのである。
「あー、もしもし? もしもし?」
「あいっ! こちら、営業課、相田がうけたまわりまひゅ!」
「あのねえ、家、分かるかなー!」
「そのようなっ! ぷらいばしーに関する質問にはお答えできません! ご了承くだひゃい。それでは、失礼いたひますぅ」
自らのことを相田と名乗った女性は、受け答えの後、深くお辞儀をするように頭を前にかくんと揺らした。勢い、地面に頭部をぶつけたが、そのまま動かなくなってしまった。
「駅舎を閉めたいのになあ。とりあえず、お巡りさん呼んでくるか」
やれやれと駅員が首を振る。交番へと向かおうとすると、不意に女性が顔を上げ、ぶんぶんと誰かに向かって両手を挙げて手を振りだした。
「しんやー! 迎えに来てくれたのねー」
よかった、どうやら彼氏なり、家族なりが迎えに来てくれたようだと駅員は胸をなで下ろす。酔っ払いを駅に置いておくわけにもいかないし、実のところ、派出所まで行って余計な仕事をあれこれ増やされるのも面倒なのだ。
パンプスを片手に持ち、ふらふらと小走りにお迎えの相手に向かって駆けていく女性を見て、駅員は一つ頷いて自らの仕事に戻ったのだった。
○ ○ ○
二月、駅前、25時。
コンビニの袋を提げて歩くバイト帰りの男子大学生が一人。居酒屋バイトの帰りにコンビニで何かしら購入するのは、彼のささやかな楽しみだった。
「ああ、酔っ払いの相手は疲れる……。さっさと帰って風呂入りてえ」
酔客の相手は、距離を置くのが一番いい。
その考えはバイト先の居酒屋でも大いに役立っている。しかし、その距離を向こうから一方的に詰められたらどうなるか。
大抵の場合は、なすすべなく相手のペースに巻き込まれるのである。
「しんやー! 迎えに来てくれたのねー」
駅からこちらに向けて、今まさに一人の女性が彼の元へ近寄っていった。
「大きくなったねえ、しんやー」
「誰だ、あんた」
人の事を勝手な名前で呼び、片手に靴をぶらさげながら笑顔で駆け寄ってくる、酒臭い女性。
――俺はそもそもシンヤではないし、知り合いですらない。見た事ないぞ、こんな絵にかいたような酔っ払いは。
男子大学生にもたれかかるようにして、酔った女性は両手を回す。密着した体から漂ってくるのは、やはり酒気だった。
「……酒臭いと、抱きつかれても嬉しくないもんだな。さて、交番にでも引きずっていくか」
交番は、駅の隣だ。道端に捨て置くのも気が引ける。少し運ぶくらいなら、大した労力ではない。
そう思って足を踏み出した男の首に回された女性の腕がキツく締まる。
「こらあ、しんやー。そっちじゃないでひょう」
「俺はシンヤじゃないってのに……」
――俺は、酔っていない。従って、冷静に物事を考えることができる。このお姉さまは、どうやら泥酔しておられるようだ。俺のことを、別の誰かと勘違いしているらしい。遠慮なくスキンシップを取ってくる辺り、シンヤとやらはそれなりに親密なお相手なのだろう。俺にはどうでもいいことだ。
彼の思考に浮かんだ選択肢は一つ。交番に連れていって、そのまま置き去りだ。もちろん、よからぬ役得を求めてどこかのホテルなりに連れ去ってもいいのかも知れない。彼がそれをしないのは、理性や良心からくる自制ではなかった。
「E以上ならなあ……」
単純に、趣味嗜好の問題だった。少しばかり乱れた上着の隙間から瞬時に確認した映像としての情報、そして押し付けられた体から得られた感触からの情報。二つを組み合わせて彼が出した結論は、この酔っ払いの身体情報が自分の性的嗜好の範囲にはないというものだった。概算、A70。良く見積もっても、B65だ。
不意に、首に回されていた腕が緩くなる。
軽くなった体を捻って後ろを振り向けば、女性が道路に座り込んでいた。
一度だけ、目が合う。
その直後。
「おうちに帰るうぅぅ!」
号泣。人目も憚らず、いや、深夜の駅前にそれほど人目がある訳でもないが、それでも彼女は声をあげて泣き出した。
「ああ、一番面倒なタイプだ」
彼は頭を抱える。この状況を第三者が見ればどうなるか。怪しまれるのは、自分の方だ。幸い、深夜の駅前に人影はない。彼はしぶしぶ女性の手を取り、酔っ払いを穏便にこの場から連れ去らざるを得ない事実を突きつけられて溜息をついた。
彼女を立ち上がらせようと脇に手を入れ、体を持ち上げる。ふと相手の顔を覗き見れば、どことなく熱っぽい目をしている。
そしてすうっと透けるような白い頬に、男子大学生は焦りを覚えた。決してそれは甘美な雰囲気を纏ったものではないことを、彼は自身のバイト経験でもって良く知っていた。
「やっべ」
即座に持っていたコンビニの袋を、女性の口元へと持っていく。間一髪とでもいうように、袋の中には吐瀉物が撒かれ、酒気と共に臭気が二人の間に漂う。
「ああ、俺のピザまんがゲロ浸しに……」
とっさのことだったので、袋から商品を取り出す時間は無かった。今しがた買ってきたばかりの暖かなピザまんは、彼の胃袋を暖めることは叶わず、彼女の胃から飛び出してきたアレコレをほんのりと温めていた。
ひとしきり吐き終えたとみて、彼は無駄のない動きで袋を縛る。視界にある自販機で水を購入し、なおも苦しそうにしている女性にキャップを開けてそれを差し出した。
「うぁ、ありがとうございまふ、佐藤さん」
「誰だよ次は。サトウでもシンヤでもないっての」
肩を貸し、半ば引きずるようにして女性を支えながら歩く夜道は、少しの距離でもやけに長く感じるものだ。途中の公園を横切った時に、縛ったコンビニ袋は捨てておいた。自分より頭一つ分低い女性をよたよたと運ぶのはそれなりに体力を使う。「次はみぎ」「まっすぐー」「あれ、どっちだったかなぁ」などと信頼の置けないナビを頼りに女性と連れ立って歩いていけば、どうにも良く知った道順を辿っているらしいことに、男子大学生は気が付いた。
「……まさか、なあ」
そのまさかは、的中してほしくない時ほど的中してしまうものだ。ドラマの始まりというものは、おおかた予期せぬところからはじまるものであり、また往々にして危機的状況から生まれ出るものでもある。
女性が「うわーい、おうちだー」と朗らかに宣言したマンションは、まさに彼自らが良く知っているものだった。
ぽつりと一言、男子学生が呟く。
「まさかだったよオイ……早く帰るか……」
建物のエントランスで女性が自動ドアを開けるためにカバンをごそごそ探っている。男子学生は思わず周囲を見回し、一つ緊迫の息を吐いた。
「はい、もう家に着いたから大丈夫っすね」
そそくさと場を離れ、エントランスから出ようとする彼の背後で、鋭く声が響く。
「ちょっと宗介ッ! 誰よその女ッ」
男子大学生――宗介は肩をびくりと震わせる。よぎった最悪の予感が見事に的中してしまった。
おそるおそる後ろを振り向けば、目を吊り上げたくせ毛の女性が、彼に向けて鋭い視線を向けていた。