12話 頼み
何とか原稿を送ったあの日から、僕達は平穏な日々を過ごしていた。
昼間はゆめさんの手伝いをしつつ、ゆめさんの手が止まったら、気分転換に連れていく。
日が落ちる前に作業を終えて、夜の時間をテレビを見たり、話したりして過ごしてから、ベッドに横になる。
次の締め切りだが、最終巻と言う事で四か月以上もある。時間に余裕があるためか、執筆中に文句を言われることはなく、ゆっくりだが着実に文字が物語になり、二か月が経つ頃には、九割書き終わっていた。
最終巻とは言え、ほぼ一冊分のストーリーを読んで分かる。ゆめさんの小説は面白い。
ゆめさんの言葉を聞きながら、続きが気になる場面がいくつもあった。
殆ど文章に触れていなかった僕が面白かったと言う事は、文章としては簡単なのだろう。敢えて読みやすい言葉を使っているのか、こういう風にしかかけないのかはわからないけれど、本が苦手な人もすらすら読めるのは良い事なのだと思う。
今日も執筆の予定だったのだけれど、パソコンをつけようとする僕を、ゆめさんが制した。
「締め切りまで、あと二か月以上あります。小説もほとんど完成したと言っていいところまで来ました。
だから、萩原さんが私に書いてほしいって作品の事、もう教えてくれますよね」
「答える前に、ゆめさんに訊きたいんだけど、どの段階で未練がなくなったって言うのかな? この作品を完結させられなかったことが未練だ、って言っていたよね。
それって、書き終わった直後なのか、店頭に並ぶまでなのか、売れ行きを確認してようやくなのか、ゆめさん自身は分かっているの?」
「私が満足したら、だとは思うんですが、自分でも分からないですね」
書き終わってすぐ成仏する可能性は、捨てきれない訳か。だとしたら、頃合いなのかもしれない。
「僕の事について書いてほしいんだよ」
「萩原さんについてですか?」
「小学生の頃から、今日にいたるまでの僕を題材にして欲しいだけど、駄目かな?」
「私に自伝を書け、という話なら、できません」
「ゆめさんは小説家だから、頼むのは小説だよ」
ゆめさんの名前を借りたいのに、自伝を書いて貰ったら、ゴーストライター使いましたと宣言しているようなものだ。
なにより、萩原稔という名も知れぬ一般人の自伝など、誰が読むのだろうか。
ゆめさんの表情は硬いままで、何か言い難い事があるかのようだ。
「引き受けるかどうかは、萩原さんの話を聞いてからでもいいですか?」
「ネタとして、面白く無いといけないんだよね」
「はい。私も小説家の端くれですから、面白く無い話を作品にする気はありません」
ここまで話して、ようやくゆめさんの表情が和らいだ。
「ですが、幽霊の手伝いをしている時点で、面白いと言えば面白いんですけどね」
「こうやって手伝っている以上、成仏の手伝いをしている人は割と多いのかもしれないけど、話に聞いた事はないね」
「しばらくは、完成させない程度に私の作品を進めつつ、萩原さんの話聞かせてください。
おそらく、一か月ほど設定を練ってから、書き始める事になると思いますので、何か外せない要素があれば、早めに言っておいてくださいね」
「了解。とりあえずは、主人公を僕にしてくれたら良いかな」
書いてほしい事は尽きないけれど、すべての要素を取り入れたら、きっと収拾がつかなくなる。だから、ある程度は頑張ってもらうにしても、基本はプロの判断で取捨選択してほしい。
「話も纏まったところで、マスターさんの所に行きましょうか」
「マスターの所に?」
この話の流れで、どうしてマスターの名前が出るのか分からなくて、怪訝な顔をする。
「この前のコーヒー無料券も使っていませんし、二か月も行っていないですから、心配するんじゃないですか?
あとは、小説を書かないといけませんから、萩原さんの観察です」
最初の二つはともかく、僕の為と言われたら行かざるを得なかった。
二か月ぶりにやって来た、飲み屋街の喫茶店には、やはり人は少なかった。
しかし、僕の知っている頃とは違い、カウンター席には誰もおらず、テーブル席に一人ずつと言った具合。
退屈そうに頬杖をついていたマスターが、僕を見つけた途端、嬉しそうに顔を上げる。
「よう萩原、久しぶりだな」
「一応客として来ているんだけど」
「いらっしゃいませ、ご注文はいつものでよろしいですね」
どうやらこちらに決定権はないらしい。普通に対応されたとしても、いつものを頼むのだが。
「いいよ」と軽く返したいところだけれど、確認の意味も込めて、財布から暗号付のマスターの名刺を取り出した。
「これ使える?」
「お、解けたんだな。何回使う?」
「回数何て書いてたっけ?」
首を傾げる僕を前に、マスターが『五十一』と書かれた部分を指さした。
まさか五十一回も使えるのか、と信じかけたところで「冗談。一回だけだよ」とマスターが背を向けた。
「じゃないと、商売あがったりだろうからね。それにしても、テーブル席に人がいるって珍しいね」
「俺がテーブルまで行く必要がなくなったからな。香穂ちゃんがいる時にはテーブル席を開放しているんだよ」
「むしろ、普段は開放してないんだね。少数とは言え、テーブル席に人がいるのを見た記憶があるんだけど」
「基本俺一人だったから、なるべくカウンターに座ってくれた方が楽だろ?
ただ、お前とか、よく話す人がカウンターに来たら、あとから来た客はテーブル席に促すけどな」
店長として自分勝手が過ぎると思うが、一日のノルマは二十人――今宮さんが来る前の情報だけれど――との事なので、一人でも多くの常連を作る事を目的にしているのかもしれない。仮に二十人の常連が毎営業日に来てくれたら、やっていけるのだ。
しかし、現実にはそうはならないし、回転率などを考えた場合、テーブル席でコーヒーを飲むだけ飲んで帰る様な人も必要だとは思う。
他人様の営業方針は別にどうでもいいが、今宮さんが来た事で、マスターの喫茶店が変わり始めたのは確かだろう。
「話は戻るんだけど、よく暗号思いついたね。流石に小説の方の暗号は無料券じゃないでしょ?」
「あれな。有名な作品だし、話の種になるかと思って考えていたわけよ。
作品を知らなければヒントを出して、知っていたらノーヒントで。
答えが分かればまた来てくれるだろうし、分からなくても答えが気になったら、来てくれるだろ?」
「他の人にはやったの?」
「試しにやった人間が、なかなか来なくてね。改良出来ないか考えているところだよ」
「最近忙しくてね。来る余裕なかったんだよ」
カウンターの向こうで、マスターが驚いて目を丸くする。
ゆめさんに出会うまでの半年間は、暇だから週一で来ていた事もあったし、僕が無職なのも知っているから、驚くのは分かるけれど。
ゆめさんの事を話しても信じてくれなさそうなので、適当に笑ってごまかす事にした。
「お客様のプライベートに踏み込み過ぎるのも、あまり良くないからな」
「踏み込むとか以前に、もっと働いたら? さっきから今宮さんしか働いていないように見えるんだけど」
マスターが僕と話している横で、今宮さんが会計とテーブルの掃除をやっている。
マスターは困ったように笑って、今宮さんの方を見た。
「出来る事は自分がするから、俺は客と話していて欲しいんだと。最初はフォローできるようにと見ていたんだが、必要なさそうでね、任せる事にしたんだ。
こっちは助かるが、今度は無理していないかを見てないとな」
「良かったね。良いバイトを見つけて」
今宮さんの場合は、個人的な感情が入っていると思うので、一概に良いバイトで済ませられないけれど。
仕事を終えた今宮さんが僕達の所にやってくる。
「こんにちは、お久しぶりです。何を話していたか訊いても大丈夫ですか?」
「香穂ちゃんが良い子だねって話」
「えっと、ありがとうございます」
今宮さんが頬を朱に染めて、俯き加減に答える。傍から見たら今宮さんの好意は分かりやすいのだけれど、マスターは気づいた様子はない。
この空間にいるのはいたたまれなかったのだけれど、ゆめさんが「彼女に漫画の話を訊いて貰っていいですか?」と言うので、惚けている今宮さんに声を掛けた。
「今宮さんって、いつから漫画家を目指しているの?」
「中学生の時です。当時インターネットに好きな漫画があったんですけど、書いていたのが年齢が一つ上の人で、わたし絵を描くのが好きなので自分にもできるかなと書き始めたんです」
渡りに船だったのか、今宮さんは早口で訊いてもいない事を答えてくれる。
「高校生になっても漫画ばかり描いていて、両親に漫画家になりたいと相談したら、専門学校に入れてくれたんです。
今年で専門学校を卒業したんですけど、漫画家の夢を捨てられないので、バイトを探していた時にマスターが雇ってくれました」
嬉しそうに笑う今宮さんの表情には、まだ幼さが残っている。
「今宮さんは、どういうジャンルの作品を書くの?」
「学園ミステリ、でしょうか。最近の藤野御影さんが書く話が好きで、わたしも物語を考えているんですけど、漫画と小説で違う事もあって、なかなかうまくいきませんね」
「やっぱり、藤野御影って昔と今と違うの?」
恥ずかしそうにしている今宮さんに、関係ない話で悪いが、藤野御影に対する修飾語がどうしても気になった。
今宮さんも急な質問で、理解するのに時間を要したようで、何度か大きく瞬きをする。
「そうですね。昔の藤野さんの作品は文章が硬かったんですが、最近の作品とても柔らかくなったんですよ。ネットでは、まるで若返ったようだ、とも言われているらしいですね」
時代に合わせて作風を変えたのだろう、ゆめさんがこういう点に憧れたのかはわからないが、僕個人としては尊敬できる。
このまま藤野御影の話になりそうだったけれど、マスターが僕が殆ど藤野御影を知らないと割り込んできて、良い時間だったので喫茶店を後にした。




