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歴史家は決して笑わない  作者: 伊武春人
第5章 文系が恋に落ちたので何とかしてみた
17/22

第13話 文系は色恋沙汰に強いのか?(1)

東洋史のゼミ室にいきなり現れた宇沢普義。彼の目的はいったい何か?


演繹推理,帰納推理につづく第3の推理──アブダクションの話

〈登場人物紹介〉

僕=西嶋無二。文学部3年。父親は高校の国語教師。

宇沢=宇沢普義。経済学部3年。両親は国連職員で、ルクセンブルク在住。

先輩=司馬朱理。文学研究科博士後期課程1年。父親はT大教授。


─────────────────────────────────



「ムニ,いるかー」

 宇沢普義はノックもせずにゼミ室のドアを開け,そう声をかけた。

「いるわけないだろ」

 僕,西嶋無二は本から顔を上げることもなく答える。ドア正面に置かれた共同机の一角に陣取り,手にするだけで上腕三頭筋が鍛えられそうな分厚い本を手にしていた。いや,正確に表現すれば,「手にするだけで上腕三頭筋が必ず鍛えられる分厚い本」だ。 


 宇沢は,胸にワンポイントでクジラの刺繍が入ったチェック柄のボタンダウンネルシャツに,濃色のデニムパンツ,カーキのフィールドパーカーを合わせていた。そういう僕もチェック柄のネルシャツにデニム,椅子の背にはパーカーがかけてある。チェック柄のネルシャツ+デニム+パーカー+メガネは,杜都大学の制服みたいなものだ。男女を問わず,学生の9割が同じ格好をしている(少なくとも僕の周囲では)。

 そんなクローンのような杜都大生を,仙台市民は愛情を込めて「いかにも杜都とうと」,縮めて「いかとん」と呼んでいる。使い方は「見て,あの人(笑)」「わー,『いかとん』だねー」だ。一周回って「あの人,いかにも『いかとん』だね(笑)」と言ったりする。

 奇跡的に,新作ドラマで横浜流星くんが同じ格好をしていた。

 でも,彼が着るとああなのに,僕が着るとこうなのはなぜだ。そして宇沢は明らかに流星くん側だ。切れ長の鋭い眉目,細く高く聳える鼻梁,男子も見惚れる美肌を備えた完璧な相貌。そして一眼見ただけで,老若男女を問わず,警戒心をなくして心を開く犯罪的なスマイル。

 宇沢はそのスマイルを浮かべた。口角がキュッと上がり,新田真剣佑を思わせる非現実的なほど真っ白な歯が10本見えている。12本かもしれない。

 見ちゃダメだ,見ちゃダメだ,見ちゃダメだ。

 見たら殺される。

「いるじゃん」

「月曜日の午前だぞ。3年生は講義に出ているし,4年生以上はまだ自宅。ゼミ生がぞろぞろ集まってくるのは昼すぎだ。用があるなら昼すぎに来るのがセオリー……なのに,なんで来た? というか,フギ,講義は?」

「ムニはいると思って」

 遠慮なくゼミ室に入ってきて僕の向かいに座る。テーブルに両肘を乗せて顔を近づけ,組んだ人差し指に唇をのせる。

 じっと僕の目を見つめた。

 でも,僕は見返さない。頑なに手元の重い本に目を落とす。

「午前中ならゼミ室にはだれもいないだろ。ムニなら,講義に出るより,そんなだれもいないゼミ室で静かに読書する方を選ぶかなって。それに,ムニはもう卒業に必要な単位をほぼ取り終わってるから,今年はゼミ以外にほとんど出る気はないはず。したがって,月曜午前のゼミ室にはムニしかいないと予想した」

「見事な『推測アブダクション』だ」

 あのシャーロック・ホームズと同じ種類の推理である。

 演繹推理でも帰納推理でもない。わずかな条件から真実に一瞬でたどりつく推理だ。ホームズがワトソンの素性(アフガニスタン帰りの軍医だとかなんとか)を一眼で当てたのと同じである。専門用語で「アブダクション」という。訳語は「推理」ではなく「推測」。宇沢はこのアブダクションの名手だった。


 演繹推理は,一般的な原理・原則を個別事例に当てはめて結果を推論する。

 たとえば,

 

①すべての人間は必ず死ぬ。

②ソクラテスは人間である。

③したがって,ソクラテスは必ず死ぬ。


 という三段論法が有名だ。①と②が前提として与えられれば,必ず③は成立する。演繹推理の強みは,Aならば必ずB,Bならば必ずC,Cならば必ずD……と推論をつづけることで,最初に与えられたAからはるか遠く先までもを見通せることだ。

 一方,帰納推理は,個別事例の集合から一般的な原理・原則を導き出す。

 たとえば,


①後藤(♂)は浮気した。

②都築(♂)も浮気した。

③石橋(♂)も浮気した。

④加賀(♂)も浮気した。

⑤賀屋(♂)も浮気した。

⑥別府(♂)も……

 

 という個別事例の集合から共通項を見出し(「後藤も都築も石橋も……すべて♂」),そこから一般的な原理・原則(「すべての♂は浮気する」)を導き出す。

 演繹推理も帰納推理も,僕らが普段から何気なく使っているものだ。

 戦場で兵士が「オレ,国に帰ったら,コイツと結婚するんだ」と言いながら恋人の写真を見せてきたら,そいつは確実に死亡する。彼の余命は10分も残されていない。これも,まずは戦争映画をいくつか見て「生きて帰国したいと切望する兵士は死ぬ」というパターン〈=一般的な原理・原則〉を抽出,あるいは,学習し(帰納推理),その後,新たに戦争映画を見て似たようなシーンに出くわすと,「あ,フラグが立ったな」と察知する(演繹推理)。

 演繹推理は哲学や数学や理論物理学を支える思考方法で,帰納推理は実験物理学をはじめすべての経験科学・実証科学を支える思考方法である。科学者が実験をくりかえし,何度でも同じ結果を再現できるのか検証するのはそのためだ。ちなみに,演繹に限界があることはゲーデルが証明し,帰納に限界があることはヒュームがとっくに指摘している。

 宇沢が得意とするアブダクションはどちらにも属さない。第3の思考方法だ。

 アメリカの哲学者パースは,この「推測アブダクション」を「根拠のないこと,どこにでも見られること,しかも信用に値することを主成分とする……奇妙なサラダ」と説明する。人間はある状況に置かれると,直感的に意味を解釈して状況をわかろうとする。この傾向は人間に備わった本能であり,かつ「本能的な力のうちでは最高のもの」とパースは言う。そしてその解釈=仮説について「仮説が実際の事実と一致する頻度の高さは……宇宙の不思議の中でも確かに最も驚くべきものである」と述べた。

 宇沢は「月曜午前」という条件から瞬時に「西嶋無二はゼミ室にいる」と推測したわけだ。


 僕はようやく目をあげた。

「じゃあ,ひとり静かに読書したり思索したりできる大切な時間を,僕がだれにも邪魔されたくないってこともわかってるよな。それに,月曜午前のゼミ室にいるのは,あえて人がいない時間帯をねらってくる僕みたいな人間嫌いだけじゃない……」

「週末に自宅に戻らなかったズボラ女もいるよ」

 宇沢の背後。書棚の陰から声がした。

 声の主は司馬朱理。ゼミ生からは「女帝」と呼ばれている。博士後期課程1年。なぜか40手前のポスドク(ポストドクターの略。就職が決まらず,博士課程から抜け出せない,でも夢をあきらめられない半死半生の存在)からも一目置かれている。まさに,我がゼミの女帝だ。

「司馬さん,また泊まってたんですか」宇沢が言う。

「そう。また」

 司馬はゼミ室の主だ。寝袋を持ちこみ,いつも書棚の間で寝ている。いまも寝袋の中だ。

「そもそも院生が家に帰る理由がわからない。帰っても寝る以外にやることなんてないでしょ」と言いながら寝袋から這い出し,おもむろに立ち上がる。

「たぶん寝る以外にもやることがあるからだと思いますよ」

「そう?」

 僕の言葉は流された。司馬もネルシャツにデニム。問題は何日同じネルシャツを着ているかだ。この時期は汗をかかないから,三日くらいじゃまだ臭わないでしょ,とか平気で言う女だ。以前,何日風呂に入ってないんですかと聞いたら,自分で自分の臭いに耐えられなくなったら入るから大丈夫と答えた。何が大丈夫かわからない。たぶん司馬さんが耐えられても,周囲の人間が耐えられるかどうかは別ですよ,とやんわりアドバイスしたら,そのときは言ってねと最高の笑顔を向けられた。

「ムニくん,お湯は?」

「あります」電気ポットのお湯のことだ。今朝,僕がセットした。

「フギくん,飲む?」

「いただきます」

「司馬さん,僕には聞いてくれないんですか?」

「聞かない。いつも断るから」

 司馬はインスタントコーヒーの粉をビンから直接マグカップにふりいれると,お湯を注いだ。無言で1つを宇沢に渡す。司馬の言葉は正しい。僕はインスタントコーヒーは飲まない。あとで紅茶を入れることにしよう。


「で,フギ,用は何だ?」

 そう僕がたずねると,宇沢はためらいも見せずに言い切った。

「ああ,文系の出番だ。ラブレターを書くのを手伝ってくれ」


「後藤→都築→石橋→加賀→賀屋→別府→……」と来て、次は実は「津田さん」!。


マルセイユ、よしもと漫才劇場で見て以来、ファンです。

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