第17話 文系は色恋沙汰に強いのか?(5)
恋に落ちた宇沢。夢中になっているあの人に、気持ちを伝えるラブレターを書こうと決意するものの、どう書いていいのかわからない。そこで、文学者たちの力を借りることにする。日本文学史上最高(最甘)の愛の詩『智恵子抄』、芥川龍之介、谷崎潤一郎の恋文……。宇沢のラブレターはどうなる?
(第16話が長すぎたので、後半を17話として再投稿しました)
〈登場人物紹介〉
僕=西嶋無二。文学部3年。好きな野菜はブロッコリー。
宇沢=宇沢普義。経済学部3年。好きな野菜はナス。
先輩=司馬朱理。博士課程1年。好きな野菜はナシ。
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その日の午後遅く,僕と宇沢普義はまた学食で落ちあった。
僕はカツカレー,宇沢はかきあげ丼。それにミルクコーラふたつ。長テーブルの端に向かいあって座る。人はまばらだ。
席につくなり,宇沢が言い出した。
「やっぱり『智恵子抄』かなあ」
「あれが阿多多羅山,あの光るのが阿武隈川──の?」
「そう。それ」
この大きな冬のはじめの野山の中に,
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを,
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。
(「樹下の二人」)
宇沢が詩の一節を朗読する。「あの光るのが阿武隈川」の何行かあとの部分だ。
『智恵子抄』は,詩人としても知られる彫刻家高村光太郎の作品集で,タイトルどおり妻の智恵子に関する詩や短歌が集められている。智恵子の死後に出版された。全編から溢れ出す妻への愛情に,読者はすっかりあてられる。
こんな詩を贈られて智恵子はどんな心持ちだったのだろう。
僕ならドン引きする。
「な」宇沢が同意を求める。何の同意かはわからない。
「な,って」いきなり詩の一節を聞かされて,しかも「な」と言われても,返答に困るだけだ。
「それから」
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
(「人類の泉」)
「な!」また同意を求めてきた。
なんだか宇沢は楽しそうだ。正直,むず痒くてしかないけれど,親友の楽しそうな姿を見るのは悪くない。悪くないどころか,むしろ尊い。
「次はこれ」
僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる
(中略)
あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる
僕にとつてあなたは新奇の無尽蔵だ
凡ての枝葉を取り去つた現実のかたまりだ
あなたのせつぷんは僕にうるほひを与へ
あなたの抱擁は僕に極甚の滋味を与へる
あなたの冷たい手足
あなたの重たく まろいからだ
あなたの燐光のやうな皮膚
その四肢胴体をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちの糧となるものだ
あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ
僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
――何といふ光だ 何といふ喜だ
(「僕等」)
「な!!」またまた同意の要求。
「聞いてるだけで照れる」
「恋愛至上主義を思わせるだろ」
「高村光太郎は,北原白秋,永井荷風,木下杢太郎らと同じ『パンの会』のメンバーだから,耽美派だと思う」
「パンの会? ああ,明治・大正じゃあ,パンは珍しいもんな。西洋文化に憧憬を抱く新進気鋭の文学者が集まって,伝統を捨ててパンを食べよう! と西洋文化の象徴たるパンをひたすら食す会を作った。で,パンの美味に耽るわけだ」
「全然ちがう」
「フギくん,あいかわらずボケがわかりづらいね」
振り返ると,司馬朱理がトレーを持って立っていた。ごはん,みそ汁,白菜のクリーム煮,あと小鉢が3つ。冷奴,おひたし,長いもだろう。いつも同じだ。
何も聞かずに僕の隣に座る。
「智恵子抄なら,これを忘れるわけにはいかないわ」
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。
(「あなたはだんだんきれいになる」)
「ね!」司馬も同意を求めてきた。
「ね,って言われても」何に同意していいのか。それなのに。
「それもいいですよね」宇沢は同意する。
「メイクなんて不要。アクセサリーも要らない。年を重ねれば重ねるほど,内心おどろくほどきれいになる。きみは神の造りしもの。きみはだんだんきれいになる。そう言われて喜ばない女がいると思う?」
司馬の熱量にまた呆れる。意外に自分の年齢を気にしているのかもしれない。
喜ばない女はいると思ったけど,それを口にしない節度を,僕は持っていた。
司馬はテーブルに肘をつき,箸で白菜をつつきながら,宇沢をまっすぐ見た。
「ラブレターの素材集め?」
「はい。そうです。まだ彼女の好意を獲得するミッション中なんですが,準備だけはしておこうと思って」
「うまくいってるの?」
「自分でもよくわからないです。少なくとも,うまくいっていない感じはしないです」
「ふーん」
司馬は箸で白菜をつつきづづけながら,宇沢から視線を外すことなく思案している。視線は宇沢を向いているが,宇沢は見ていない感じだ。少しだけ困惑した宇沢が小首をかしげて司馬を見返している。
次の言葉を待っているのだろう。
「智恵子抄は重いと思う」
「やっぱり」僕&宇沢。思わず互いを見る。内心,同じことを思っていたのだ。智恵子抄の熱量は,当の智恵子にすら重かったと思う。彼女が生きていたら,出版を止めたんじゃないかと邪推する。
「じゃあ,これはどうです」
今まで先延ばしにしてきたことをしようと思う。今までさんざんしてきたことをね。愛しているときみに言いたいんだ。きみを愛したい。これからもずっと愛していく。
ばかねと言われるのはわかってる。あれから2年も経つのに,僕には女友達すらひとりもいないと聞いたら,きっとびっくりするだろうね。でも,これはきみにはどうしようもないことだし,ぼくだってどうしようもないんだ。女性とは何人も会った。とてもすてきな人たちだったが,二人きりになりたいとは思えない。2度,3度と会ううちに,どの人も灰のように色褪せて見えてくる。残っているのはきみだけだ。きみだけは色褪せない。
きみが大好きだ。
「感動的だけど,フギくんの好きな人って死んでるの? それ,リチャード・ファインマンが天国の妻に書いた手紙でしょ」
宇沢が理系の知識にくわしいのは知っているけど,司馬の理系・文系を問わない博学ぶりにも驚く。
リチャード・ファインマンは物理学者。原爆開発に携わったり,朝永振一郎,ジュリアン・シュウィンガーとともにノーベル物理学賞を受賞したり,スペースシャトル・チャレンジャー号の事故原因をあざやかに解いてみせたりした。また楽しいエッセイを何本も残し,その文才でも知られている。高校時代以来のつきあいだった妻アーリーンが,結核でこの世を去ったのは1945年。25歳の若さだった。ファインマンが彼女に手紙を書いたのはその16ヶ月後。1988年,彼の死後に発見されるまで,手紙は開封されないままだった。
「いや,生きてます」
「じゃあ,却下」
「芥川龍之介は?」
僕も参戦する。ラブレターといえば,芥川龍之介も有名だ。僕はいくつか紹介した。
あなたは黙ってても笑ってても,僕にとっては誰よりもかわゆいのだ。一生,誰よりもかわゆいのだ。僕の自由にならなくとも,かわゆいのだ。
僕に力を与え、僕の生活を愉快にする人があるとすれば、それは唯文ちゃんだけです。だから僕には文ちゃんが大事です。昔の妻争いのように、文ちゃんを得る為に戦わなければならないとしたら、僕は誰とでも戦うでしょう。そうして勝つまでやめないでしょう。それ程に僕は文ちゃんを思っています。僕はこの事だけなら神様の前へ出ても恥しくはありません。僕は文ちゃんを愛しています。文ちゃんも僕を愛して下さい。
こんどお母さんがお出の時ぜひ一しよにいらつしやい。その時ゆつくり話しませう。二人きりでいつまでもいつまでも話していたい気がします。さうしてkissしてもいいでせう。いやならばよします。この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします。嘘ぢやありません。
「却下。キモい」
司馬は大文豪のラブレターをたったひとことで全否定した。
カタカナでボクはゼッタイにダメと加える。
これくらいストレートなほうが効果的だと思ったのに。
「宇沢は?」感想を求めた。
「じゃあ,却下で」こいつ,先輩に合わせたな。
「次は?」司馬が白菜を咀嚼しながら促す。
「じゃあ,谷崎潤一郎で」
僕はも少しどうでもいい気分だったので,谷崎で勝負してみることにした。
私は過去に於いて恋愛の経験が二、三度ありますが、ほんとうに全部的に精神的にも肉体的にもすべてを捧げて愛するに足る女性に会ったことはなかった。それが私の唯一の不満であった。もっと突込んで言うならば、私の芸術の世界における美の理想と一致するような女性、──もしそう云う人が得られたら、私の実生活と芸術生活とは全く一つのものになる。私の芸術は実はあなたの芸術であり、私の書くものはあなたの生命から流れ出たもので、私は単なる書記生に過ぎない。私はあなたとそう云う結婚生活を営みたいのです。あなたの支配の下に立ちたいのです。
一生あなた様に御仕へ申すことが出来ましたら、たといそのために身を亡ぼしてもそれが私には無上の幸福でございます。はじめて御目にかかりました日からぼんやりそう感じておりましたが、殊に此の四、五年来はあなた様の御蔭にて自分の芸術の行きつまりが開けてきたように思います。私には崇拝する高貴の女性がなければ思うように創作が出来ないのでございますが、それがようよう今日になって始めてそう云う御方様にめぐり合うことが出来たのでございます。しかし誤解を遊ばしては困ります。私に取りましては芸術のためのあなた様ではなく、あなた様のための芸術でございます。もし幸いに私の芸術が後世まで残るものならばそれはあなた様というものを伝えるためと思召して下さいまし。さればあなた様なしには私の今後の芸術は成り立ちませぬ。もしあなた様と芸術とが両立しなくなれば私は喜んで芸術の方を捨ててしまいます。今日から御主人様と呼ばして頂きます。
「で,どうですか」
最初のが谷崎の2人目の奥さん丁未子に宛てた手紙で,次のがW不倫の相手松子に宛てた手紙だ。松子宛の手紙には「御気に召すまま御いぢめ遊ばし下さいまし」という端的な要求もある。また次の不倫相手(松子の長男の嫁)には五体投地して頭を足で踏んでほしいとねだり,「薬師寺の仏の足の石よりもきみが刺繍の履の下こそ」(仏の足に踏まれるより,きみの足に踏まれたい)という歌を贈っている。
いろいろアウトだ。
「却下。もっとキモい」
司馬は谷崎もひとことで全否定した。
そりゃそうだ。でも,Mっ気のある宇沢には向いているかもしれない。
相手のために身も心も捨てようとする。ある意味,アガペーの極みだ。
世界屈指の男女不平等社会で,ここまで女性にへりくだれるのは見事でもある。
「宇沢は?」
「もちろん断固却下で。ムニ,ありがとう。なんかわかった気がする。きっと俺に気づかせてくれようとしたんだろ」
宇沢は何かが洗い流されたような爽やかな顔をしていた。
「もうやめる。ラブレターって客観的に見ると,総じてアレだな。俺が書いたラブレターが自分的には会心の出来で,仮に相手の心を動かしたとしても,半年後に見たらきっとこんな気分になるんだろうって思ったら。すでに耐えられない」
こうしてラブレターの件はなくなった。
結局,宇沢の相手がだれなのかはわからないままだ。
僕も司馬も聞こうともしなかった(興味がそもそもないのかもしれない)。
恋が成就すれば,ここに連れてくることもあるだろう。なんらかの形で紹介はしてくれると思う。
そして僕たちはふたりを祝福するのだ。
たぶん。
僕は祝福できるだろうか。
この話を書くにあたり、文豪のラブレターをいろいろと漁ってみましたが、いちばん衝撃を受けたのは芥川と谷崎だったので、このふたりだけ取り上げました。あと、亡き妻に書いたファインマンのラブレターや、南極で遭難中に妻に当てて書いたスコットの手紙など、海外のもの(あるいは、無名の人のもの)にも印象に残る手紙が数々あったのですが、なにせ長くなるので、全て割愛しました。いつか扱いたいなあ。
さて5話かけてようやく宇沢のラブレターの件は落着。
でも彼の恋に決着はついたわけではないし、決着をつけるかどうかも未定です。




