2-5 Void Structure:5
気分は下の下だったが、彼は岩場を探して森の奥部に向かっている。…はずだ。途中で見つけた小川には、幸いなことに生き物の気配はない。目に見える範囲、耳で聞こえる範囲に以上はなく、夕日の反射に目を奪われて吸い込まれるように倒れ込んだ。ややあってから手を付き、頭を振って水を払う。数時間?前日からも含めれば数日?の水分補給は大層爽快なものだったに違いない。微生物の苦味もなく、ミネラルが汗として流れた身体の隅々までいきわたり、心まで爽やかだ。
「生き返る……、とは、この事か…。っていうか水美味しい…。」
虚脱するほどの衝撃。何処かの漫画家が、漫画には経験を反映するものと言う持論を持っていたそうだが、今なら水の表現が詳細にできるかもしれない。一つの経験を積み、また水を浴びて冷静になった頭で、男は再び森の奥、岩場を目指した。眼の中には今、当初見えていた風の輝きが再び見えていた。ある程度思考に余裕がある時にしか見えてこないらしい。
それを踏まえながら、今更裸足になるリスクのほうが高いために靴も脱がずに進んでいく。考える余裕ができて、シュウが視覚化出来るようにした、としたこの光を頼りに。
「これは、マナ、っていうやつなのか?それとも零子?…なんだか植物も不思議な色合いだし、妖精やエルフってやつもいそうだ。」
言葉を発しながら思考を整理。想像力を働かせると、今写っている光る風も妖精のイタズラのようであるが、段々と日が落ち、夜が迫ることで視界不良が広がっても風の光は地形を照らし出さなかった。このままでは夜の密林に放り出されてしまう。風に紛れて虫の声もしてきた、ファンタジー要素があるのであればろくでもないモンスターの存在も危惧せねばなるまい。例の熊のような。
「なら、急がないと。此処では簡単に死ぬ…、もう死ねない、死んで、たまるか…。」
情報はない。目的と、力もないも同然。もとよりそんなものはない。ないない尽くしでも意思は折れない。湧き出す熱が脚を逸らせた。土が砂利に変わり、小石が徐々に大きく砕けて広がる地面。あるきにくいが、しかし進まなければと懸命に。
風の中の光が目の間で散った時、彼は寸前で足を止めた。岩山である。その表面に激突して光が平たく広がり、あるものは流れ、そしてある程度は吸い込まれたのだ。人間が激突すればただ跳ね返されて終わるだけの断崖、その根本に。
つまり完全に夜になっていた。視界は晴れない、風の光は消えた、後は壁伝いに進んで状況の好転を祈るしか無い。どん詰まりが見えてきたぞ、と彼は鼻で笑った。笑うしか無い。空腹感にも苛まれだしたが、周囲に食べられそうなものはない…と、早々に打ち切って進もうとした脚が止まる。
「お、っと。…これ、は、?」
足元で光った何かを手に取る。散々踏みしめてきた石ころがその正体だった。陽の光がある間はなんの変哲もなかったけれど、光を失った今、表面に粒子状の何かが集って発光している。淡い光だが、彼にしか見えない風とは違って周囲を照らし出し、水を打つ静寂の中で光もまた波のように広がり、岩肌をも駆け巡る。蛍石のようだ、と感嘆していたが、続けざま、彼は石を取り落とすことになる。
「うわいたっ!?ふぁっ、なにっ、石が?」
手のひらに乗る小石から急に結晶が四方八方に伸びだし、淡い光を湛える。急激な変化で手のひらに刺さった痛みに驚いてたたらを踏んだが、ミョウバンや尿素実験を思わせる結晶がそこら中の石ころ、岩、断崖表面に至るまで生え揃い始めたのである。現象の理由は全く説明がつかない、まだ知識の揃っていない彼には出来ないことだったが、生まれた結晶によって照らし出された森の葉は光沢によって昼とは違う照り返しを放っており、夜でも消えない光となって男の影をかき消していた。明暗の落差で目がくらむけれど、慣れてくれば、成程、誰かの思い描く幻そのものの光景であった。あまり大きくも頑丈でもない肺から漏れた感嘆のため息。
「こんな幻が現実なら、悪いものでも、ない。」
今まで斜めに構えていた異世界というジャンルへの見方が変わった気がした。神経質な彼だが、想像力はありあまる。目の前で輝き、触れられる現実に手を伸ばして、結晶で手を切らないように注意しながら、再び歩き出す。結晶は鋭利なものも多く、注意しなければ傷を受けそうだ。結晶の方に受ける傷は、あまり気にしなくてもよいかもしれなかったけれど。
クリスタルに彩られた樹海旅行の様相を呈してきた。空腹も命の危機も忘れて耽溺できた数分間はなかなか幸せだったのだが、結晶諸共余韻を打ち砕く現実の音は後方から鳴り響く。重苦しい足音のようにも聞こえて、身をこわばらせて、壁づたいに後ろに振り返る。
ひぃ、と引きつった音が喉から絞り出された。引きつったまま笑ってしまうが、どうしても硬くなる。
「く、くま、…まさか、さっきのっ。」
異世界第一遭遇熊を想起したが、実際同一人物であろう。身重4mほど、毛並みにツメの並び、怒りに我を忘れっぱなしな形相といい、どうにもデジャブで済まない既視感。せっかく現実逃避したのに突きつけられて腰が砕けそうにもなったが、後退りして、壁にしがみつき堪える。これだけ苦しんでおいてデッドエンドは承服しかねる。
だが幸い、距離はあった。やり取り次第では逃れられるかもしれない。こちらを見つけるなり大きく立ち上がっていて、四足に移行するまでに少しは間があるかもしれない。熊害被害マニュアルを口に出して思い出す。
「く、熊を刺激しないように、たしか、…そう、たしか高いところに、死んだふりはアウトで、荷物はくれてやって、大声…は、もうダメか、完全に、キレておられる…。」
うまく想起できないでいるが、睨んではいけないということなので視線をただ合わせたまま、後退りをしようとした。だが熊が足元の結晶を踏み砕き、体重でもって威圧でも仕掛けたのだろうと怯んだ瞬間に状況が変わった。砕けた水晶の破片が空中で時間ごと停止し、熊の周囲をぐるぐると回転。徐々に速度を上げた結晶片が、最終的に円周の中心に収束し、なんと熊に吸い込まれたのである。
「はぁ!?」
何が起こったのか。考えている間にも壁の水晶を、地面の結晶を割り砕いては吸収し、熊はどんどん変容していく。ツメが伸び、結晶の光沢を帯び、毛皮の隙間や関節から取り込んだクリスタルが生えだしてより凶悪なシルエットを描き出す。気持ち体格も良くなっており、終いには怒りに歪めていたつぶらな眼さえ爬虫類ように縦割れして、害獣捕食者が完全にモンスターへと変貌したのである。彼も予想外が過ぎて目が飛び出そうになる。
「待てや!ただのクマだったんちゃうんかい!?何だその中学生が好きそうなトゲトゲは!!」
『じゃぁかあしゃあいっっ!晶石取り込んだったで、もう逃さへんぞサルゥ!!』
「キェエアああああ喋ったぁあああああ!!?」
恐怖のあまり脳内麻薬が分泌し、思わず突っ込んだら予想外のお返事である。しかもそこそこドスの利いた関西弁_おっさんボイスである。獣の筋力、肺活量から浴びせられた罵声にもはや脊髄で声が絞られる有様。余裕はない。多分。
『こちとら懐かしいえぇニオイを嗅いでただけっちゅーのに、耳元で怒鳴りおるわちゃーちゃー逃げるわやかましいわでよォ、ええかげんウンザリやねんなァ』
「こっちにだって事情があるんですよ!何弁だか知らないけど喋れるんならわかってくださいよ!!」
『じゃぁあしゃいィ言うとんのやァッ!!』
熊の口腔と声帯でどうやって喋っているのかは疑問だったが、腕まくりして人間じみた仕草をされたらふつーは意志力を折られる。尻餅をついて、隠しきれない恐怖を浮かべながら後退りするしか無い。こういう時の方言は標準語より怖いものだ。
『ふっふっふぅん、この森の大将様を怒らせといて、生きて帰れる思うなよ我ァ。首から舌は生で食い散らかしてェ、上は目玉と舌ァ引きずり出して、将軍様への貢物にしてやるけェのォ』
「R-18Gはひゃめおろぉう!?たぁすけてぇええええーーー!!誰かァーーーー!!」
こんなときでもレーティングが気になってしまうのはサガでしか無いが、万事休すである。森の奥であることも忘れて助けを求めるが、負のご都合主義を排したからと言って正のご都合主義を期待するのは、また理不尽というものか、と。叫んでおいてふと思い至る。
(また死ぬ。こんな簡単に死ぬ。結局異世界に転移させられてもこのザマか。あっけなく、天災のように死ぬのが、オレの人生。分相応と。)
頭が冷え始める彼とは対象的に、気がたった魔性の熊は舌なめずりをして距離を詰め始める。数歩でツメを下ろすだけの位置を取れるだろう、こちらに対して優位を取っている捕食者の面構えを見ていたら、悲観していた男の何かがひどく疼いた。
(……オレは人生で何を残したか。)
走馬灯のように駆け巡りだした人生観だが、直近で思い出し身体から恐怖を奪った顔にはヤギの角が生えていた。アレだけ親身にしておいて、ひょっとしてまたあの顔で新しい魂でも拾って、何事もなかったかのように人間を玩具にするかのように、あの零子とやらで改造するのだ。『オレ』のことも当たれば嬉しい宝くじ程度の期待しかなかったに違いない。なぜだかひどく、腹がたった。怒りが恐怖を奪って食ったのと同時に、気がつけば二本の脚はまっすぐと立ち上がっていた。熊にはご法度な睨むような眼差しを返すと、熊もまた足を止めて青筋を立てながら、多分笑う。
『…ほぉん。チビって観念したかと思ったけェ、まぁだ諦めんのかいね』
ちょっとは愉快と思ってくれたのだろう。挑戦心を煽られたか彼の動きを見ている。慢心である。力の差は歴然。だからこそ、小さいものがみせる反抗とやらに興味があったのかもしれない。何をされても関係がないと思い切っているからこその余裕。
捕食者を前に弱者は笑わなかった。ただ身長差を物ともせずに睨み返し、傲然と決意を浴びせかける。
「冗談は寄せ。オレの人生は渡さない。そんな価値、貴様には無い。」