エピローグ
春。僕が初めて幽霊に出会った季節がやって来た。
この半年、僕達が旅行を楽しんでいる間に、世間はちょっと賑わっていた。
藤野御影のゴーストライター問題。出版社と藤野御影との間でトラブルが起きて、結局出版社側が、藤野御影に騙されていたのだとして裁判にもつれ込んだ。
どれだけ藤野氏が誤解だと言っても、最終巻の盗作――という形になっている――に関しては弁護も出来ず、そこからボロが出始めた藤野氏が自爆する形で幕を閉じた。
人気作家の不祥事にメディアは過敏に反応し、すぐにバス事故の被害者である『瀬良つぐみ』に辿り着く。裁判が起こるまでの間に、執筆用のパソコンをゆめさんの実家に送り、事の経緯まで手紙で伝えていた事が功を奏したらしく、ゆめさんは藤野御影に騙された人として、批判の目からは逃れることが出来ていた。本人はあまり気にした様子はなかったけれど。
ゆめさんの実家、瀬良家側から、何か動きがあるかと思ったけれど、幸い何もなく今日に至っている。
何故出版が春にまで延期されたかというと、単純にバス事故の日に合わせたかったからとの事。商売的で悪いと謝れたが、一回忌と称して出版した方が話題になるかららしい。
何だかんだと、僕達の望んだ結果になり、とうとう発売まで明日に差し迫った今日、適当に家の近くを散歩していた。
「いよいよ明日ですね。萩原さんと一年ほど過ごしてきましたが、案外楽しかったです」
「楽しかったのは同感。まさか、月の半分以上旅行することになるとは思わなかったよ」
「一月なんて、一週間も家に居ませんでしたからね。楽しかった分、寂しくもあります」
「寂しいけど、生きていても別れは来るものだし」
「私は死んでいますからね。この一年は奇跡のようなものでしたが、何より幸運だったことは萩原さんに出会えたことです」
「それはどうも。欲を言えば、ゆめさんとの別れは、桜が咲いている時が良かったんだけど」
初めてゆめさんと会った日にも歩いた、桜並木を通りながら、蕾が付き始めた枝に目を向ける。
「相変わらず、ロマンティストですね。私も人の事言えないかもしれないですが、卒業式っぽくていいと思いますよ、今の時期も。そう言えば、良かったんですか?」
「良かったって何が?」
感傷に浸るのをやめるためか、ゆめさんが話題を変える。
「小説の中の萩原さん、死んじゃいましたけど」
「そうしないと、伝えたいことを伝えきれなさそうだったからね」
「萩原さんが良いならいいですけど」
ゆめさんが意味ありげに言葉を濁し、チラッとこちらの様子を窺う。
それから、何かを納得したように「いいです」と言い直した。
「結局、私のお金に手を付けずじまいでしたけど、明日から萩原さんはどうするんですか?」
「何にも考えてないかな。って言うか、考える必要がないんだよね」
「何言っているんですか。まるで今日死ぬみたいですよ?」
「うん、今日死ぬつもりだよ」
静かな桜並木の中、「え」とゆめさんの声が僕の耳だけに届く。
短い声と共に、動きまで止めてしまったゆめさんに合わせて足を止め、いつもの調子で話し出す。
「ゆめさんも知っての通り、僕はもともと死のうとしていたんだよ?」
「確かにそうですけど、そうでしたけど」
取り乱したゆめさんにかける言葉が見つからずに、次の発言権をゆめさんに譲り、ゆめさんは何かにすがるような勢いで続きを話し始めた。
「萩原さん、人も自然も建物も、好きだって言っていたじゃないですか」
「うん、好きだよ」
頷いてから歩き出す。本当は歩道橋の上が良かったけれど、生き残る可能性が高すぎるし、ビルから跳び下りるとしたら、誰かにぶつかった場合に道連れにしてしまう。
「萩原さんほど、この世が好きな人は居ないじゃないですか」
「それは買いかぶりすぎだと思うけどね」
「なのに何で死ぬとかいうんですか」
なのに、は文頭に使ってはいけないと、ゆめさんから教わったと思うのだけれど。
それだけゆめさんが動揺しているだけで、いちいち指摘する事でもないが。
「どれだけこの世が好きでも、お金がないと生きていけない世の中なんだよ。
そして、お金を手にするには、社会に出て働かないといけない。でも僕は社会に馴染めない。そう言う事だよ」
駅について、切符を買う。ここに来るまでの間、いっさいゆめさんの顔が見られなかった。
ただでさえ、悲痛な声が胸を締め付けるのに、顔まで見たら足を止めてしまいそうだから。
ゆめさんとの会話は、大きな間を作りつつも、ポツリポツリと進んで行く。
「家族はどうするんですか」
「悪いなとは思うけど、僕が生き続けても迷惑をかけるだけだろうから」
家族には明日手紙が届くようにしてある。謝罪の意味もあるけれど、それ以上に僕が死んだことを世間に伝えてもらうために。
「マスターさんは、マスターさんは、萩原さんの事を頼りにしていたのに、急に死んだら、大きなショックを受けますよ?」
「今宮さんがいるからね。きっと支えになってくれると思うよ。
ちゃんと、今宮さんにお願いもしたわけだし」
「他にも沢山友達がいるって、言っていましたよね。旅行中もたまに連絡を取っていましたし、会えそうな人とは会っていたじゃないですか」
「最初はショックかもしれないけど、僕が亡くなった日を理由に、また皆で集まって楽しくのんでくれたらいいんじゃないかな」
これは僕が勝手に望んでいる事だけれど。気のいい奴らだから、こちらが頼めばノリ良く呑んでくれるのではないだろうか。
目的地に着いて駅を出たら、目の前に青い海が広がっている。少し行けば砂浜だけれど、無視して崖へと続いている坂を上っていく。
時期のせいか、立地のせいかひと気が無くなり、崖の上に着いた。
のぞき込めば、波が岩肌を叩き付けている。落ちたらひとたまりもないだろうなと言う予感が、今はむしろ安心を運んでいた。
「萩原さん、やる事があるって言ったじゃないですか。それはどうしたんですか」
「ゆめさんのお蔭で、予想以上のものが出来たよ」
「私の……お蔭?」
「僕を題材にした小説を書いてくれたでしょ?」
崖の縁に腰かけて、ゆめさんとの最後の会話を楽しむことにした。
青い空、青い海。少し肌寒いけれど、僕の最期としてはこれ以上の場所はない。
「私は、萩原さんの、遺書を書いていたんですか?」
「騙すような感じになったけど、お互い様だからね。それに、世間的にはただのフィクションを描いた小説って事になるだろうし」
「酷いです。萩原さんは酷いです」
駄々をこねる子供のような泣き声が聞こえる。
「ゆめさんに訊きたいんだけど、やっぱり人はどんな状況でも生きるべきなのかな?」
「答えてあげません。どうせ、肯定しても否定しても、萩原さんはそこから跳び下りますから。否定したら『そうだよね』って感じで、肯定したら喜んで」
ゆめさんの言う通り、どちらでも跳び下りようとしていたのに、最期の最期で上手くいかない。
「萩原さんはもう、そこから前に進む気しかないんですよね?」
「無いよ」
「じゃあ、せめてこっちを見てくれませんか?」
頼まれてしまっては断れない。ゆっくりと視線を向けた先に居たゆめさんは、幽霊の癖に泣き腫らした顔で、無理やり笑顔を作っている。
「酷い顔だね」
「酷い顔だと思います。萩原さんがこうしたんですから、せめて受け止めてから、跳び下りてください」
「ああ、そうだね」
ゆめさんから逃げちゃいけない。逃げていたら、ただでさえほど遠い、僕の思う大人からより遠ざかってしまうから。
「最期になりますから、私が萩原さんに言いたかったこと、全部聞いてください」
「凄い身勝手な話だね」
「私には萩原さんを止める手段がありませんから、聞きたくなかったら方法はいくらでもありますよ」
ゆめさんの言う通り、ゆめさんに出来る事はせいぜい話をするか、目隠しするかくらい。僕がここから跳び下りる事を止める事はまずできない。
最期だからと、恨み言や不満をぶつけられるだろうけれど、覚悟したうえでゆめさんの話を聞く事を選ぶ。自分の人生からは逃げても、ゆめさんからは逃げたくなかったから。
「まず、何で今日なんですか? 明日、私が居なくなった後でもいいじゃないですか」
「明日、本が発売するから、今日じゃないと駄目なんだよ」
「なおさら明日店頭に並んでいるのを見てからの方が、良いじゃないですか」
確かに店頭に並んでいるものを見て、安心して逝けば良いかもしれない。でも今日でないといけない理由がちゃんとある。
「発売後に死んだら、本の真似をした人になるけど、発売前だったら『本の内容が事前に分かっていたかのように』って事で話題になるかもしれないでしょ?」
僕の死が本と無関係だと思われないように、手は打ってあるけれど。
今の僕の望みは、僕のを題材にした小説が一人でも多くの目に留まる事だから、死ぬことで話題になる可能性があるのならばこれ以上の事はない。
「一種のミステリやホラーですね。
自殺するくらいなら、死んだつもりで、最後に何でもやってやろうとは思わないですか?」
「もうその段階じゃないんだよね。なりふり構わずやって、二度失敗したわけだし。
その中で、死ぬと言う選択肢が、重大なものではなくなったんだよ。苦痛と死だったらだったら、迷わず後者を選べるくらいにはなったよ」
むしろ死が安らぎにすらなっている。悔やむべくは、どう調べても両親に迷惑を掛けずに死ぬ方法が無かった事くらい。
「萩原さんって、優しいですよね」
「買いかぶりすぎだよ」
感情を殺したように平淡な声でゆめさんが話を変える。
「でも、気遣いがちょっとズレてますよね。別に私の前で寒いとか暑いとか、言ってくれてよかったですし、喫茶店で私の分のコーヒーを頼む必要も無かったです」
「その辺は自己満足だって自覚はしているよ」
「頼んでもいないのにいい迷惑でした。なんて」
ゆめさんが頬を緩ませ、幽霊らしく僕の目の前に浮かぶように移動した。
強い海風が吹いても、ゆめさんは全く動じない。
「本当は萩原さんの気遣い嬉しかったんですよ。死んでから萩原さんと出会うまでの間は、私と言う存在が自分の中でも怪しいものになっていましたから。
ちゃんと私がいること前提の言動をしてくれた萩原さんには、感謝しきれません。例えそれが萩原さんの身勝手だったとしても」
「ゆめさんが、好意的に受け取ってくれたからそこだから、感謝する必要はないよ」
本音で話すゆめさんに失礼が無いように、柄にもなくても、本音で返す。どれだけ相手の事を考えたつもりになっても、それはつもりでしかなく、どんな好意も受け手次第で悪意に変わる。
ゆめさんは、曖昧に笑ってから、そんな事はないとばかりに首を振った。
続けて、短く息を吐いたゆめさんは、「さて」と遠くを見る。
「言いたかったこと全て、というわけにはいきませんでしたが、もっとも言いたかったことくらいは殆ど言えました」
「殆どって事は、全部は言えてないんだね」
「まあ、私が言いたいだけで、言って良い言葉だとは思っていませんから」
「そう言う事なら、深くは聞かないよ」
ひと段落ついたところで、ゆめさんが一度目を閉じて、大きく深呼吸をする。それから、ゆめさんは優しく微笑んだ。
「さっきは答えませんと言いましたが、否定するって言うのが約束ですもんね」
ゆめさんが、道を開けるように少し横にズレる。
「萩原さんは生きるべきです。どれだけ辛くても、生きないといけないです。死んで全てを終わらせようなんて、ただ逃げているだけにすぎません」
「うん、普通はそうなんだろうね。でも、僕はそうは考えられない。この社会に適合していないから」
ゆめさんからの贈り物に、お約束のように言葉を返して、空と海の境目に目を向けた。
聞こえないだろうと思いつつ、「ありがとう。先にいっているよ」とゆめさんに呟いて、立ち上がる事なく、僕は海へと落ちて行く。途中、ゆめさんの声が聞こえた気がした。




