読する文学、毒する少女
読書の秋、食欲の秋と言うけれど。
だからって本を食べるなんて。
ありなの?
夕焼けが差し込む図書室で。
先輩は原稿用紙の端を破ると、口に放り込んだ。
唇に手を当ててる様はお嬢様育ちの現れだろう。お上品で、紙を食べたなんて感じさせなかった。
「図書室は飲食禁止ですよ」
「文乃の書いたグルメ小説読んでたらお腹空いちゃって、つい」
「褒め言葉と受け取っておきます。ちなみに、味の方は?」
「噛んでも噛んでも味は訪れないね。食用紙なんだから美味しくすればいいのに」
そう言いながらも、二口目に手を伸ばしている。
「誤食しても消化できるのが目的ですから、美味しくしたら本末転倒になるかと?」
国内のあらゆる紙は食用紙で出来ている。
私が小説を書いた原稿用紙も、図書室の壁に貼ってある注意書きも、同級生たちが読んでいる本もすべて。
私たち少女を守るため、らしい。
なんでも、私たちが生まれるまえに少女たちが紙を誤って食べる事故が多発したとか。
私を含めた10代は生まれるまえの出来事とあって、どこか他人事のように知っている。図書委員を含めた女子生徒たちは先輩を見つめるだけで、誰も注意しないのが物語っていた。
対して当事者だった大人たちは過敏で、先輩のように『つい』で紙を食べようものなら説教ものだ。
大げさに反応するのは大人だけ。その大人も今はいない。
だから。
つい。
先輩は紙を食べてしまったのだろう。
小説を書くネタになるかもしれない、と思って呑気に見ていた私は数分後に後悔する。
大人たちが正しかったと。
――先輩に釣られたのか、静かに本を読んでいた女子生徒の一人がページをびりびりと破って、食べ始めた。
味わっているのか目を瞑っている。
「先輩のせいで真似する子が出たんですけど」
もぐもぐもぐ。
私の小説を食べることに夢中らしい。そうやって誤魔化しているあいだに、一人また一人と本を食べだす。
変わり者の先輩は除くとして。お嬢様校に通う生徒たちが、人目を気にすることなく紙を食べるだろうか?
「みんな変なんですけど。先輩も見てくださいよ――って、まだ食べてるんですか? 今はそんなときじゃ……」
原稿用紙の端を千切るのが面倒になったのか、先輩は用紙をそのまま食べ始めた。
「お、お腹が空いてるなら帰りましょう! それで寄り道してコンビニでホットドッグを食べませんか。先輩が体験したいと言っていた買い食いですよ!」
「……」
「いい加減にしてください」
用紙を取り上げた。四ヶ月かけて書いた小説はぐしゃぐしゃで、10ページ近くは先輩の胃に収まってしまっていた。
先輩は私を見つめるだけで、なにも発しない。
暫くすると立ち上がり、おぼつかない足取りで本棚に向かい、他の女子生徒に混じって学校の本を貪り始めた。
「先輩? 読下先輩!」
図書室は静かに、という決まりを破って大声で呼びかける。
けれど、私の声は届かなかった。
その日。
お嬢様校で有名な天館女子高等学校の図書室から百冊近くの本がなくなり。
11人の女子生徒が病院に運ばれた。
読下読子。
病院に運ばれた生徒のなかに、先輩の名前もあった。
◇◇◇◇
私の大好物ばかりが並ぶ食卓。
食欲なんてなかった。
図書室での出来事から3時間しか経ってない。あれから病院で検査を受け、機械で脳を調べられ、カウンセリング中は訳のわからない質問ばかりに付き合わされて、ようやく診断を終えたのに。
家に帰ったらお母さんは、晩ごはんをこれでもかと作った。
そして、立ったまま私をじっと見つめている。
適当にお寿司を頬張れば、お母さんは顔色をよくした。
味はしなかったけれど、お母さんを心配させたくなかったから口にする。
からあげに箸を伸ばしたとき、お母さんの表情が少し強ばった。
安心して。
横に置いてある紙は取らないから。
安心させるために、「美味しい」と一言添えてみる。すると、お母さんは涙ぐみ始め。
「文乃ちゃんが無事でよかったわ。学校で文学少女症候群の発症者が出たって聞いたときはっ」
「――食紙症」
「え?」
「医学的な正式名称は食紙症。文学少女症候群はネットで広まった別称だよ」
治療法の見つかっていない精神障害の一つ。
文学少女症候群。
小説を食べる女の子が登場するから、という理由で一部の人たちが関連付けたせいで風評被害が起こった。
電子の世界に一度流された情報はあっという間に浸透して、広まった。読書家や医者は食紙症と言うけれど、別称と指摘されることもある。
知らない人が文学少女症候群と言ったら少し悲しいけど、仕方ないで片付けた。けれどお母さんが使っているのを聞くと、どうしてか胸が苦しくなって、つい口を挟んでしまった。
「今はそんなことより、文乃ちゃんが無事でよかったって話でしょ!」
「そうだけど……」
「文乃ちゃん。この機会に本から少し距離をとって、なにか他の趣味を作るのもいいと思うの。ピアノとか、生け花なんかもやってみると面白いわよ。せ、せめて19才になるまでは本から離れましょ。ねっ?」
「それは、嫌だ」
お母さんは、私を本から遠ざけたがっている。
食紙症は8~18才の少女にだけ発症する。医学的には証明されてないけど、発症者の共通点として本をよく読んでいることが巷で話題になってもいる。その話題を耳にしたお母さんは、私の本を勝手に捨てた――700冊近くを全て。
その一件からお母さんを信じることができなくて、家を出た。祖父母のお世話になっていた私は、半年ぶりの帰宅だった。
半年経てばお母さんが反省してくれているかもしれない、なんて考えは甘かった。
今度は、私から書くことを取り上げようとしている。
「それに小説を読んでくれる読下さんも今は読めないことだし。不謹慎だけど、これで文乃ちゃんと読下さんのお付き合いが終わると思ったらママ、ほっとしてるの。あの子と出会ってからでしょ、文乃ちゃんが髪を染めたの」
「真面目な女の子が髪を染めるシーンを書くことになったから、自分でやってみただけ」
「何のために?」
「体験しないと書けないの、私は」
「じゃあ、なんでまだ金髪なの?」
肩まで伸びた髪は染めたままだった。
生徒指導を受ける覚悟で、髪を染めて登校した高校1年の5月。金髪の私を校門で呼び止め、みんなの前で叱りつける女性教師。そこへ2年生の読下先輩が現れて、「白髪染めも校則違反では?」と言ってのけたのだ。
先輩と私は仲良く生徒指導室に連行され、そこでお互い本が好きなことを知った。
それから暫くして。先輩は生徒218名の署名を集めて、60年にも及ぶ時代遅れな校則を変えるよう学校側に訴え、そして校則を書きかえてしまったのだ。
私は先輩に聞いてみた。なんで校則を変えたのか、と。
すると、「金髪似合ってたから」と言われ。
それ以来、私は髪を染めたままにしている。
私には大事なこと。けれどお母さんは納得しないだろう。
「色落ちしていく過程が知りたいからだよ」
「だからって」
「ごちそうさま」
自分の皿を片付け、逃げるようにリビングを出た。
乱暴にドアを開けて自室に入る。
空っぽの本棚が私を出迎えた。
本がない部屋は、勉強机にベッドと洋服入れがあるだけで我ながら飾り気がないと思う。
洋服入れを開け、一緒くたに閉まってある洋服と下着をどかして、二重底を外せば原稿用紙の束が現れる。
どれも短編で、先輩のためだけに書いたもの。
先輩が食べたグルメ小説も、『読書の秋、食欲の秋』と言った先輩に両方楽しめるよう書いたものだった。あれを読まなければ先輩はああならなかったんじゃ、なんて考えがずっと居座っている。図書室じゃなくて文芸部で読んでいれば、私が書き上げる日を早くあるいは遅くしていれば、先輩は……
「こんなことなら、私も」
試しに原稿用紙の端をちぎって、口にしてみる。
味は、しなかった――
もぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ。
――っ!?
まずい、まずい、まずい、まずい、不味いっ!?
私は咥えていた原稿用紙を放り投げる。
手で口を押さえ、トイレに急いだ。
「げんこう、ようし?」
私の口からは、食べた覚えのない量の紙が出てきた。ふと気になって、部屋に戻れば原稿用紙が減っていた。残っているのは、先輩に面白いと言ってもらえたけれど個人的には面白くないと感じていた短編だけ。
何故だろう。
小説が、食べたい。
食べたくて食べたくて、短編に手を伸ばす。
口にしたことを後悔した。
慌ててトイレに駆け込み、吐くものなんてないのにえずいた。
「私も、食紙症を発症してるんだ。でも、紙を吐くってことは拒絶反応だよね。体質? それとも、あの短編に問題がある?」
わからない。
確かなのは、正気を取り戻せたこと。
原因を突き止めたら、先輩を治せるかもしれない。
そのためなら、私は何度でも試そう。
食紙症に蝕まれたこの体で。