第3話 そこに解くべき謎はあるの?
朝のゼミ室で先輩とふたりきり。紅茶を飲みながら、僕たちは40万人生き埋め事件について語り合う。
〈登場人物紹介〉
僕=西嶋無二。文学部3年。豆腐は絹ごし派。
宇沢=宇沢普義。経済学部3年。豆腐は木綿派。出番はない。
先輩=司馬朱理。博士後期課程1年。豆腐に何もかけず「大豆の味がするぅ」とぬかすヤツが嫌い。
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「解くべきは謎はそこにあるの?」
僕がゼミ室にあった『商君書錐指』を開き,爪の間にゆっくりゆっくり針を刺し入れられる拷問を受けているかのような苦悶の表情を浮かべて,1文字1文字読み進めていると,「女帝」司馬朱理がそう声をかけてきた。
いったん拷問から逃れて顔を上げる。でも。
司馬はノートから目を上げていない。
テーブルの上には数冊の本。
時折ページをめくったり手を止めて視線を置いたりするものの,すぐノートに戻り,手を盛んに動かしては乱雑に文字を書き連ねていく。行を気にしている様子はない。思いついたことをそのまま短文か単語で書き,マルでくくる。そのマルどうしを矢印や曲線でリンクさせる。メモはノートの上に下に,右に左にと飛び回る。
見開きページがみるみる埋め尽くされていく。
えっと,続きは?──と心の中でつぶやく。
朝のゼミ室にはいつも僕と司馬しかいない。
僕は毎日早起きしてはアパートを後にし,誰よりも早くゼミ室にくる。そして読みかけの本を開き,静かなうちに読み進めておく。午後になると,ほかのゼミ生が顔を出しはじめるから,少し歩いて図書館に向かったりもする。
そう。
僕は誰よりも早くゼミ室にきているのだ。それなのに,司馬はすでにいる。
矛盾しているように聞こえるけれど,これが正しい。
なぜなら司馬は前日からずっとゼミ室にいるからだ。
「謎といっても2種類あるの。研究に値する謎とそれ以外ね」
ずいぶん間を空けてから司馬が言った。
「はあ」
「気のない返事だなあ。せっかく可愛い後輩のために時間を割いてるのに」
司馬はプンスコしているが,時間を割いている感じはまったくしない。
目を上げもせず,本のページをめくり,カリカリとメモを取り,次の論文のアイデアをまとめつづけているからだ。
司馬は学部生時代に1本,修士時代に3本も論文を発表している。驚異的なスピードだ。通常は1本出せるか出せないか程度なのに。しかも司馬の場合,紀要(査読も特になく大体フリーパスで載る媒体)に載せたのは1本だけで,あとは外部の学術雑誌に投稿し,ちゃんと査読(要するに審査)を通って掲載されている。
いまも1本は査読結果待ちだそうだ。
「それ,6本目の構想ですか?」話を変えた。
「9本目かな」
「9本目!?」
「修論から8本分は論文を切り出せるんだけど,そのうち4本は使ったから,ストックがあと4本分しかないの」
つまり,いつでも投稿できる論文があと4本もあるというわけだ。
修論=修士論文はだいたい原稿用紙300枚から500枚が相場だ。雑誌論文1本の分量が原稿用紙50枚なので,修士論文は6本から10本の論文の集合体になる。もちろん修士論文には含めたものの,発表する価値のない部分もあるから,実質的に3本ほどを修士論文の中から発表することになる(1本も発表できない場合もある)。博士課程に進んだ院生は,これを「修士論文から3本は切れる」などと表現する。
司馬は修士2年の夏前に草稿を書き上げた。その段階で1200枚を超えていたという。
夏の間にあと400枚ほど加えて完成ですと指導教官の浅田教授に報告したところ,500枚を超えたら読まないと宣言された。司馬はわかりましたと答え,7月中にきっちり500枚にまとめて完成させた。
草稿から削った700枚分,それに文字化されなかった400枚分はどうしたんですかと聞いたら,そのうち発表する予定と司馬はあっさり答えた。形になるかわからないからカウントはしていないけど,それも含めたら論文20本分のアイデアはあると言う。
「発表できる雑誌が少ないのが悩みね」
司馬はそう言い放った。
そんな悩み,ぜひとも持ちたいものだ。通常は「発表できる論文がないのが悩みね」だ。
「研究に値する謎というのは」
司馬はようやく手を止めて視線を上げた。
「今まで信じられていた歴史的事実をくつがえすか,これまでわからなかったことを明らかにするか,誰も気づかなかった新しい知見を加えるか。いずれにせよ,その謎を解くことで学問の発展に寄与するものを言うの。謎を1つ解くことで,それまで解けなかった難問がまた1つ解けるようになる,あるいは,新しく解くべき謎がまた1つ生まれる──それが研究に値する謎の条件ね。たとえば,戦国時代の中国では100万人規模の軍隊が登場するでしょ?(1)」
「はい」
長平の戦いでは,40万の趙兵が秦の白起に生き埋めにされたという。また秦の王翦は楚を滅ぼすとき,60万の兵を率いたとされる。
「でもね。1805年のアウステルリッツの戦いでは,ナポレオン軍が6万6800人,ロシア・オーストリア同盟軍が8万5400人(2)。1桁ちがうの。世界人口は紀元元年の2億5000万人から1830年には10億人まで増えているのに」
確かに,アウステルリッツの戦いでは両軍合わせて15万人強なのに,長平の戦いでは趙軍の犠牲者だけで45万人にのぼる。
【筆者注】
(1)『戦国策』によれば,各国の軍隊は,①数十万(燕・趙・韓・斉),②70万(魏),③100万(秦・楚)。このあと,西嶋無二が「フェルミ推定」を実践して「戦国の七雄」の軍隊規模を「計700万」と弾き出すけど,残念ながらそこまで多くない。
(2)アウステルリッツの戦いは,別名「三帝会戦」。フランス皇帝ナポレオン,神聖ローマ皇帝フランツ・ヨーゼフ2世,ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝がそろったので,この別名がある。フランス軍が圧勝し,神聖ローマ帝国(ゾンビ状態だったけど)はこれを機に名実ともに滅亡した。
「中国の場合,農民から強制的に徴兵しているからではないですか」
「フランスも,1793年には総動員令を出して国民皆兵を確立してる」
秒で反論された。
中国はいま13億の人口を誇るとはいえ,当時は1億にも満たないだろうし,しかも秦は「戦国の七雄(戦国時代を代表する7つの大国)」の1つに過ぎず,国土も陝西・甘粛・四川3省を合わせた程度だった。19世紀初頭のフランスよりは人口的に劣っていただろう。
なぜ100万規模の軍隊を持てたのか。
「それに,徴兵したばかりの農民が戦場で役立つと思う?」
「戦場から逃げ出すでしょうし,そもそも彼ら全員に武器・防具を与えるのが大変ですね」
「ね? 解くべき謎が見えてきたでしょ。なぜ人口的にも経済的にも劣るはずの『戦国の七雄』が,ナポレオン時代のフランスを凌駕する軍隊を持てたのか? 財政基盤は? 軍事制度は? 戦略・戦術は? 60万もの素人を戦場でどう指揮して戦わせるのか? 興味わくでしょ」
興味はわく。でも。
「単に,40万とか60万という数字がデタラメなんじゃないですか」
僕は「フェルミ推定」を実践した(3)。
当時の中国の人口が1億人だと強引に仮定する。「戦国の七雄」がそれぞれ100万の軍を持っていたとして計700万。人口のうち7%が兵士ということになる。21世紀でも,100万規模を超える軍を備えるのは中国,アメリカ,インド,北朝鮮,ロシアの5カ国しかない。現役軍人の人口比でいえば,最も高い北朝鮮で0.05%弱。0.02%を超える国は,北朝鮮のほか,エリトリア,オランダ,イスラエル,キルギス,ジブチの5カ国しかない。
7%はいかにも非現実的な数字だ。
つまり軍隊の規模はもっとささやかだった可能性が高い。
【筆者注】
(3)フェルミ推定とは,物理学者のエンリコ・フェルミが初期の原爆実験のさなか,衝撃波が通り過ぎるときに紙切れを数枚落とし,その紙切れが落ちるときの動きから爆風の規模を推定してみせたことに由来するもので,ほんのわずかな基本的事実から大まかな推定をすることを指す。ここでムニは,司馬の言葉にあった「100万人規模の軍隊」「世界人口は紀元元年の2億5000万人」という基本的事実をもとにフェルミ推定を実践した。結果はまあまあといったところ。なお21世紀のデータの出どころは,ポール・ポースト著『戦争の経済学』(バジリコ株式会社)。
そもそも40万人生き埋め事件は真実だろうか?
1人あたりの体重を50kgとして2万tの肉のかたまりになる。2tトラック1万台分だ。1人あたりの身長を160cmとして,死体を寝かせて縦に並べれば,640km。想像を絶する距離だ。あるいは,40万人を生き埋めにするには,彼らを満員電車並みに詰めこんだとしても,1人あたり0.3m2×40万人分=12万m2の面積が必要だ。ナゴヤドーム2.5個分,岡山県の倉敷チボリ公園1個分に当たる。無理して通勤ラッシュの中央線並みに詰めこめば,なんとか4万m2,北京の天安門広場に収まる程度にはなる。
いずれにせよ,それだけの土砂を重機なしで,いったい何日あれば,掘り出し&埋め戻しができるのか。土の置き場にも困るだろう。
きわめて非現実的だ。
「理屈ではね。でも,それをどう証明する?」司馬はまったく動じない。
「え?」
「タイムマシーンを使って実際に確認したら,単に白起が40万人の捕虜に命じて自分のための穴を掘らせ,そのあと秦軍が土をかけるという地道な作業を辛抱強く遂行してるかもしれないでしょ。マンパワーには事欠かないんだから可能かもしれない。デタラメだってどう証明する?」
「いやいや,常識で考えて無理ですよ」
僕はむしろ司馬の強情さに呆れた。
「むしろ40万人を生き埋めにしたと証明するほうが難しいですよね」
司馬は沈黙して数瞬のあいだ思案した。反論が効いたのかとも思ったけど,司馬に困った様子はない。
じっと,僕の目を見つめる。
すると,唐突に話を変えた。
「ヘロドトスによると,今から2000年ほど前に,サハラ砂漠の中に伝説の巨大都市があったらしいの。ムニくん,どう思う?」
「そのころ,サハラの砂漠化が進んでいなかったとか」
「いいえ,すっかり砂漠」
「じゃあ,ありえないです。水がなければ人は住めない。アントランティスの類では?」
アトランティスは大西洋上にあった大陸で,紀元前10000年ころ「1日と1夜」にして滅んだとプラトンが伝える,まさに伝説の大陸だ(現在は,地中海にあったサントリーニ島,キプロス島,スパーテル島がアトランティス候補の本命)。
「そう思うでしょ。あのサハラ砂漠の中で暮らすなんて,常識で考えて無理だと。実際,ずーとそう思われてきた。でも近年,衛星写真の解像度化が上がったおかげで,リビアの首都トリポリから1000km南のサハラ砂漠の中に,砂に埋もれた何百もの要塞群が見つかったの。2011年の発掘調査で,それが2000年前から1500年前に築かれた,ガラマンテス人の遺跡だと判明した。ローマ帝国と遜色ない文明を誇った彼らは,年間7万7000人分のマンパワーを使って水路を整備し,砂漠の中に緑豊かな都市を作りあげていたそうよ。ムニくん──」
──ありえないなんてことはありえない。
司馬はそう言って微笑んだ。
「それから,ムニくん,立証責任は異論を唱える側にあるの」
僕がマグカップを2つ手にして戻ってくると,司馬が言った。
とりあえず言葉を無視し,コーヒー側を渡してから座る。司馬はありがとうと小さく言ってマグカップを受け取った。
司馬が話を再開する。僕は紅茶のマグカップに口をつけながら耳を傾けた。
「たとえば,幽霊を信じていない人に,信じている側が『じゃあ,幽霊がいないって証明してみろ』と迫ったとする。これは二重の意味でまちがってるんだけど,ムニくん,わかる?」
たぶん,わかる。
「1つは,幽霊はいると主張する側がそれを実証すべきであって,幽霊はいないと思っている側に『立証責任』はないということ。もう1つは,幽霊はいないと証明することは『悪魔の証明』であって,そもそも無理だから,それを要求してはいけないということですね」
「そのとおり」
司馬が微笑んでみせる。ご褒美のつもりだろうか。残念ながら効果的だ。
「『長平の戦いで40万人が生き埋めにされた』が定説である以上,『それはデタラメだ』と異論を唱えるムニくんがそれを実証しなければならないの。ありえないと主張したいなら,どうしてありえないのかを証明する必要がある。単に,常識的に考えてありえないでしょという程度では,自ら『悪魔の証明』に挑んで墓穴を掘っているのと同じよ。で,ここで大事なポイントが出てくる」
──その謎は解けるのか。
「解けない謎には挑んではいけないってこと」
「はあ」
「気のない返事だなあ。もっと目を輝かせるところでしょ」
「がんばります!」
「……うわあ。まあ,いいや。たとえば,レオナルド・ダヴィンチの名画『モナリザ』のモデルには,①リザ・デル・ジョコンダ説,②コンスタンツァ・ダヴァロス説,③イザベラ・ダラゴーナ説,④イザベラ・デステ説,⑤ダヴィンチ本人(つまり自画像)説があるでしょ(4)」
①と⑤以外は知らなかったけど,とりあえずうなづいた。
【筆者注】
(4)ナショナル・ジオグラフィック編『その話,諸説あります。』より。①が定説で,②・③・④がほとんど勝ち目がない異説。確たる証拠もない。⑤は,ダヴィンチの自画像(真筆)を反転させたうえでモナリザに重ねるとピタリと一致するので,かなり有力な説ではある。でも人間の絵って,どうしても作者のクセが出るので,顔が似るのもしかたない。上杉和也も若松真人も高杉勇作もみな同じ顔をしているのと同じだ(あだち充ファンにはおなじみ)。ウォルター・アイザックソン著『レオナルド・ダ・ヴィンチ(下)』(文藝春秋)によれば,モナリザはそもそも「マダム・リザ」(リザ夫人)という意味であり,遺産目録では「ラ・ジョコンダ」とも表記されている。かつ2005年に発見された新資料(アゴスティーノ・ヴェスプッチが1503年に書いたメモ)に,当時ダヴィンチがとりかかっていた作品として「リザ・デル・ジョコンドの頭部」と記されていた。結局,モナリザのモデルは,ヴァザーリが1550年に明言したとおり,リザ・デル・ジョコンドで決まり。そもそも謎なんてないというのがアイザックソン説(⑤に対しても強力な反論をしている)。
「ムニくんはどれが正解だと思う?」
「①」即答した。
「どうして?」
「どうせ,①かなって。答えは最初から①と確定しているのに,人と違った説を唱えてオレすごいアピールをしたい連中が②・③・④・⑤を唱えているのかなって邪推しました」
「正しく邪推ね。でも,そういうことはよくあることよ」
司馬が意味ありげに言う。
「とはいえ,0点。学者失格」
「ですよねー。正直,わかりません。『モナリザ』のモデルをめぐっては,たぶんいろんな学者が取り組んで,いろんな説を唱えて,しかも答えがまだ出ていないんですよね。そこに素人の僕が参戦しても,勝てる気がしません。既存の資料は隅々まで調べられているでしょうし。これまで誰も見つけられなかった何かを僕なら見つけられるとは思えません」
去年の僕なら,というか,司馬と出会う前の僕なら,喜んで参戦しただろう。
でも,いまは無理だ。
「素人の僕がって,ムニくんが素人じゃない分野ってあるの?」
「……」あるわけがない。僕はただの大学3年生だ。
「それはともかく,正解よ,ムニくん。『モナリザ』のモデル論争の場合,新資料が見つからないうちは,先行研究がよほど間抜けじゃない限り,こっちに勝ち目はない,つまり謎は解けないってこと。そういうテーマには,趣味で取り組むならいいけど,論文の題材としては手を出してはいけない。わからないものはわからない。それが正しい態度よ」
褒めた。あの司馬が。
「文系人間としての自覚が出てきたかな」司馬はまるで独り言のように呟いた。
僕はここで振り返る。
謎には,研究に値する謎とそれ以外の謎がある。学問の発展に寄与するのが前者だ。そして,その謎は解けなければならない。解けない謎には挑んではいけない。
解くべきであり,かつ解ける謎。
僕はこれからその謎を探すことになる。
【参考文献】
ジェフリー・リーガン著『決戦の世界史 歴史を動かした50の戦い』(原書房)
ポール・ポースト著『戦争の経済学』(バジリコ株式会社)
デヴィッド・ブラウン編『ナショナル ジオグラフィック にわかには信じがたい本当にあったこと 』
ナショナル・ジオグラフィック編『その話,諸説あります。』
ウォルター・アイザックソン著『レオナルド・ダ・ヴィンチ(下)』(文藝春秋)
ここにある逸話は,修論のくだりも含めてほとんど実話。少し脚色してあるけど。すごい人はすごいものだ。